第3話 4月4日 小林穂乃香
204の住人小林穂乃香は夫の両親が大嫌いだった。特に母親が。
見栄を張り、外面だけがよく、裏では嫁である穂乃香を罵る。穂乃果の夫の小林渉は優しいが、気が弱く親にべったりだ。
マザコンとまではいかないまでも、両親を盲信している。穂乃香が両親の文句を言っても「偶々じゃないの? 」「気にしすぎだって」「それは穂乃香が悪かったんじゃないの? 」と本気でとりあってくれない。
特によくある話ではあるが「孫はまだなの? 」という質問が穂乃香のプライドをいつもズタズタにした。「何か問題があるなら病院に行ったら? 」と散々言われるが、『セックスレス』なのだから出来るわけがない。
結婚して3年が経つが、夫婦関係があったのは1年もなかった。元々性的に強くなかった夫はEDになった。少なくとも穂乃香が相手の時は。
「いやあ、もう家族になっちゃうとなかなかその気にならなくて」
とは言うものの母親に対しては「おれは頑張ってるんだけどねえ」とか言い腐る。嘘つきやがれ。人のせいにすんな。
その両親からの文句は、多くは盆正月だけのことであり、我慢を重ねてきたが、なんとこの両親「近くにいた方が世話もできるから」と同じマンションに引っ越してきた。
穂乃香は絶望した。
スープの冷めない距離というが、この母親は『スープ』とか作らねえ。いつもクソマズ下手くそ料理しか作らねえ。
持ってこなくていい。おすそ分けとかいらない。生ゴミ増えるだけ。
「何かあった時のために合鍵を」と言われたが、これだけは死守した。知らない間に勝手に入って掃除とか有り得ない。
できるだけ距離を取りたいが、同じマンション。見張っているかのように買い物に行こうとするとそこにいる。
スーパーにいっても、あれこれアドバイス。
「野菜がもっと」「煮物はどうたら」「魚のメニューが」
うるせえって。お前より料理上手いし、黙ってろ。盲信している夫でさえ、母の料理の味には否定的だ。しかし、そんなことに気づくくらいの人なら最初から何も言ってこないし、まして引っ越してこないだろう。
『バリア』でマンションが囲まれた当日、ロビーで母親に会った。
「あら、穂乃香さん、困ったわね。こんなことになって」
「はあ」
「何が起こったのかしらねえ、まったく。買い物を行けないけど、昨日なにかたくさん非常用の食べ物が送られて来たのよね。これで暫く助かるわ。穂乃香さん、あなたの家は買い置きとかちゃんとしてあるかしら? 普段から常に色々なことを……」
「うるせーなババア。今それどころじゃないから黙って家にいろ! 」
思わず言ってしまったあと、穂乃香は口を慌てて抑えた。
しかし、母親は「はい」と言ってそのままエレベーターに乗って行った。
いつもならグタグタ「そんなことだから」という説教を始めるのに、と思った。
夫の渉は気は弱いが家事は全くしないダメ男だ。実家にいる時に母親が全部やって上げていたのだろうというとが容易に想像できた。
マンションから出られなくなったが、お腹は空くので晩御飯を作って食べた。本当になんということもなく言った言葉だった
「家にいるんだから偶にはお皿でも洗って欲しいわね」
すると、渉は一も二もなく「はい」というと皿を洗い始めた。
珍しいこともあるものね、と「ついでにお風呂も洗って欲しいわね」というと、皿を洗い終わった渉は「はい」と言ってお風呂を洗った。
なんだろうと思いつつ寝る時に「久しぶりに今晩どう? 」というと渉は「はい」と本当に久しぶりにセックスをした。その時下から見上げた時の顔を見て初めて気づいた。
「この人は催眠状態だ」と。
穂乃香は色々試してみようと、セックスの体位についても注文をつけた。すると色々分かってきた。目を合わせて言うことには従うという事だった。『視線と言葉』によって相手を催眠状態にできる。
セックスが終わったあとについでにマッサージもさせてみた。夫は『迷い』も『遠慮』も『我慢』も『億劫さ』も何の感情もない表情だった。
