(8)
お茶を喉に流しこんだ。悶々とした気持ちを鎮めるための行為だが、舌をヒリヒリさせるだけだけでこれといって効果を上げることはなかった。
熱くなった吐息を漏らす。
なんの変化も起こらない、この状況がひどくもどかしかった。
「駄目。やっぱり出ない」
美影にコンタクトを取ろうと、なれない機械操作で電話をかけていた和水が溜め息混じりに呟いた。もちろん俺が美影にしたメールの返事もまだ返ってきていない。
「部長に電話は?」
「そうだな。してみるか」
耳元から携帯を外した和水は今度は俺が行動することを促した。和水ばかりに電話をかけさせるのも悪いと思い、俺もポケットから携帯を取り出す。
何度も何度も頼ってきた電子機器は、しかし俺たちの望むような結果を示してはくれはしなかった。だけど部長相手ならなんとか対応してくれるだろう。そんなこと思いつつ取り出した携帯をパチリと開いた。
それにしても和水も進化したな。去年までメールもろくに打てなかったのに今じゃ変換機能まで駆使するようになっている。まあ、相変わらず件名に用件なんだけど。
キーを押してアドレス帳を開いた時だった。
「悪いが立ち聞きさせてもらった」
そんな声を上げながら部室のドアを見知った二人がくぐってきた。
挨拶もなしに敷居を跨いだ二人は、自分たちのいつもの定位置に向かう。
「別に俺はかまわないけど」
楓と芳生だ。
楓はいつも通りクールフェイスで、芳生は彼に似合わぬ仏頂面で口を開くことなくただ歩いている。
楓は椅子に座るとお茶も入れずに言葉を続けた。
「さっき雨音のクラスの担任に美影の行く先について心当たりがないか尋ねられたがこういうわけだったのか」
手の甲に顎を乗せる。
何かを考える時の彼のクセだ。
先生に会ったのか、帰りのホームルームは特に連絡事項はないといっていたけど。
「中澤先生は、なんて?」
「ん?いや、ただ『親からまだ帰ってないと連絡が来た、お前たち同じクラブだろ?何か心当たりないか』と」
「それにどう答えたんだ?」
俺の口はそう動いていた。あの物臭太郎の担任教師が動いているのが密かに嬉しかった。クラス全体で聞かなかったのは下手な噂が広がらないようにとの先生流の配慮だろうか。
「高校生なんだから真っ直ぐ帰るなんて事せず寄り道くらいするでしょ、って。今考えれば俺の返答は的外れだな」
自嘲ぎみに楓は鼻を鳴らした。
一緒に入ってきた芳生はただ何も言わずに虚空を眺めている。
「まったく下らない。なんだこの虫酸が走る展開は」
苛立ちを隠そうともせず、言葉の節々にトゲをはやした楓の声に和水が恐る恐る、
「楓、怒ってる?」と訊いた。
「キレないはずないだろ」
その言葉の矛先は、他ならぬ自分自身に向けられているようだ、と俺は楓の姿を見て思った。
「美影は何も俺たちに言ってくれなかったんだ」
悔しさが彼の唇ににじむ。
その気持ちは痛いほどよくわかった。
静かに揺らぐ怒りの炎は、何も言ってくれなかった美影ではなく、相談する場を提供できなかった自分自身を燃やし続けている。
「仕方ないじゃない。美影だって言えないわよそんなこと」
「時間は腐るほどあった。無駄に浪費さえしなければ、語り合うことは簡単だったんだ。倦怠にまみれて美影の声を聞き逃したのは他でもない、俺たちだよ」
胸に鋭く突き刺さる。楓に悪気はないだろうが、その言葉に魂を一番抉られるのは間違いなく俺だった。
美影に最初に会ったのは、
美影に最後に会ったのは、
表雨音だった。
全部が全部、俺だった。
一番永く居たのも、
短い時を共に過ごしたのも、
クラブやクラス、
掃除や放課後、ホームルームや授業の時間、
文化祭、修学旅行、合宿、
ハロウィン、クリスマス、バレンタイン、
それらの時間、彼女と過ごした時間が一番永いのは間違いなく俺だった。同じ空間にいて同じ空気を吸っていたのだ。教室も廊下も部室も、俺の隣には常に彼女の笑みがあった。
学校という閉鎖された空間で美影と一番多く時間をともにしたのは、掛け値なしにはっきり言える、
表雨音、だ。
「楓違うよ」
沈黙が広がる部室に、いままでずっと黙っていた芳生の声が響いた。振り絞るようなおぼろげな声だけど、静寂の支配する空間でイニシアチブを握るにはそれだけでも十分だった。
