*プロローグ*
「夜分に申し訳ありません。愛坂警察です。少しお時間よろしいでしょうか」
時刻はちょうど九時、いや二十一時を回った少し遅めの時間。
私は食べていた食後のデザートにしばしの別れを告げて、こんな誘いに応じる羽目に――……げふんげふん、ありがたく応じさせていただくことになった。
はい、と簡潔に返事をしてからインターホンを離れ、リビングのドアをくぐり玄関まで歩く。そして外と通じるドアの鍵を上下五つ開錠してハンドルを押せば、夜らしい冷たい外気が露出した素肌を撫でた。
冬に思い入れのある私はその寒さを懐かしみかけ、しかしすぐに、玄関先に待ち構える男性と目が合い慌てて後ろ手にドアを閉めながら頭を下げる。
「お待たせしてすみません……我が家にどのようなご用件でしょうか?」
テレビでよく見る警察官の制服に身を包んだ中肉中背の男性は、出てきた私を見て少し面食らったような顔をしながらもピシッと背筋を伸ばしてお辞儀をした。
その反応に、何も顔についていないと分かりつつも、つい頬を擦ってしまう。もちろん特に何もついていなかったが。
「いえ、滅相もございません。こちらこそ、このような夜分に……あぁ、確認もかねて申し上げさせていただきますと、私共はこういうものですので、どうぞご安心を」
そう言って男と、その後ろに控える同じ服装の女性が差し出したのは、刑事ドラマでよく見るあれだった。
……一応先に説明しておくが、目に入らぬかーとかいう決め台詞とともにおじいさんの懐から出されるあれではない。
個人情報が書かれているものを、いくら差し出されているとはいえじろじろと見続けるのもどうかと思い、私は早々に目を離した。
巡回で警察が家を回ることはあるにしろ、私のような一介の学生が警察と対面で話すことは、極めて稀なことだと思う。けれど私にはその稀な枠の中に、稀でも偶然でもなく入ることになってしまった出来事に心当たりがあった。
というか正直に言うと何個かある。警察に絡まれそうな心当たりがいくつか。
そんなことをぼんやりと考える私の姿を、身分証に興味をなくしたのだと思ったのか、疲れを顔ににじませた女性警察官が片手で身分証をしまいながら私のほうに近づいてきた。
手元をよく見れば、それと逆の手には薄い写真が握られていて、それが本題だったのだと察する。
「この人物に見覚えはありませんか?」
女性警察官は、その写真を我が家の玄関のライトに上手に照らして掲げながらそう言った。
口はそう告げていたが、偽善者の笑みをたたえたその顔は、見覚えがあるでしょう――と、言いたくて仕方がないように思えて仕方がなかった。しかし不信感を抱きすぎて、こちらの顔も余計なことを話してしまっては本末転倒。余計なことは考えないほうが吉だ。
――そういえば彼は、フェアな勝負を持ち掛けたがる奴は多いが、実際にフェアだった勝負は滅多にないと笑っていたことがあったっけ。
「えっと……こちらの、男性の方ですか……?」
「! ……えぇ、性別は男と聞いています」
――だからきっと、この勝負もフェアである必要なんてない。
私はさも、目の前にぶら下げられた非日常に釣られたJKのように、まじまじと写真を覗き込んだ。
文明の利器により美しく現像されたその写真には、決して美しくはない――ある層には、美しいと感嘆の声を漏らす人もいるかもしれないが、残念ながら私にそういう趣味はないので割愛する――男が写っていた。
長い黒髪が汗でこびりついている額からは血を流し、何かがかすった痕の残る頬や、惜しげもなくさらされた腹筋を飾る一筋の古傷が、彼が歩んできた道の茨具合を熱く物語っている。
「うっ、わぁ……なにこれ……」
けれどそれより何より私の目を引いたのは、肩に軽く掛けられもはや上着としての役割を果たしていないジャケットについたおびただしい量の血だった。返り血にせよ何にせよ、アニメでも滅多にお目にかからないような飛び散り方をしている。
思わず演技を忘れて声をあげてしまったが、それほどまでにグロテスクであまりに見慣れなさすぎる光景だった。そのジャケットを着る男性を見慣れているからこそ、余計にその光景が記憶と誤差がありすぎて見慣れない。
「あ……申し訳ありません。年頃の女性の方に見せるのにはふさわしくありませんでしたね」
そう言って女性警察官は突然、我を取り戻したようにその写真を懐にしまった。
どうやら意図せず発してしまったさっきのドン引きした声で、私は全くもってこの男性とは面識がなく、それどころかその写真に恐怖を感じたと思ってもらえたらしい。
いや、まぁ確かに恐怖は感じた。あれだけのことを楽しんで出来てしまう彼の精神力に。
「あっ……いえ…その、お役に立てず申し訳ありません……」
とりあえず、これ幸いと私はかよわい世間知らずな少女に路線変更することにした。写真の彼と比べれば私だってか弱い女子の枠に入れるはずである。
私のあからさまな返答に、早くも私からは有益な情報は得られないと悟ったのであろう。
二人の警察官は顔を見合わせると私によくできた愛想笑いを返した。
「いえ、ご協力感謝いたします」
帰宅の雰囲気を匂わせ始めた二人に、もう一押しとばかりにまだ少し湿っている髪を見せつけるように耳にかける。少しひんやりとするその感触に、そういえば外で話すにしては薄着で来てしまったな、とどこか他人事のように考えていた。
言いたいことを察したのであろう女性警察官は先ほどの威勢はどこへやら、被っている帽子の鍔を握って慌てて頭を下げた。
