2話
「生き写しなんてもういいだろ。俺が死んでからもう三年経つ。なあ、お前はどこに行きたい?将来どうしたい? 俺ならどうしていたか、じゃない。お前が決めるんだよ。言ってみろよ」
「そんなことを話に来たのか? もうやめてくれ、考えてるから」
「考えてる? 貴志根利遠が生きてたらしただろうっていう選択を、だろ」
「もう帰れよ……帰ってくれ……!」
ドッペルゲンガーの懇願した。それに対しても貴志根利遠はやっぱり楽しそうな顔をする。中学生の頃のままの幼い貴志根利遠の顔が邪悪に歪んだ。にたあと音まで聞こえるように口角が吊り上がる。
悪霊だ。ドッペルゲンガーは思わず身震いした。
「もうお盆は過ぎた、だろ?地獄の蓋はとっくに閉まってる。帰れない。てかさ、もともと帰る気なんかなかったよ。ここに居座るつもりだったんだ。俺、鬱陶しいか?でも、いなくならないよ」
「何がしたいんだよ」
「んー、答えなきゃいけない? お前、俺の質問にも答えてないじゃん」
「……答えられない。わからないんだ。選べない。考えようとすると頭が割れそうに痛む、から」
「ふーん、それでいいんじゃない」
ふいに興味を失ったように貴志根利遠は笑うのをやめてそっぽを向いた。
「俺は答えた。わからない、それが答えだ! だから教えてくれ! お前ならどうしてた?将来何がしたかった?思考を引き継いだはずのに、貴志根利遠になれたはずなのに。わからないのは、やっぱり俺が……!」
「質問に質問で返すな、とかさ。そういうのって誰が初めに言ったんだろうね」
そっぽを向いたまま、貴志根利遠は笑いを含んだ声で呟いた。
「?」
「答える義理がないって言ってんだよ。一つ質問をしたから答えてやるってそんな約束してたわけじゃないだろ?」
「なっ、!?」
「貴志根利遠は死んでるよ。三年前、死んだんだよ。生きてたらどうしたか、どうせ誰にもわからない。お前は、お前の人生を歩んでいいはずだろ?」
それは一人語りのようだった。先程までのからかうような貴志根利遠の態度に憤っていたが、ドッペルゲンガーは声のかけようがなかった。
貴志根利遠は、下を向いた肩を震わせていた。
「おい、どうした?」
ドッペルゲンガーは慌てた。泣き出したのかと思ったのだ。わからない。目の前のオリジナルが何を考えているのか見当もつかなかった。
「呪い、みたいだな」
笑っていたのだ。俯いて抑えた口元からふふ、と息が漏れている。
「ふっ、あははは! 本当に分からないのか!? 何故俺が死んだか! お前、くくっ、本当に俺のコピーかよ! お前は貴志根利遠になれない! でも他の誰にもお前はなれない! お前って、なんだ!? なんなんだろな! お前の人生ってなんなんだよ、ははっ! あはははは!」
ドッペルゲンガーはただ恐怖した。何がおかしくて笑っている?思考がぐるぐると回ってとにかく気分が悪かった。
釘付けになっていた視線を下方に逸らして、やっと声が出た。ドッペルゲンガーはぽつりと縋るように尋ねる。
「なあ、俺、貴志根利遠になりたいんだ……。お前が認めてくれなくても。教えてくれ」
「……く、ふふっ、お前わからないって言っただろ? 考えると頭が痛くなる、ってさ」
ああ、と肯定して頷いた。質問の真意がわからない。とりあえず、頷いてみただけだった。
「それ、正解だよ」
「は?」
「俺は自分が何をしたいか、わからなかった。したいことがなかった?だったかもしれない。とにかく、将来を決めかねていた」
「そんな、はず……。貴志根利遠は、誰にでも優しくて、底抜けに明るくて、いつも周りに人がいて。それで、周りからも期待されてて、それで、それで……」
「へー」
「だから、俺は貴志根利遠になりたかった……っ! 自ら死を選んでしまうくらいの、人に言えない悩みがあったとしても! 夢がない? そんなはずないだろ? そしたら、俺は、俺はこれからどうすればいい!?」
「詰みだよ」
狼狽するドッペルゲンガーに貴志根利遠は穏やかに絶望を突きつけた。内容とは裏腹にその顔は柔らかな微笑みを浮かべている。
「お前は詰んでる。貴志根利遠は先を決める気なんかなかった。だから死んだんだよ。お前が貴志根利遠であろうとする以上、将来はないよ」
ドッペルゲンガーは頭を抱えてしゃがみこんだ。投げやりに頭を掻きむしるその姿を見て、貴志根利遠は目線を合わせようと屈みこむ。そして、変わらず笑顔で追い打ちをかけた。
「俺になろうとするのをやめろ」
表情からは嘘のような程に、その声と見据えた視線は冷たい。
「……無理だ」
ドッペルゲンガーの頬を嫌な汗が伝って落ちた。夏の暑さに対して、体はひどく冷えている。
「貴志根利遠のまま思考を引き出そうとするから、それ以降の考えが出てこない。なら、やめてしまえばいい」
その言葉に応じる声はなかった。沈黙が強い拒否の意思を示していた。貴志根利遠は続ける。
「お前が何に執着してるのか知らないが、たとえ俺がしなかったような行動をとっても誰もお前を責めはしない。咎めようがないんだよ。
あの日に死ななかった時点でお前は俺じゃない。偽物だ。俺の姿や名前をとっても、俺じゃない誰かに変わりない」
「それでも、俺はなりたかった!! お前のドッペルゲンガーとして生まれて、記憶を引き継いでからずっと!」
