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ポットのお湯が切れたので近くの水飲み場から汲んできた水を注ぎ足す。
こういうのも水泥棒に入るのだろうか、とぼんやりと考えながら、ペットボトルで作り出した小さな滝をポットの容器の中にそそぎ入れた。
水飲み場の飲み口とポットの容器の大きさが合わないので、一端ペットボトルを経由してからでないと清浄された水をえる事できないのが難儀である。
そのため一度に大量に水を得る後ろめたさを感じながらも、水をお茶に変えるためには必要な作業なのだ仕方ないさ、と自分に言い聞かせる。
最近では和水が紅茶葉やココアパウダーを持ってきたので、できたお湯の活用の幅が広がり、お湯の減りが非常に早くなっていた。
そのスピードといったら部長が「お茶汲み係でも作ろうか」と言い出すほどである。もしそんな係ができたら自然的に俺になりそうな気がするので怖い。
「雨音ぇー、できた?」
俺に水を持ってくるように頼んだ張本人の和水が茶菓子を頬張りながら訊いてきた。
このクソ女…。
その光景に多少の苛つきを感じながらも俺はさし詰め執事のように落ち着いた口調で彼女に現状を告げる。誉さん、俺に力を。
「見ればわかるだろ。水はともかくお湯が出来るまではまだかなりかかるぞ」
「うぅ〜、口の中がパサつくわ!水分を要求します!」
口に含んだ棒状の菓子を飲み込んでから和水は俺に言った。
そんなん言うんだったら初めから食べなきゃいいのに。
そう思いながら、お湯がなるたけ早く出来る量にセーブしてポットの電源を入れる、慣れたものである。
「急須にまだお茶が残ってるだろ」
「そんなものとうの昔に美影に飲まれたわよ」
チラリと横目で美影を眺めながらも和水の手はお菓子の箱に伸びていた。よく食べますね。
「私も喉渇いて……」
責められた美影は少しだけ良心が痛んでいるように視線を落とした。
なんだか美影が不憫に感じたので、ポットに入りきらなかった500ミリペットの飲み水を和水に手渡す。
和水は不思議そうな顔で「何これ?」と菓子を口に含んだまま訊いてきた。
「水飲み場で汲んできた水。喉渇いてんだろ?飲めば?」
親切心から差し出したそれを和水は突き返し、菓子を飲み込んでからムカつく言葉をはいた。
「学校の水飲み場でしょ?カルキ抜きもろくに出来てないので結構よ。最低でもポットで煮沸消毒して貰わないと飲めたものじゃないわ」
「チッ。我が儘女め」
我らがポット君が学校の電気を盗んで頑張ってくれている最中だよ。
「失礼ね。私、水は『ヴォルティク』しか認めてないの」
「意外に庶民派だな。お嬢様」
「コーヒーは『MAXコーヒー』ね」
「超庶民派!」
そしてかなりの親近感!
この甘党め!
「んで、美影は何やってんの?」
ポットの水換えの作業が終わるまでは黙っていたがさっきから彼女の行動が気になって仕方がなかったのだ。
美影はパソコンをいじっていた。
誰かがパソコンをいじるというのは随分と久し振りの光景である。
部長がどこかしらか持ってきたそれはたまに部員が暇つぶしにいじる程度で、有効活用されることは殆どなかった。
「ソリティア?ピンボール?マインスイーパー?」
とりあえず思いつくだけパソコンに初めから入っているゲームを上げてみたが、美影は小さく「いえ…」と否定の声を上げるだけだった。
「わかった!森の仲間たちとホッケーでしょ?それともラミィ?」
横から和水が興味ありそうに声を上げた。パソコン、というか機械をろくに触れない彼女が唯一できるゲームである。
「インターネットで少し調べ物を……」
「調べもの?」
忘れていたが部室に備え付けのこのパソコン、無線LANではないがインターネットに接続されているのだった。誰が接続費を払っているのかは知らないが、それを利用することが殆どないのでたった今まで失念していたところである。
それにしてもパソコンがあるなんて娯楽はさり気に設備が充実してるな。今更だが。
「はい。ゴモラについて少々」
「ゴモラ?」
美影は恥ずかしそうに親指と人差し指で何かを摘むような形で小さな空間を作りながら俺の質問に答えてくれた。
ゴモラね、それってさっきあなた達が勝手につけたゴキブリのあだ名じゃないか。それがどうかし……
………ッ!?
って、まだ続ける気なのかよっ!ゴキブリの話!?
