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神楽坂デイドリーム  作者: 髙田龍
3/5

熱海湯

『熱海湯』が営業をしている。

勝手に思っていた事ではあるが、私はとっくに店じまいしているものだと思っていた。

『熱海湯』の現在を知って私の気持ちは弾んだ。

それは、私がかつてあの街に住んでいたからなのだろう。

小学校の四年生の頃、神楽坂に住むようになって大学生になる頃まで暮らしていた。

 私にとって思春期から青春期、様々な経験をした場所と言える。

想い出も数多い。

そんな思い出深い神楽坂なのに、二十歳を過ぎてから今日迄、近くの街には仕事で行ったりもしたが神楽坂へは行かなかった。

そして長い年月をかけて、神楽坂は面積を拡げていった。

 地図の上での事だったが。

私の住んでいた頃には別の町名だった辺りが気がついてみると神楽坂になっている、そんな経験をしたことが何度かあった。

地図上で新しく神楽坂になった町は私にとって神楽坂では無かった。

その変わり続ける神楽坂で、『熱海湯』が今も営業している。

嬉しかった。


 電子タバコを口に咥え息を吐く、白い煙が部屋の中へ拡がる。

その煙を目で追いながら、神楽坂にいつ行こうかと考えていた。

最近、思い立った事を行動に移すのに時間がかかる。

忘れてしまう事もある。

熟慮しているという訳ではない。


飲もうと淹れたコーヒーをすっかり冷めてしまうまで食卓に置きっぱなしにする。

他に用事がある訳ではない。

これが老化現象というものか。


 神楽坂にはいつ行こうか。

これも思いついてから四、五日は過ぎている。

まさに今、テーブルの上に置いたまま冷めてしまったコーヒーを飲んでいる。

 三日後。

私は外堀通り側の神楽坂の入り口に立っていた。

あたりに目をやっても記憶にある建物はない。

坂の右手に在った《佳作座》はパチンコ店になっていた。

私は《佳作座》でいったい何本の映画を観たのだろう。

おそらく相当な数だったはず。

あの頃、大学生を中心にいつも佳作座は賑わっていた。

神楽坂の周辺にはいくつもの大学があり、映画は若者の娯楽の上位にあった。

 左手に在った田原屋も失くなっていた。

洒落たフルーツパーラーだった。

大人ぶって背伸びをして中に入った。

その日のことを今も憶えている。

田原屋でコーラを飲んだだけで少し大人に近づいたような気分だった。


 さてこれから何処へ向かおう坂の両側に記憶のある店は無い。

熱海湯を見つけよう、それが今回一番の目的だから。

たしか、ここを曲がれば緩い上りの路が続いていてまだやっているなら八百屋があって豆腐屋がある、その一軒先が熱海湯だ。

私はそう思える路地を曲がった。

昔とはまったく違う風景が拡がっている。

道幅は狭くなったように感じるが、これは気のせいだろう。

過去に道幅の広い処と記憶していた場所に行ってみると、そうでもなかったという経験を何度もして来た。

緩い上りが右や左にくねっているのは同じだ、私はこれを行けば熱海湯に辿り着くと確信した。

熱海湯か、懐かしいなぁとひとり呟きながら進むが先の方は暗い。

周りに軒を連ねる店も無く、後ろから聞こえていた神楽坂の喧騒もいつの間にかしなくなっている。

なんでなんだろう、それに街灯が点灯していない。

変だ。

私は思い出した。

同じだ、あの日と。

その時だった。


 前方から誰かが走ってくる気配を感じた。

足音が響く、それに続いて荒いが正確な息遣い。

まだ姿は見えないが近づいているのは間違いない。

姿が見えた。

凄い勢いで走ってくる。

 学生服を着ている、まだ少年だ。

その少年が私の直ぐ横を通り過ぎる時、学生服の色が黒色でないことに気がつく。

黒色でなく淡い紺色だった。


何を慌てているんだろう。

学校に遅刻しそうなのか。

こんな時間に学校ってないだろう。

少年の急いでいる理由を想像する私は、気がついていた。

高校生の頃、私は毎日この道を走り飯田橋駅に向かっていた。

私の高校の制服の色は黒ではなかった、走り去った少年の着ている色と同じだ。

あの少年は私だ。

また説明のつかない処に来てしまったのかも知れない。

走り去る少年を振り返ってみたが、もう姿は見えなかった。

膝の痛みが気になる私は、自分が走れないことが腹立たしかった。

中学、高校と短距離を得意としていた自分が歩くことさえ満足にいかない。

こんな悔しいことがあるか。

情け無いの一言だった。

 外堀通りも駆け抜け、今頃は改札を抜けて長い通路を走り駅のホームに着いただろう。

あの頃の私がそうだったように。


        


        
















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