怒号と共に、振り回した右拳はすり抜けた。目の前のそれは一見人のように見えたとしても実体はないのだ。
「随分、滑稽だと思うんだけど、さ。
今のお前のどこが俺なんだ? 少なくとも“俺は俺なら性格上どうするか〜”なんて考えたりしない。
どうせ、俺なら周りに誇れるような夢があったはずだー、って思ったんだろ。
てかさ、お前は外から見た俺のことなんか何も知らない。生きてた時、話したことなかったろ? そんなお前が周りの目を気にして貴志根利遠になろうとしてる。そんなんだからいつまで経っても偽物だ、なあ? たっくん」
「……それ、やめろ」
「向いてないって言ってんだよ」
「いいから、もうたっくんなんて呼ぶな」
力なくそう言ったきり、何を話しかけてもドッペルゲンガーは押し黙ったままだった。長い沈黙が落とされた。
不意に貴志根利遠は語り始めた。それは穏やかな口調だった。
「揉めたけどさ、俺喧嘩売りに来たわけじゃないんだ。嫌がらせで帰らない訳でもない。お前が嫌なら辞めてもいいんだって教えてやりたかったんだ」
「嫌じゃない、俺は……」
「そうか。それならそれでいいとも思ってたんだ。でも決めた」
ドッペルゲンガーの言葉を遮って貴志根利遠は部屋を出ていった。
「なんなんだよマジで……」
ドッペルゲンガーは這いずりながらベッドへ向かった。酷く消耗している。横になるとすぐに睡魔が襲いかかり深い眠りにつく。そのまま、食事もとらず、翌日の昼過ぎまでぐっすりと眠っていた。
半日も寝たのに、否、半日も寝ていたからか。目覚めてもなお疲弊したままだった。
蝉が鳴いている。その声で起きた。だが、行動を起こすのを一層億劫にさせているのもまた蝉の声だった。
何もする気が起きない。ぼうっと天井を眺めていた。それも本当に束の間だったが。
「いやあぁぁぁあああ!!」
女の、貴志根利遠の母親にあたる人間の悲鳴だ。
階下からの叫び声に思わず飛び起きて走った。幾度と聞いたその声の乱れが非常事態を知らせている。
貴志根利遠の祖父が横たわっていた。
フローリングの床の血溜まりはじわじわと進行を続けている。
そのすぐ横で派手髪の少女が祖父を見下ろす形で立っており、少し離れた場所で母親が腰を抜かしていた。
ドッペルゲンガーはそれを呆然と見ていた。あまりに突飛な状況だ。意識が雲の上にあるような、そんな感覚だった。
少女の手元のナイフから血が滴り落ちて、ドッペルゲンガーはようやく現実に引き戻された。震える体から声を絞り出す。
「なぁ……」
「やっちゃった」
少女はドッペルゲンガーを見るなり笑った。口元を無理矢理綻ばせたような、悲しさを滲ませた笑顔だった。
「お前、なんで……?」
ドッペルゲンガーは気づいた。何故かわかってしまった。意味がわからない。ドッペルゲンガーは口をぱくぱくと動かして断片的に言葉を紡ぐばかりだった。
「俺、死んだら何もかも無になると思ってたんだ。何も感じなくてよくなるって」
少女は貴志根利遠だ。しかし、姿形に一切の面影はない。それでもドッペルゲンガーは確信をもっていた。
「だから、正直どうでもよかったんだよね。俺の死後、どんなにボロクソに言われても、さ。でも実際、目の当たりにすると違ったんだ。俺の代わりになるなら俺じゃなくてもいいんだってわかったら、なんだかむかついてきてさ」
言い終えた後、俺を見た少女の顔は昨日、貴志根利遠が俺に向けた笑顔と同じだった。
心底嬉しそうな、そして何かを企んでいるような。
「これで契約なんかに縛られなくてよくなったよな? こいつらが望む貴志根利遠の像を目指すから苦しかったんだ。なあ、俺と行こうよ」
「……できない」
拒否の意を示したドッペルゲンガーだったが、心中には迷いが生じていた。
「なんで? これは貴志根利遠の意思だよ」
ああ、ずるい。頷く他ないじゃないか。
ドッペルゲンガーは思わず目を逸らした。眩しい。目の前にいるのは、ドッペルゲンガーがなりたいと渇望した貴志根利遠に違いなかった。
「何も変わらないんだ。この家にいて貴志根利遠として生きるか、俺と一緒に来て貴志根利遠になるか。その違いだけだよ。
お前は今までお前の中の貴志根利遠に振り回されてきた。これからは他でもない本物の俺がお前に意志を与えてやる」
「……そうだ、な」
よっしゃ、と貴志根利遠はガッツポーズを作った。
「とりあえず、逃げるか……」
ドッペルゲンガーがそう声をかけると、きりっとした表情をして了解の敬礼のポーズをする。
二人は血の匂いが漂う部屋をあとにした。
部屋の隅で母親は自身の身体を抱いて震えていた。すぐさま、警察を呼ぶなんて発想にはいたらない、また呼べる状態でもないだろう。
それでもゆっくりしている暇はない。こんな状況にも関わらず呑気に鼻歌を歌っている貴志根利遠を他所に、ドッペルゲンガーは足早にバックパックに最低限の荷物をまとめた。
その途中、不意に気になって質問をぶつけた。ぴんと張っていた気が緩んで、冷静になると気になり出して仕方がなかったのだ。
「その、なんでそんな格好に……」
「うーん、拾った!!」
要領を得ない回答にドッペルゲンガーは閉口した。
最後に鍵掛けから祖父の車の鍵を拝借して二人は家を出た。できるだけ遠くに逃げよう。貴志根利遠は終始楽しそうに笑っていた。