「和水さんが言ったんですよ。ゴモラとの共存の道を辿るには彼らの生態を知る必要があるから調べてくれって」
「ありゃ、う〜ん、確かに頼んだわね。それでどうだった?」
忘れてたな。
無責任にも菓子を食べ始めた名付け親は、調査報告を美影調査員に求めたのだった。
「はい。ともかく凄いの一言です。画像なしのサイトで調べたんですけど文字だけでも発狂しそうなほどの凄さですよ」
興奮したような口調で彼女は続けた。
「ゴキブリが凄いのはしぶとさだけじゃないです」
「ほう、それは興味深いわね」
「はい。まず、基本データとして、雨音さんの言うとおり彼らの歴史は古く、三億年前の古生代石炭紀から生息しているそうです。別称生きた化石。凄いですね」
そこで彼女は感心したように深く息を吐いた。
「ふむふむ古代から生きるだなんてまさにゴモラね。私が見込んだ通り凄まじい昆虫だわ」
「ふっふっふ、これだけで感心してたらこの後息が続きませんよ和水さん。ともかく有史以前から存在していたゴキブリは、人類とは常に敵対関係にあったそうです。3000年以上前のエジプトの書物には彼らを退治する羊頭の神を呼び出す呪文が記されていたとか。私も知りたいですね、この呪文」
美影は暗殺者さながらニヤリと口角をあげた。怖いです。
「まだまだあります。ゴキブリが凄いのはやはりその生命力。彼らは頭が取れても、出血さえ止まれば一週間は平気で生きられるそうですよ!」
不敵に笑った彼女の言うとおり、ゴキブリに関する新しい情報は凄まじいの一言であった。
「まるで交尾中の雄カマキリみたいだわ」
頭が取れても生きるだなんて……怖ろし過ぎるだろ、うぇえ〜。
和水が引き合いに出したカマキリでさえ交尾終わったら食べられるだけなので、寿命はあまりないというのに……。
「えぇ、ゴキブリとカマキリは生物分類上、同じところにおく場合があるから似ているといったら確かにそうかも知れませんね」
そうなんだ。初めて知ったよ。俺の知識じゃシロアリはアリじゃなくゴキブリの仲間くらいの知識しかないからな。
「最近じゃ宇宙空間でゴキブリが誕生したことで話題になってましたよね」
「……そんなニュース知らない」
「そうですか?たしかロシアのニュースですけど、……うーん、記憶違いかな」
上目遣いで考えている彼女は可愛いけど、内容が内容なだけに、なんだが気持ちが沈んでくる。
美影は話に区切りをつけるように手を一回パンとたたくとさらに言葉を続けた。
「ゴキブリは絶食に対しても強く、餌がなく水だけで1ヶ月以上、水さえなくても2〜3週間は生きられるそうです。さっき頭が取れても生きていけると言いましたが、その際の死因が餓死というのが恐ろしいところです」
「「き、きもっ!」」
ゴキブリのあまりの生命力に和水とハモってしまった。
口がないから物食えないって、成虫になったら口がなくなるカゲロウとか蛾の時は儚さを感じたはずなのに、同じ昆虫のゴキブリだと恐怖しか感じない。
つ、つまり頭が取れても点滴うっときゃ取り敢えずは寿命を全うできるということかっ!?その場合ゴキブリの自我は頭部に行くのか!?それとも胴体部にいくのかッ!
や、やはり脳がある頭部だよな……トカゲだって尻尾に自我あるわけないし……。ゴキブリに自我があるかは知らないが。
俺がそう結論づけた時だった。美影の口から衝撃の事実が明かされる。
「ゴキブリには脳が頭と腹部に2つ存在しているそうですよ。だから頭部が破損しても生きていく事が出来るんだそうです。最も脊椎動物みたいに発達した脳じゃなく、神経の塊みたいなものみたいですけど」
「……なにそのクリーチャー…」
「?ゴモラのことですよ」
俺の驚愕は美影にはいまいち伝わっていないらしい。
ケロッとした顔で彼女は続けた。
「ゴキブリが凄いのは生命力だけじゃありません。再生能力も凄いんです。足や触覚などが取れてしまっても、トカゲの尻尾のように再生する事が出来るそうです。まあ、これはほぼすべての虫に言える事ですが虫には痛覚がなく、傷ついても痛みは感じないそうですけどね」
ゴキブリも凄いけど、虫凄いっすね。インセクターに憧れちゃいますよ、うきょきょ。
っは、いかんいかん。ゴキブリの凄さに混乱してしまったみたいだ。
落ち着かなくては。平常心平常心。
「次に繁殖力です。ゴキブリは、卵を一つずつ直接ではなく、卵鞘と言うカプセル状の物に卵を詰め込んで産み付けるのです。種類にもよりますが、この卵鞘の中には卵が15〜40くらい入ってるそうです」
「ああ、それはよく知ってるよ。スイカの種みたいなカプセルでしょ?見たことあるもん」
小学生の時、学校で発見されたゴキブリの卵をみんなで虫眼鏡を使い燃やしたのもいい思い出だ。立ち込める煙がプラスチックの焦げたような臭いだった事を今でも覚えている。
……うげぇぇぇぇぇ!思い出しても吐き気を催すわぁ!
