(9)
冷気を切り裂いて、楓の愛チャリ『マッハベリベリ号(命名芳生)』は、街道を飛ばしていた。
漕ぎ手は、楓ではなく表雨音。他ならぬ俺以外の何者でもない。彼から借りた自転車は、俺が跨っても言うことを聞いてくれていた。
気づけば立ち漕ぎになっている。勢いに任せて、心の重荷も置いていけたらいいのに。
あの後、楓から自転車の鍵を受け取った俺は駐輪場から彼の愛車にまたがり、見慣れた通学路をいつもの数倍の速度で駆け抜けていた。
静かな確信があった。
クラブのみんなは疑いつつも俺を見送ってくれたけど、お墓にもいなかったなら、もうここ以外考えようがない。
春に向かうべき冬の冷たい空気に当てられても、俺の確信は揺らぐことがなかった。
合宿で行った、観測所。
文字にしてみるといささか事務的に感じられた。
吐き出す白い息があの時を彷彿とさせる。美影はなんといっていた?何を言っていた?
春野優人が美影の兄だろうと関係ない、これは表雨音と裏美影の思い出探しだ。
グングンスピードは上がっていく。流れる景色は一瞬にして過去になる。俺は前に進んでいるのだ。
止まらない、止まってなるものか。
俺の中じゃチェーンはとっくに火花を上げブーストている。
ベイブ○ードもミ○四駆も火花を散らして戦うけど、実物のおもちゃはもちろんそんなもの散らさない。そんな危険物、親が持たせないよな、と友達は笑っていたが俺は思う、あれはイメージなのだと。主人公の心象風景なのだと。つまり、没頭、熱中しているんだ。
だから、自転車のペダルが高速で回転し、パチパチと火花を上げているイメージがわくくらい、俺は必死になってペダルをこいでいるのだ。
太陽は西に傾いているのだろうか。雲が空を覆っているから実際はわからないけど、もし雲がなければ赤いレーザー光線が町を打ち抜いていたに違いない。イメージする。
目に痛いくらいの夕焼け空。
それに照らされて伸びる影。
俺は風を巻きおこし、ペダルを漕ぐ足に力を込める。風になるよりも速く、その光のなるように。
車輪は俺の体を前へ前へと運んでくれる。
歩くより、走るよりずっと早い自転車。それでも移動時間が酷くもどかしかった。
駅に着いた。歩きで15分かかる距離を5分に短縮させたのだから上々だろう。
無料駐輪場に自転車を滑りこませ停車させた俺は駅へと続く階段を、そのままの勢いで駆け上がっていた。二段抜かしが腰に響くが、この先の電車でいくらでも休めるのだから体力を使い切ろうが関係ない。
売店も壁に掛かった広告も、すぐに視界から消えていく。雑踏に耳を痛くするより速く改札口にたどり着いた。
ポケットから、電子端末の定期が入った財布を取り出し、改札機にタッチして通ろうとした時、何の気なしに上にある電光掲示板を見上げてみる、
そこには、目をふさぎたくなるような現実があった。
何時もなら、15分に一本は運行している路線が、『車両故障』の為に、休止していたのだ。
よりにもよって、これから使おうとしている線路だ。
嘘だろ……
すぐに窓口の駅員さんに詰め寄り、詳細を尋ねてみると、復旧にはそう時間はかかりませんから、と言い訳された。
それは良かった。良かったのだけど、これからしばらく俺は駅で指を加えて我慢するしかないのかと思うと苛立ちでどうにかなりそうだった。
『現在車両点検のため、運行はしていません』
立ちすくす。ただ、呆然と流れるオレンジ色の文字を眺めるだけだ。
その時、ポケットが震えた。
携帯のバイブだ。着信があったらしい。すぐに取り出し画面を開く。美影からかと期待をしたが、画面に表示されていたのは部長だった。
「もしもし」
通話ボタンを押して電話にでる。先ほどまで聞いていたのにやけに懐かしく感じる声が鼓膜を揺らした。
『もしもし雨音。ネットで運行状況を調べてみたら、車両故障で止まってるみたいだけど大丈夫か?』
「いえ、大丈夫じゃないです、見事に足止めくらってます。これ振り替え輸送とかやんないんすか?」
『多分ないな。復旧に時間はかからないだろうから』