……今気づいたが、女性警察官のほうが立場が上なのだろうか。彼女がお辞儀するのを見て、まるで母親の真似でもするかのように男性警察官も頭を下げていた。今の話に全く関係ないけども。
「このような遅い時間に押しかけてしまい申し訳ありません」
と、女性警察官。
「先ほどの男はついこの間、このあたりで目撃情報がありましたので、見かけた場合は近づかず警察に連絡していただけると大変助かります」
と、多分そんなことだろうなと思っていた内容を男性警察官が付け足した。
「はい、分かりました。夜遅くまでお疲れ様です」
私はそれに、ぎこちない笑顔で頷きを返したのだった。
――きっとこれが、一般市民の最も模範的な回答だろう。
――ガチャンッと、五つ目の鍵を閉め終えた私は、玄関に入ってようやく詰めていた息を静かに吐き出した。
「はぁ~……緊張したあぁ……」
そう隠していた本音を漏らした途端、何かがふわりと肩にかけられる。
「! ……まお?」
驚いて振り返れば、最近は見慣れるどころか癒しとなりつつある金髪がふわりと眼前で揺れていた。
「はい、私ですよ。お疲れさまでした、綴」
「うん、ありが――って、ちょ、茉緒!」
家族を見てほっと息をつく間もなく、茉緒は肩にかけたブランケットごと私を抱きしめた。そしてもう子どもではないというのに、まるで母親が子にするように私の頭を撫でてくる。
――しかし、それは私をあやすようではなく、私がいることを確認するかのようであることに気づいてしまった私は、恥ずかしさを押し込め、黙ってそれを受け入れることにした。
と、気前よく言ったはいいものの、数分間茉緒が動かないため、だんだんと立っていた足が辛くなってくる。
「茉緒、私デザート食べていい? せっかく作ってくれたから、最後まで食べたいな」
茉緒はいつの間にか玄関の段差を降りて土足部分まで来ていたようで、身長の近い茉緒の頭はすぐ近くにあった。日本人離れした容姿に似合う翠眼は、何かが気に食わなかったのかいまだ固く閉じられている。
ややあって、茉緒はその透き通った低音をようやく響かせてくれた。
「綴が……野郎どもに何かされないか心配でした」
「まさか! 大丈夫だよ、相手は警察だもの。人目のあるところで変なことするわけないよ」
私が知らない人と話すと発動されることの多いその弱まった声に苦笑しつつ、手持無沙汰な私は、ゆらゆらとゆりかごのように体を揺らしながら答える。
けれどすぐに、茉緒が発した言葉から、彼は私が知らない人と話したからではなく、あの警察官と話したことに不安を覚えていたのだと、自分の勘違いに気づくことになった。
「だって、綴は彼らの欲しい情報を匿っているではないですか」
「……うん」
――私は、茉緒の言う通り、警察が探していたあの男のことを知っている。
それもただ知っているだけではなく、彼が今どこにいるかも知っている。茉緒の言葉の意味通り、今現在、彼本人を匿って、いや、正確には飼っているから。
その上、私に写真を見せたあの女性は恐らく、というか九割方この家と彼が関わりを持つことに確信を持っていたと思う。しかし、彼らは住居人のことまでは調べがついておらず、思ったより若く、写真の血に怯えるほど――実際はドン引きしただけだが――そういうことに慣れていない雰囲気だったため、確信に少しの揺らぎが生じた。
今回は、夜も遅かったし私が寒そうな服を着ていたのもあり、運よく一時撤退を促すことができただけで。もしも、演技が失敗していたら――……
つまり、茉緒は私の嘘がバレて、警察に彼の情報を与えるため、あわよくば彼をおびき寄せるための一種の人質として連れていかれることを心配していたのだ。
まぁ多分、茉緒も茉緒で警察の前には出られない事情があるから、何か起きる前に自分が手を出せないからこその心配なのだろう。
「本当、心配性だねぇ、茉緒は。大丈夫だよ。だって何かあったら守ってくれるでしょう?」
私は茉緒に笑いかけようと後ろを振り向いたのだが、いつの間に近くに来ていたのか長い黒髪を濡らした彼と目が合った。するとまるでそれを待ち構えていたかのように彼はこちらまで来ると、茉緒の首根っこをつかんで私から引きはがす。茉緒が怒るかと思ったが、さすが、気配に気づいていたらしく、眉ひとつ動かさなかった。
「あぁ、勿論。番犬として飼い主くらい守ってなんぼだろ」
黒髪の彼――夕にいは、そう言って悪そうな、けれど危険な魅力のある笑みを見せる。
「えぇ、綴に害をなすものにはきちんと制裁を加えなくては」
茉緒はその目に蛇のような鋭さを宿しながら笑った。
――私が二人に出会ったのは今から約一年前のこと。
夕にいに関しては実際はもっと昔なのだがそれは置いておくとして。
容姿を見れば分かる通り、私たちは血のつながった家族ではない。ちなみに義理の兄弟というわけでもない。私の両親の仲は良好で、詳しくは知らないが多分毎時間ともにいると思う……喧嘩していなければ、の話ではあるが。
私たちの関係を簡単に説明するなら、こうだ。
――捨て犬とそれを拾った飼い主。
勘違いされないよう先手を打たせてもらうと、断じて私が捨て犬ではない。若干捨て犬というか放置されている感は否めないが、一応飼い犬にあたるはずだ。家あるし。
もう言わなくてもわかるとは思うが、捨て犬とは彼ら、茉緒と夕にいのことである。
――私が二人に出会ったのは、いや、二人を拾ったのは今から約一年前のこと。
これは、私たちが出会い、時に遊び、時に危険と隣り合わせになりつつも、互いに支えあいながら共に過ごした一年間を綴った物語である。
お読みくださりありがとうございます。
追記:漢数字に統一しました。