第5話 4月3日 大森郁人
独身生活が長かったせいで家事は得意だった。36歳になる大森郁人は、なんとか5年前に結婚し子供までできたのに、単身赴任となり、再び家事も1人でしている。
郁人にとって家族は宝だ。何物にも代えがたい存在。郁人の転勤がが決まった時に、共働きの妻が仕事をやめ、ついていくという選択はなかった。
新幹線の駅も高速道路までも遠い支店に配属になった郁人は、それこそ転勤当初は1ヶ月にいっぺんは家に帰っていたが、その間隔は年月の経過とともに開いていく。
300㎞という距離は近くて遠い距離だった。行きはともかく帰るのがかなり億劫に感じるようになると、行こうという気持ちもなかなか起きなくなる。
妻も最初は頻繁に電話をしてきたが、最近では掛かってくることすらない。
週末、郁人からスマホでテレビ電話をし、子供の成長を見て満足する、というルーチンができあがると、郁人は、子供にとっても『画面の中の人』程度のような存在になっていった。
妻は『桜子』、娘は『愛莉』
妻と話しても最近は『文句』と『嫌味』しか言わない。『いつ帰ってくるの』『育児がない人はいいわね』それでも、郁人は辛抱強く話を聞き、頷き、愛想笑いをする。
『あと1年いれば戻れる』という話を去年も聞き、今年も帰れないまま同じ支店の3年目を迎えることになった。
当然転勤がないことを告げられた、つい1ヶ月前にも尽きることのない妻の愚痴を聞かされた。
「俺が悪いことをしているのかなあ」と勘違いしてしまうほど、どす黒い悪感情が胸を渦巻いたがそんなことは決して言わず、ただただ愛想笑いを浮かべるしかなかった。
4月1日に起こったマンションのことについてはまだ知らせていない。どうせ信じてもらえないような気がしたし、自分のせいではないのにまた怒られるだけのような気がしたからだ。
その日の夜、コップを洗っていると、持っていたはずのコップが手から落下した。「台所洗剤で滑った」と思った郁人が反射的に右手を伸ばすと、その手は台所のシンクに手首までめり込んだ。
実際はめり込んだのではなく『煙となった』手が、コップを取ろうとした勢いで飛び散ったのだったが。
「うわっ」
急いで手を引っ込めると、一瞬遅れてガス状となった手がついてきて元に戻った。
左手で右手の具合を確かめる。いつもと変わらない。
「精神的に疲れてんのかな」
早めに寝ることにし、布団に入る。寝ようとした時に、頭が枕を貫通した。
まだまだ上手くはいかないが、どうやら任意に体の一部を煙状に変えられるらしいとわかったのは次の日だった。最初は『死んで幽霊になったから実体がなくなったのか』とも思ったが、そうではないらしい。
同時に体全体を煙にできるのではないらしく、ドアの隙間から移動を試みたが、足を最後にすれば足が引っかかり、手を残せば最後に手がひっかかり体全体を『隙間から移動する』ということは叶わなかった。
浜松晃彦に殴り掛かられた時も、理想としては体全体を煙にして『全てのダメージを回避する』か『隙間から他の場所へ逃げる』ことができればよかったのだが、上半身のみへの対応に終われ、太ももへの蹴りを食らってしまった。
腹を蹴ってくるのは見えたので、煙になり受け流したあと解除し胴体に晃彦の足を固定したあと、立ち上がってひっくり返すことに成功した。
一瞬ではあるが、体内に他のやつの足があった状態になったことでのダメージや痛みはなかったが、気持ちが悪かった。
喧嘩などしたことがない大森にとって、今の状態でできることは逃げることだ。とにかく逃げて、こいつらを外に追い出し二度とドアを開けないこと。
そのためには、自分がまずドアの外に出ること。
ドアと大森の間には2人がいるが、体のほとんどを煙ににしてすり抜けられると思った。男はまだ手を着いて倒れているし、もう1人は女だ。
走って玄関までいく、女が掴み掛かってきたが、上半身は煙だ。すり抜ける。ドアを開けて外に飛び出す。追いかけて2人が出てきたら、なんとかしてまた戻りたい。
作戦は半分上手くいき、半分失敗だ。女だけが追いかけてきた。男が家から出てこない。
距離をとって時間を稼ぎたい。
ちょうどエレベーターが閉まるところだった。303の稲森が立花のいる404に行った帰り。女が追いかけてくる。やっと男も部屋から出てきたところだった。
一瞬でも早く乗り込むため『開ボタン』は押さず体を煙にする。体の1部は残ってしまうが、残った部分を先にエレベーター内に入れた。残りは煙だ。完全に閉まったドアに滑り込む。
追いかけてきた2人の舌打ちと罵声が聞こえる。
しかし、どこに逃げろというのか。とりあえず1階を押した。先回りさえされなければまだ階段もある。
1階までエレベーターで降りるが、階段を使って追いかけてくる足音は聞こえなかった。
このマンションは、エレベーター一基と、階段は2箇所。3通りのルートがあれば2人だけでは抜け道は必ずあるはず。
慎重に自分の部屋からは離れた階段を昇る。大森の部屋は301。304側の階段だ。
3階までやつらはいなかった。エレベーターの中も確認しながら横切り部屋に近づくと、部屋に近い方の階段から走る音がした。やはり隠れていた。
男か、女か。女の方なら突っ切ってしまおうと思った。
目の前に現れたのは男の方だった。瞬間的に引き返すほうを選択した。しかし、本当はまだ完全に能力を把握されていた訳ではないので、すり抜けるのが正解だった。
エレベーターは使えない。間に合わない。素通りしてもう1つの階段までくると、足音が聞こえる。挟み撃ちだ。しかし、ここは女が来るはずなのですり抜けようと思った。
現れたのは同じ男だった。思わず振り返って確認したが、前にも後ろにも同じ男がいた。
部屋の近くにいた方が『変化』をした睦美だった。すり抜けるべきだった。
あとから出てきたやつが「ふっ」と息を吐いた。煙にしていた上半身が吹き飛んだ。実体のままなら即死か。
慌てて部屋の方にダッシュをする。最初にいたやつは単に拳を振り回してきた。当たらない。すり抜けドアの前まで来たが、男も追いついていた。ドアを開ける暇がなかった。
「腕を捨てるしかない」と思った。
ドアを開けずに、煙となって中に入る。右手首から先だけが外に残っていた。鍵を閉める。次の瞬間、その右手は実体のまま吹き飛ばれた。
【ハンマーブレス】の直撃だった。
激痛が走り、引っかかっていた右手がなくなったことで、部屋の中に転がり倒れる。
ドアを叩く音が暫く続いた。ドアを壊すことはできないようだった。
手首の上をなんとか縛り、大量の服やらをつかって止血を試みるが出血は止まらなかった。大森は明確に『死』を意識した。
「ううう……桜子……愛梨……」
『こんなことで死んでしまってはまた怒られそうだ』とは思いながらも、最後に声を聞きたかった。顔を見たかった。
血だらけの左手で桜子に電話をした。
しかし、何度かけても留守電になるだけで、郁人の生きている間に桜子が電話にでることはなかった。




