第4話 4月3日 浜松晃彦・睦美
意識して息を吐くとそれがまるで拳のように攻撃力を持つことに気づいた。
【ハンマーブレス】と仮に呼ぶことにした。
目には見えないが鉄のハンマーで殴ったような衝撃がある。
302に住む浜松晃彦は、この攻撃を誰か人に向けて使ってみたくてしょうがなかった。ねじ伏せたかった。
生まれた家は暴力にまみれていた。父親も母親も育児の名のもとに晃彦を常に殴りつけた。思い出せる限りで1番古い記憶は、4歳の時に母親に殴られているものだ。
自分がどうして殴られることになったのかは思い出せなかったが、とにかく「怖い」という思いと「どうして」という思いと「またか」という思いが途切れ途切れに胸によぎるので、その前から殴られていたのだろう。
28歳となった今でも、胸を締め付けるようなその思いは繰り返し夢にまで見る。「後悔」でもなく「自分の失敗」でもないのに、この惨めな気持ちはなんだ。
父親は散々晃彦を殴りつけ、晃彦が殴り返すチャンスが訪れる前に酒の飲みすぎでとっとと死んだ。晃彦が10歳の時だ。父親の亡骸を見て、やって開放されたと思ったがそれ以上の感覚はなかった。
金もなく、食べ物もなく、母親も滅多に家に帰ってこなかった。従って食べ物を盗み、金を盗み、物を盗んで食いつないだ。
母親が帰ってこなくなったのは、他に男を作ったせいもあるが、成長した晃彦が母親を逆に殴るようになったせいもあるだろう。
初めて母親を殴り倒した時はなんとも言えない悦楽を感じた。暴力によって他人をねじ伏せ、言うことを聞かせるのは簡単なことだった。ただひたすらシンプルな構造だと思った。弱いものは強いものの言いなりになる。親がやっていたことはこれなのか、と思った。
悪いことをしているうちに仲間ができた。その繋がりで地元の悪い先輩のところに入り浸り、悪いことをたくさん教えてもらった。集団で遊び、集団で盗み、集団で暴れた。
特に喧嘩はたくさんした。自分が喧嘩に勝つことで、過去の恐怖に打ち勝とうとしていることは気付かないふりをした。
そして、確かに喧嘩をしている間だけは全てを忘れることができた。勝つことが全てだったので、卑怯な手も遠慮なく使った。待ち伏せ、囲み、不意打ちは当たり前で、急所から狙ったし、凶器もあらゆるものを使い半殺しにした。
時には骨を折られたりボコボコにされることもあったが、怖いとも思わなかったし、この生活から抜け出そうとは思わなかった。生死を共にした『絆』のような仲間意識は強固であったし、そもそも帰るところがなかった。
母親はいつの間にか蒸発し、久しぶりに立ち寄った家はもぬけの殻で誰も住んでいなかった。
大金が絡んだいざこざで裏切られ、ナイフで刺されるまでそんな生活をしていた。刺されたあとはなんとなく居づらさを感じ人間関係は変化していった。
前科も前歴も関係ない職場に務めた。仕事に面白さを感じ出してからは喧嘩はしなくなっていった。
今でも時々殴り合いたいという衝撃に駆られることはあったが、今回マンションがバリアに囲まれて時に、自分がおかしな能力を発動していることに気づいた。
暇に任せてベランダからバリアを殴っていた時のことである。荒くなった息を吐く時、そのタイミングに合わせてバリアが凹んでいることに気づいたのだ。
そこで、何気なしにベランダの柵に向かって息を吐くと、激しい音と共に鉄骨が凹んだ。おや、と思って繰り返したが結果は同じだった。ベランダの柵が全てボコボコになるまでやってみた。
これは拳で殴るよりよっぽど威力がある。ちょうど鉄製のハンマーで殴った時と同じくらいのダメージに見えた。しかもその攻撃は見えない。不意打ちには持ってこいだった。
喧嘩を売られて、胸ぐらを掴んできた目の前の相手を、息を吐くだけでKOできる。おそらく顔面はぐちゃぐちゃになるレベルだ。
「喧嘩がしたい」という思いが再び込み上げ、もはや我慢できないところまで来ていた。
浜松晃彦は結婚している。妻は睦美。悪い先輩ルートで知り合ったいわば同類だ。睦美もまた好きなことをして生きてきた女だった。
