第1話 4月7日 立花夏彦
「マンションの住人を殺す?めちゃくちゃなこと言ってるけど頭大丈夫? 」
立花若菜が声を上げた。
「シー! 声が大きいって 」
夫の立花夏彦が口に人差し指をあて、たしなめる。
「別に聞こえないわよ。部屋の中なんだから」
「いや、誰が聞いてるかわからんぞ。俺だってこうなってからぼんやりと『透視』まがいの能力を手に入れてるんだから」
「それにしても『殺す』ってーのは人としてどうなの? 本気? 」
「殺さなくてもいい『食べ物を奪う』でもいい。でも、取り返されることを考えたら最前の手はそれだ。そこに早く気づいたやつが生き残るし、実際に既に気づいてこうやって実行しているやつがいる」
「これって殺されてるの? 自然死じゃなくて? 」
目の前には死体が2体転がっている。腐敗のため酷い匂いがしている。発見した時は驚き慄いたが、しばらくいる内に慣れた。さすがに直視はしたくないし、手も触れたくないが、現実感がないし、なにせ相手は動かない。今は生きている人間の方がよっぽと怖い。
「どうやって殺したかはわからないが、食べ物が全てなくなっているんだから、殺しだろ」
警察に電話は繋がるが、何を言っても無駄だ。
電話を受けた警察に住所やマンション名を言うものの「そんな住所は存在しないし、近くにもそんなところはない」と言われる。こちらも真剣に話したので折り返しも何度か来たが、いい加減めんどくさくなって出るのをやめ携帯の電源も切った。
どっちにしろこのマンションからは誰も出られないし、入ってこられらない。
「現状では警察も、警察以外も何もできないし、緊急避難だよこれ。『カルネアデスの板』ってやつ」
「なにそれ」
「船が沈没した時に、1人しか掴まれない板に他のやつが掴まろうと来た時に、突き飛ばして水死させても無罪ってやつよ」
「へえー。で、この死体はどうするの? 」
若菜も嫌な顔はしているものの『死んでいる』ことや『殺す』ことに現実感が伴っていないように見えた。
「とりあえず手だけは合わせて、食べ物を探そう。なければ部屋を密閉してできるだけ匂いが外に漏れないようにはしたいが、ガムテープうんぬんまではやる暇はないだろう。早く自分の家に戻りたい。……あと、管理人さんには知らせるべきだろう。知らせるならなおさら変なことはしたくない」
―――――――――
異変があったのは1週間前だ。立花夫婦がこのマンションに引っ越ししてきた次の日。
出勤しようとしたら、マンションのロビーに人が集まっていた。何かと思いながらもオートロックの自動ドアをくぐると、もう1枚外側のガラス戸の外側には何もなかった。
いや、何もない訳ではなく『シャボン玉』のように7色に光るぶよぶよしたものにマンションが覆われていた。手で押してみると弾力があり、20cmくらいまでは押し込めるが跳ね返される。温度は感じない。
透明なように見えるが外は見えない。ぼやぼやとした色は見えるが、透けているのか反射しているのかはわからなかった。
「それ、出られませんよ」
声を掛けられた。引っ越しできたばかりなので、名前も顔も知らない。
「404に昨日引っ越してきた立花です。よろしくお願いします。これどうなってるんですか? 」
「僕は402の若月っていいます。朝来てみたらこうなっていたので、何がなにやら」
朝の7時半。現在ロビーにいるのは10人ちょっと。仕事に行こうとして足止めされている人、パジャマのままおそらく朝刊でも取りにきて気づいて様子見をしている老人。
職場に携帯で電話をして説明を何度も繰り返している人もいる。
見知った人を見つけた。高校時代の同級生『稲森隆太』だった。
特に親しくしてた訳ではないが、同じクラスだったので話したことはもちろんある。かなり優秀なやつだった。同窓会に出た時、確か銀行務めと言っていた記憶がある。声をかける。
「よう、稲森。同じマンションだったのか」
「お、なんだ立花じゃないか。おまえもここに住んでたの? 」
「昨日引っ越して来たばかりだよ。俺の部屋は404」