「ええ。それからゴキブリの寿命は意外と短く120日前後なのですが、その間にメスはこの卵鞘を約5回産むそうです。卵鞘に40個卵が入っていると考えると子供は40×5で200匹生まれることになるんです。ゴキブリの一匹の一生だけで200匹も生まれるんですから凄いですよね」
感心したように美影は息をついたが、俺としては余りの凄さに意識が飛んでしまいそうだ。
さっきの話じゃないがカマキリの卵を思い出した。あれの誕生の瞬間も不気味だったよな。
「さらに計算を続けます。このうち生まれた200匹、半分づつをオスとメスとして計算すると、100匹のメスはまた一生の間に卵40個が入った卵鞘を5回産むことになりますよね。すると孫の世代には40×5×100で二万匹。さらに1世代が120日の寿命なので、孫の世代まで考えるとちょうど360日、一年となり、その孫が次の世代を生むことまで含めると2万の半分がメスとして1万。その1万のメスが200の卵をうむと1万×200となり200万匹となるんです。よくゴキブリ一匹見たら40匹いるとか言いますが、この繁殖力から起因するんですかね。まぁ、この計算は100%の生存率の場合ですけど、この勢いには鼠算で有名な鼠も尻尾巻いて逃げちゃいますよ」
朗らかに笑って言うことじゃない。
ああ、おかしいな。
さっきまで平和にポットの水をかえていただけなのにいつからこんなエイリアンの話をするはめになってしまったんだろう……。あ、始めからだ。
「それにゴキブリは10年ほどで殺虫剤に対しての抗体を作り出すそうです。今のところは問題なく駆除できていますが10年後はどうなってるかわかりませんよ。ふっふっふ」
美影は未来を予見するかのように不気味な笑い声をあげた。
なにそのB級ホラー映画のラストみたいなスッキリしない終わり方……ゾッとするわ。
「さらに凄いのはゴキブリの雑食性。彼らの生命力はこれから繋がっているように思います。ゴキブリは食べられないものは無いというほど、餌には困りません。石鹸、ビニール、コンクリ…果ては共食いまでするというのだから驚きです」
…段々とゴキブリが異次元の生物みたく感じられてきた。
「抗菌性も凄いです。彼らは自らの体を抗菌物質でコーティングする事によりばい菌から身を守っているそうです。だからどぶ川や生ゴミだろうがお構い無し入れるんです。そしてそんなとこ這い回った身体で私達の家に侵入してくるんです。勿論雑菌を身につけて……」
「……」
「そしてゴキブリは、」
「も、もういいわ美影」
和水が辛抱たまらんといったように声をあげた。
遅いよ、もうちょっと早くストップかけてくれ。
美影はなんだか舌に脂が乗ったみたいによく回ってるんだから止められる時に止めないと、大変なことになっちゃうよ。
「どうしました?和水さん」
「私ははっきりと自覚したわ」
青ざめた和水はポツリポツリと独白するように言葉を続ける。
「やつら、あまりにも規格外すぎる」
「はぁ」
「共存なんて甘ちゃんなこと言って平和ボケしてみなさい。乗っ取られるわよ人類は」
「は?」
突拍子のない発言に美影はきょとんとクエスチョンマークを浮かべているようだが、俺には和水が言いたい事がはっきりとわかっていた。
強力すぎるのだ、ゴキブリという存在が。
例えるならば三国志の呂布。頭に着けた触角みたいな兜が印象的な彼。その存在も圧倒的で俺の中で彼の印象は間違いなく最強クラスのものだった。
俺の中ではゴキブリが美影の話を効いて彼と同等の位置にインプットされたのだ。
それだけの存在力。
「だから生命力と繁殖力と賢さ。この3つを兼ね備えた生物と仲良く共存なんてできるはずないのよ。ロボットとか宇宙人に人間が乗っ取られるより先にゴキブリに地球は埋め尽くされてしまうわ」
SF色が濃くなって参りました。
「恐ろしいしおぞましい。考えるだけで鳥肌がたってくる。ゾッー」
「あー、それでしたら大丈夫ですよ。ゴキブリは熱帯にしか生息できない昆虫らしいですから北海道とか寒いところには住めないそうです。そのかわり沖縄とかのゴキブリは半端無いらしいですが」
「黙りなさい!どうせすぐに奴らは克服するわよ!それに地球は温暖化してるのよ!ああ、もう無理!絶対無理!あんな虫けらと共存なんて不可能よ!」
和水はそう叫びながら赤ペンを取り出し、さっきまで楽しそうに綴っていた『ゴキブリ研究所』の文字に斜線を引いて上に『ゴキブリ撲滅委員会』と書き直した。
それから息を切らしながら、続ける。
「第2回のテーマは『対策』のみ。厳密にいえば『撲滅』よ」
もの凄い代わり映えだが、大賛成である。
「ぶっ潰してくれるわ!」
「おう!」
「はい!」
美影もなんだか乗る気のようだ。やはりゴキブリの生態を調べて対立を意識したのだろう。
こうしてゴキブリ撲滅委員会が発足したのであった。
……前書き、書くことないなぁ。
誰か、お題ください…