「ええ、駅員さんにも同じこと言われました。あ、そうだ!これ別のルートからは行けないんでしょうか?止まってる路線じゃないのを利用して」
『行けないことはないがかなり時間がかかるな。おそらく復旧が終わるのとどっこいどっこいの時間がかかる』
「そんな…」
やっぱりここで大人しく電車が来るのを待っているしかないのだろうか。
俺のがっかりが電話口にも伝わったのか部長のため息をつく音がした。
『だが心配するな、駅員さんは優秀だ。思ったよりもずっと早く復旧する場合も、
〈ちょっとかわってくれ〉』
ガソゴソと音がしたかと思ったら、声が女性のソレから男性のに変わった。
『もしもし、楓だ。雨音、聞こえるか?』
「あ、ああ、よく聞こえる」
『おし、それなら手短に伝える。雨音、俺は自宅から自転車で通ってるってわかってるよな』
「だからこそお前にチャリ借りたんだろ」
『星見ヶ岡まで自転車でいけ。ナビは俺がする』
そうか、
と思った。
『多分一時間弱で着くと思う。それでも、そこで電車を待って、駅から向かうよりずっと早い』
「楓」
『ん』
「とりあえずどっちに迎えばいい?」
駐輪場に走りながら電話で楓に尋ねた。
線路沿いを真っ直ぐ『ハイウェイスター号(命名俺)』が飛ばして行く。
とりあえずはこのまま、ずっと。
凍てついた風が吹きすさんだ。速度が上がれば上がるほど風は強くなっていく。ろくに防寒具を装着していない俺には若干辛い温度だ。
だけど、両手には確かな温もりがあった。
「アーイーァアアッ!」
何かを唐突に叫びたくなったけど、何を言っていいのか浮かばなかったので口からはわけの分からない音が発せられるだけだった。
なんだこのもどかしい感情。
俺の語彙が少ないのは百も承知だけど、このタイミングでなにも浮かばないのは、ダメじゃないか。
「俺は!」
鉄になりかけた太ももを、叱咤するように叫んだ。気恥ずかしさはこの気温に冷凍済みだ。
「まだ、なにも伝えてないッ!」
ペダルは常に高速回転。
脳のシナプスは焼けきる手前。
筋肉繊維はズタボロになろうとも、大切なのは、その一点だ。
白い空気と一緒に言葉を必死で紡ぎだす。
「まだ、美影に、なにも!」
たとえこの身が朽ち果てようと、『好き』という言葉が美影に届くなら、俺は今すぐ死んでもいい。
漕ぐ漕ぐ漕ぐ漕ぐペダル
漕ぐだけ前へと進む。
どんどん街は暗く、不安を煽るように、黄昏時は過ぎていく。俺の感情を覆い隠すように夕闇のベールはパタパタとはためいていた。
ふと隣の線路を電車がガタンゴトンと音をたて走っていき、いとも容易く俺を追い抜いていった。現実は非情だ。たとえどれだけ頑張ろうと100キロを越す電車には勝てるはずがない。
今すぐ美影に会って、
上り坂に入り、スピードは緩やかになっていく。それでも、地球の重力に逆らうように、足に力をこめ、小さくなった電車を追いかけた。
好きだと言うんだ
あれはどこ行きだろう。せめてもの救いは俺の目的地じゃないことだ。
はぁはぁと息を吐きながら、ノロノロと上り坂をあがっていく。隼から亀にクラスチェンジしたハイウェイスター号は、もはや重荷でしかなかった。それでもやはり歩くよりは早いだろう、と立ち漕ぎを続ける。
奥歯をギュッと噛み締めた。
俺に意地悪するために、この坂は作られたのではないかと錯覚するくらい長い坂だ。マウスピースよろしく噛む力が俺に脚力を与えるならば、奥歯が砕けるくらい顎に力をかけようではないか。ジャックハンマーもびっくりなバイティングみせてやるよ!
とにもかくにも
のっ、ぼっ、れぇえっ〜!
前輪が浮き上がるくらい、ハンドルに力をこめた。
坂を上りきった時、ちらほやと灯りがついた微妙な夜景が俺の視界に広がった。
その光は俺に力を与えるご褒美のようだ。
確信は揺らがない。
美影は、観測所にいる。
光を見て、涙が出てきた。
なんだかわからないが、強くそう思ったのだ。
走れ!チャリ!輝け!チャリ!漕ぐだけ前へと進むんだろっ!