そして、催眠状態から覚めても、催眠状態の間の出来事や行動にはなんの疑問も感じていなかった。
「これで、子供ができたらもうあのババアに嫌味を言われなくて済むわ。あ、でも、その前にあのババアは死ぬのか」と思った。
穂乃香の家にも非常用の食べ物が来ていた。しかし、2人で食べるとおそらく1ヶ月くらいしかもたない、と穂乃香はきちんと数を把握していた。
そして、あの母親はロビーで自分のところにも荷物が来た、と言っていた。
で、あれば、催眠術を掛け、『殺人』とはわからないように夫婦で殺しあって貰えばいい。そして、食べ物だけは貰っていく。
「今までの報いだ」
穂乃香には、そんな気持ちしかなかった。
マンションという閉鎖空間で、お互いに殺し合うとすれば、何が1番難しいか。それは、相手と対面することである。
窓から侵入するか、ドアをぶち壊すか。しかし、自分でドアを開けてくれればそれが1番簡単だ。
自分の子供の嫁。しかも、催眠術を使える穂乃香に失敗のイメージはなかった。ドアを開けない理由がない。
穂乃香は2日ほど夫でさらに色々試してみた。さすがに死なれては困るが、その直前で止めるまで夫は躊躇なく穂乃香の指示に従った。
首吊りのロープに実際に首を通したし、刃を外したカミソリを全力で手首にめり込ませた。
4月4日。午前中に決行することにした。特に緊張はしなかった。もし、最後までいかなくても催眠であったことを忘れてもらうだけだ。
出かける前に夫に告げる。
「あなたは、家で留守番。親のいる403には絶対に行かないこと。今後も含めてね。電話もしないこと」
「はい」
403のインターホンを押す。カメラ付きのインターホンではあるが、あくまで見えるのはマンション外のオートロックのところの様子だ。
「穂乃香です。お母さんちょっと」
というと、確認もなにもなくドアが開いた。しっかりと母親の目を見て言った。
「黙って中に上げて」
「はい」
父親も出てきた。
「おやおや、穂乃香さんこの家に来るのは初めてだね」
「少し黙ってて」
「はい」
父親も催眠状態にはいった。かなり効き目は強力だ。心配していたことは全てクリアした。両親ともに静かにして立っている。
「食べ物を全てここに出してきて」
「はい」
ダンボールだけでなく、その他の保存食や冷蔵庫の中から食べ物を出す。
今後の使い道はわからなかったが、有り金も全て出させた。
「じゃあ、お互いに向き合って」
「はい」
「はい」
2人にタオルを渡す。
「お互いの首を絞めて殺しなさい」
「はい」
「はい」
この方法であれば、自分の手は汚さずに済む。そして、タオルを使うことで、どちらかが失神してもタオルさえ緩まなければそのまま死ぬことになる。
2人は苦しそうな顔さえせず、声すら出さずお互いに首を絞め合い、死んだ。
倒れ込んだ2人をしばらく見下ろしていた穂乃香は、自分が後悔しているかを自問自答してみたが、そんな気は一切ないとはっきりと自覚していた。
嫌いな食べ物や、すぐ傷みそうなものは元に戻したが、それでも荷物を運ぶには自分の家と2往復をすることとなった。
最後に出る時、鍵を掛けるかどうか迷ったが、両手が塞がっていたし、とっとと見つかって大騒ぎになったあとどうなるかも知りたかったので、掛けずに家に帰った。
死体が発見されてもお互いに首を絞めあっての無理心中にしか見えない。もし、仮に警察が来たとしても、義理の娘の指紋が出てきた所でそれは証拠にはならない。
非常用の食べ物ですら、両親の指紋が残っていたとしても『私たちが管理を任された』ということにしてしまえばいい。
というか、別にそれで捕まってもいいというくらいの気持ちもあった。それほどまでに、穂乃香は自分がやったことの達成感に酔いしれていた。
3日後、この老夫婦の死体は立花夏彦によって発見されることとなる。