「そうなんだ。俺は303にいるよ」
「で、これ何が起こってるのかわかる? 訳はないか」
「まあ、わからんね。携帯はつながるし、電気も来てるんだけどね。とにかくマンションから出られない。裏口も行ってみたけど同じだし、部屋も戻ってみたけどベランダから外をみたら同じだった」
確かにマンションロビーの照明はついている。
「あー、起きたあと外は見てなかったな。わかった、ありがとう。俺もいったん部屋に戻るわ。あ、その前に携帯の番号交換しておこうか。あ、アドレスも」
「OK。なんかあったら電話かメールして」
夏彦は職場に電話をして経緯を説明するものの、一笑にふされ話が通じなかったので、とにかく有給ということで終わらせた。
部屋に戻ると、若菜は忘れ物でもしたのかという反応をしたが、事情を話すと半信半疑でベランダの窓を開けて外を見た。
夏彦は一緒に窓をあけ、ベランダに出てみた。ベランダの手すり外側から50cmから1mくらいのところに同じようにやはり『ぶよぶよ』が張り巡らせられていた。場所によって距離が違う。
手の届く所を押してみた。マンションの玄関と変わらず押し戻される。夏彦の住んでいるのはマンションの最上階。隙間から上を見上げてみると『ぶよぶよ』は屋上のカーブに合わせて同じようにマンション全体を包んでいるように見えた。
「閉じ込められた」と直感した。
確認をしてみると、インフラは全て生きている。水道、ガス、電気、電話、インターネット、全て今まで通り使える。ただ、人の出入りだけができない。
「そういえば、関係あるかどうかわからないけど、昨日引っ越し荷物を開けてたらこんなのあって」
「なに? 」
まだ、引っ越しの荷物は片付いていない。優先順位の高いものから開けていったが、まだ3分の1くらいしかダンボールは空いていない。その中に混じって、引っ越し業者から貰ったものではないダンボールがあった。
開けてみると、長期保存用の食べ物がぎっしりと詰め込まれている。お湯を使ったりレンジを使ったりするものもあるが、インフラが生きているので十分使える。
しかし、そんなものは前の家にはなかったはずだ。
「あとね、朝あなたが出かけてから電話があって」
「え、こんな朝早く? 」
「『3ヶ月生き延びろ』って言って切れたわ。女の人の声だった」
夏彦が固定電話の履歴を確認すると確かに15分前に着信履歴があったが『非通知』であった。かけ直すこともできない。
オカルト的なことを信じている訳ではなかったが、混乱し困惑し悩み続けるより、現実は現実として受け入れた方がいいのではと思った。
つまり、『この閉じ込められたマンションでなんとかして3ヶ月生き延びなければならない』ということだ。
―――――――――
1週間経っても状況は好転しなかった。ネットで色々調べてみたが、関係するような書き込みはない。
職場には『しばらく休む』と言い張った。色々何か言われたが、たどり着けないのだからなんともしようがない。
そのうち、部屋に異臭が漂ってくるようになった。家の中を調べてみるが発生源はわからない。ベランダに出てみるとどうやら隣の部屋からだということに気づき、若菜と一緒に403の部屋を訪ねることにした。この時点で『もしかすると』という思いは持っていた。引っ越してきた時、挨拶はした。老夫婦が住んでいるはずだ。『小林』という苗字だ。
インターホンを押しても反応がなかったが、ドアノブを引いてみるとドアが開いた。その瞬間、明らかな異臭が押し寄せる。誰か死んでいるのだろうという予想が確信に変わる。吐き気を堪え、手で口を覆いながら部屋に入ると、2人の死体を発見した。
窓を開けた方がいいのか、閉めた方がいいのかわからなかったが、我慢ができなかったので開けて空気を入れ替える。
死体を見下ろしながら夏彦は若菜に提案した。
「若菜、俺たちが生き延びるためにマンションの住人を殺そう」
4月7日。マンションに閉じ込められて7日目の決意だった。
2作目です。ご覧頂きありがとうこざいます。忙しくなったので、投稿ペースはかなりゆっくりです。