信号待ちの時間などを利用し、楓に道の確認を取り合っていたのだが、俺の選んだルートに間違いはなかったらしく、やがて景色は都会の街並みとは一変し合宿の時のようなプチ田舎になっていた。
迷わずに来れた嬉しさよりも、先に進みたいという感情のほうがずっと強い。
また
ペダルを漕いで、車輪が回り、グングンスピードが上がっていく。
流れる景色は一瞬で過去に。
俺は今、前に進んでいる。
止まらない。止まらない。
ノンストップだッ!
白い何かが見えた。
この先星見が丘公園。
そう書かれた看板を見つけた。
俺の目的地はその先の観測所である。
だけど自転車で行ける範囲はここまでらしい、ここから先は土を削って出来たお粗末な階段と、雑木林があるだけなので自転車で上がる余裕は微塵もなかった。
仕方ないので入り口に自転車を止め、キッとスタンドをあげて、鍵をかける。借り物だからしっかりしないと。
準備を整え、軽い登山を慣行しようと足を踏み出したとき、ぬるま湯に浸かるようなぎこちなさを感じた。
いうなれば、泳ぎまくったあと、プールサイドに上がって感じるあのフワフワと宙を歩くような感じ。微妙に重力が釣り合わず浮かんでいるみたいな、あの。
ズ
転けた。
それも顔面から。筋肉疲労から、全身がプルプル震えている。
あ〜、激しい運動久しぶりだもんなー
「痛ぅ〜」
だから嫌なんだ。
ろくな運動しないエセ文系の体はよ!ちょっと動かしたくらいで、バランス感覚が狂うとかマジでくそ!なんなの?筋肉痛なら明日こいっての!
とかなんとか一瞬で考えながら俺は手を使って起きあがり、おぼつかない足で階段を上りはじめた。
立ち止まってなんかいられない。
目指すは観測所。
前来たときよりも寒くて死にそうだけど、確かな一歩を噛み締めてフワフワを凪払いながら俺は進む。
泥だらけになろうと、両足が切断されようと這ってでも前に進んでみせる。貧弱だけど、それくらいの意地をみせてやろう。
公園を通りぬける。遊具はあの時と違い月明かりに照らされてもなければ、くすんだ闇にぼんやりとその輪郭を浮かばせているだけである。辺りはすっかり夜の帳に包まれていた。暗闇だ。それでも吐き出す息が真っ白だとわかるのが不思議である。
風の音だけが響く。
寒い。
周囲に生き物の気配はなく、俺が独りきりだと無理やり教唆しているようだ。
ふと空を見上げる。
空はやっぱり厚い雲に包まれているだけだけど、俺の視界にはあの時の星空いっぱいが広がっていた。
目的地に着いた。
やっと、こさ。
あの時と同じように、立ち入り禁止を踏み越えて、廃墟内に侵入する。無機質な死をイメージさせる冷たさが俺をくるんだ。
幽霊がでる前の常套句に、生暖かい、というのがあるけど、そんなものとは無縁な寒さがあるだけだった。
建物内は静まり返っている。人の気配は残念ながらない。
「美影ェーッ!」
彼女の名を呼ぶ。
誰もいない暗闇から返事は返ってこず、俺の声が反響を繰り返してボリュームが下がっていくだけだ。
いいさいいさいいさ
的が外れたかと思い、少し不安になったけど、探索はまだ始まったばっかりだ。
階段を上がる。
あの時、美影が先行して登った階段を。
思い出して、少し悲しくなった。
あの時の彼女は『懐かしそうに』ではなく『寂しそうに』思い出に浸っていたのだ。
俺たちより前に美影と天体観測したのは、春野さん、だったから、だろうか。
階段をあがりきった先の扉に手をかけた。
もし、いなかったら…
一瞬よぎったマイナスイメージを振り払い、息を出来るだけ整える。体力ゲージが0だから、今の俺は呼吸が異常に荒かった。それこそ変質者みたいだ。
「ふぅ」
最後にもう一度、大きく息をついて、扉に手をかけた。