あのときのぼくは「待つ」を豪遊していた、って話
真夏の山梨県を1人で旅行したときのこと。
その日の目的を全て果たし、そろそろホテルに帰ろうと富士急行線のとある駅に向かった。
富士急行線はなかなか電車の数が少ないらしく、次の電車まで30分ほど時間があった。
寂れた駅にはぼく一人しかいないようだった。
日は傾き始めていたが、まだまだ気温が下がる気配はなかった。
山の中の駅なだけあって、蝉も随分と騒がしかったのを鮮明に覚えている。
さて、あと30分をどう過ごそうか。
せっかくだから、少しその辺を散策しようか。
それとも、駅で待とうか。
ひどく喉が渇いていたし、ほぼ一日中歩きっぱなしだったせいか脚には疲労も溜まっていた。
通ってきた道を思い返す。観光場所はおろか、コンビニもなかったはずだ。
そうなると選択肢は一つしかない。
ぼくは駅のホームで待つことにした。
駅の入り口にポツンと立っていた自動販売機で水を買い、無人改札機を抜けてホームのベンチに座る。そして勢いよくペットボトルの蓋を開け水を口に含むと、焼けつくような喉の渇きがたちまち潤うのを感じた。あんなに水が美味く感じたのは人生で初めてだった。
それからは、ぼんやりと空を眺めていた。
雲が風に運ばれ気持ちよさそうに漂っていった。
雀が二匹、付かず離れずで飛び去っていった。つがいだったらいいな、なんて思った。
ぼくの体は、自然に溶け込んでいるかのように弛緩していた。なんとも心地よい時間だった。
太陽の熱気も額から流れる汗も、蝉の求愛の声も電車の少なさも、あのときのぼくは全てを許していたんだろう。
あのときのぼくは、過ぎゆく時間の流れを楽しんでいた。「待つ」を贅沢に楽しんでいた。
今日、人混みの中で電車を待ちながら、ふとその旅のことを思い出していた。次の電車まであと5分。たったの5分。だけどなによりも嫌いな5分。
同じ「待つ」のはずなのに、どうしてこんなに違うんだ。
いつだったか、ビールのおいしい注ぎ方というのを聞いたことがある。
まず、高いところから勢いよく、溢れそうになるくらいまで注ぐ。そうすると、グラスのほとんどが泡になるからしばらく待つ。そして泡が収まってから、残りを少しずつ注ぐ。
こうすると美味しい。らしい。
その光景は実に美しいのだろう。真っ白い泡がぷちぷちと弾けて消えてゆき、金色に輝く液体がゆっくりと上がってくるのが目に浮かぶ。グラスの向こう側はまるで黄金郷のように輝いている。
でもこんな飲み方、喉が渇き切っているときにはできない。待てない。そんな余裕なんてない。
たぶん、時間にも気持ちにも余裕があるときはどんなことでも楽しめるんだろう。大抵のことは許せてしまうんだろう。
いつだって余裕のある自分でいたいものだ。
どんなことでも楽しめる自分でいたいものだ。