家にはお金があり、親もエリートであったが睦美がとにかく頭が悪かった。地域で1番偏差値の低い高校に入り、2日でやめた。あとは悪い友達と昼夜逆転の生活を延々としていた。
自分が頭が悪いことを親のせいにして、金をせびり、ただ浪費をした。極端な刹那主義で生きていたので努力は一切してこなかった。
男遊びも激しく、当然危ない目にも何度もあっていたし、レイプされたこともあったが懲りなかった。そんな時に助けてくれたのが晃彦で、なんとなく気があったのでそのまま結婚した。過去のことは全く気にしないでくれた。
睦美の手に入れた能力は『誰にでもそっくりに化けられる』ことであった。顔だけでなく体型や身長ですら変えることができるようになっていた。
テレビを見ながら「あーこんなアイドルになってみたいわね」と言ったら変化していた。
隣にいた晃彦が「久しぶりにびっくりした」と言う。
色々試してみると、映像や本人を目の前にするのが1番よいが、イメージするだけでもある程度変わることができた。
もちろん男性にも変わることができたので、確認してみると男性器まで再現されており、自分がペニスをつけていることは不思議な感じがした。
晃彦がお気に入りの女優に変化してセックスをしたいと言ってきたが、それはなんか悔しかったので断った。
浜松家にも非常用の食べ物は届いていたが、元々あんまり物を食べないで酒ばかり飲んでいる2人なので、食べ物の残りは全く把握していない。
「なあ、久しぶりに喧嘩がしてえんだけど。というか、人を殴りてえ。さらにいうなら能力を試してえ」
「え、誰にすんの? マンション内だとやばくね? 」
「それなんだけどさ、マンションがなんか囲まれてんじゃん? サツとかどうせ来れないだろうから、誰でもいいから今のうちにやっちまおうかと。能力を」
「そーかー、アッキーがそれでいいならいいんじゃない? なんか手伝う? 」
「あ、そだな。いきなりドアスコープから俺が見えてたらドア開けてくんないだろうからさ、なんか睦美が美人に化けてれば開けてくれんじゃねーかと」
「美人なら化けなくてもいいじゃん」
「自分で言うな」
ということで話がまとまり、誰でもいいから襲うことにした。通り魔的な発想だが誰も止める人はいない。
ジャンケンで晃彦が勝って、301に行くことにした。睦美が勝っていたら、303に行くことになっていたのだが、そうしたら立花の同級生の稲森がやられていたことになるが、それはあくまで偶然の結果でしかなかった。
301には大森郁人という36歳の独身男性が住んでいる。
ドア横のインターホンを睦美が押す。テレビドラマの脇役でまだ売れてはいないがかなりの美人に変化している。
「すいませーん、お隣の者なんですけどー」
猫なで声で、できるだけ媚びるような口調で訴えかける。
ドアスコープで確認した大森が安心しきってドアを開けた瞬間、晃彦は靴を滑り込ませ、力任せにドアを開け部屋に入り込んだ。続けて睦美も入り込みドアの鍵を閉める。
「なんだ、おまえ! 何してんだよ! 」
驚きが先行し、どうするべきか判断がつかない取れない大森。玄関からキッチンまでまで後ずさりする。
「なんでもいいんだよ」と晃彦は大森を殴りつけた。自然と最短のモーションでストレートが出た。
が、そのパンチは当たらなかった。いや、当たったはずだが拳は大森をすり抜けた。
「あれ」と思ったが、もう一歩踏み込んでさらに腰を捻りながら左からのフック。再度すり抜ける。
晃彦は、左腕を戻しながら右のつま先で太ももを狙った。手応えがあった。蹲る大森の頭に目掛け、左からの蹴り。またすり抜ける。
『頭に当たり判定がない? 』と判断し、胴体に前蹴りを入れると、当たったはずがすり抜け、その直後足首を掴まれたような状態になった。
大森が立ち上がると、足を持って引っ繰り返された状態で晃彦は後ろに転んだ。
その時一瞬だけ見えたのは、脛の半分まで大森の胴体にめり込んでいた、ということであった。
晃彦の足は手で掴まれたのではなく、胴体をすり抜けそこで固定されたのだった。
大森の能力は、『体の一部を煙に変えられる』ものであった。