「違う。そんなのは間違ってる。誰が誰を責めようとそれは自由だけど、まだ何も始まってない段階で交わす議論じゃない。僕達はまだ美影に追いついてもいないんだから」
「芳生……」
「美影が何を考えてるのか、そんなの全部僕達の想像でしかない。本人に聞いてみなくちゃわからないところまで、自分の視野に入れるのは絶対的に間違ってる」
「だけど、」
その声に応えたのは楓ではなく、和水だった。
「聞きたくても美影はいないのよ。話をしてくれるべき美影は私たちの前にいないの…、何も出来ないじゃない!何も……!」
半分怒鳴り散らすような調子で和水は、芳生を睨みつけた。その瞳には微かに涙が溜まっている。
芳生は悲しそうに和水を見ると、また静かに言葉を続けた。
「何もかも僕達の手に負える問題じゃないのは確かさ。それでもどうにかしなくちゃ、何も始まらないんじゃないかな」
「そうは言ったって……」
ガラリっ
和水の小さな呟きが空気に溶けきる前に、部室のドアが大きな音をたてて開かれた。
「部長!」
全員の目が新たに現れた人物に注がれる。ずっと待っていた部長がそこに立っていた。
「4人、か……」
部長は肩で小刻みに息をしながら苦しそうに、ドアもたれかかるようにして辛うじて立っている。
ガク、音はしていないけどそんな効果音のイメージがわくようにゆっくりと崩れるように部長はしゃがみこんだ。
「部長!」
楓が立ち上がり彼女に駆け寄った。肩を抱いておこし、部長の呼気が落ち着くのを手伝っている。激しく息をする部長はおそらく早くこの場に来れるように急いで来たのだろう、だから、こんなにボロボロになっている。
数秒、そんな状況が続いた。部室にはただ部長の荒い呼吸音が響くだけだった。半開きのままのドアから溜め込んでいた暖気がヒューと廊下に抜けていき、部屋の気温は一気に肌寒くなった。
やがて、部長は楓の手を借りて「もう大丈夫だ」と起き上がり、自分のいつも座っている特等席に体全体を預けるように深く腰掛けた。
「…すまない、すまない…」
落ち着いた、と思ったはずなのに部長は蛍光灯が眩しいのだろうか、上を向いたはいいが右手で顔を覆いかくし、そのまま震える声で誰にむけているのかわからぬ謝罪を繰り返すばかりだった。
「部長……」
俺はそんな彼女に簡単に言葉をかけることが出来ず、体側で拳を握るだけだった。
「先輩のお墓に行ったけど、…いなかった」
「そう、ですか」
どんよりと空気は重くなっていく。水と油に分けかれた層のように下の方に歪みが沈殿しているかのようだ。
俺に部長を責めることはできない。当たり前だ。探してみつからなかったものを指差して非難する権利を俺が持ち合わせているはずがない。
「家にも、…」
謝罪の言葉を述べることはなくなったが、意味合いとしては同じだった。部長は俺たちに顔を合わすことなく腕で顔を隠し、許しをこうように首だけを上にむけている。体は疲弊しきっているのだろう、文字通り全ての体重を椅子にあずけるようにくたびれている。
「事故現場にも、どこにも……」
ずっと腕で顔を隠し上を向いていたのは涙がこぼれないようにするためだ、と気が付いたのは、そんな効果もなく肩がまた震えだしたからだ。こんどは呼吸が激しいからじゃなく、むせび泣きからである。
「大丈夫だよ。考えよう、みんなで。美影がどこに行ったのか」
場の空気を変えたのは、芳生のその発言だった。
彼は部長が落ち着くのを待つと、ゆっくりとわかりやすく言葉をまとめた。
「僕らは焦りすぎなんだよ」
言われなくても、わかっていた。
友達がどこかに行ってしまったくらいで、慌てふためく。
そんなのただの青春ごっこだ。誰かれの事が心配だとか、誰かれが泣いたのはあいつのせいだとか、そんなのは安いドラマの中だけの世界で、リアルじゃなんてことはないただの月日の一ページにすぎない。
他人の為に熱くなっていいのは、フィクションの登場人物だけに許された特権で、現実での世界は自分の行き先にあるテストや成績、受験など実に下らないものしかない。
会議は踊る、されど進まず。
揶揄する言葉にぴったりだ。現実は常にこんな感じ。
「情報を統合する事が必要だな」
楓が呟いた。
「埒があかないから今日に限った美影の行動を辿ってみよう」
芳生の言葉に同意しての発言だろう。
根本は俺も芳生に同じだった。
俺の安っぽいプライドをへし折るくらいで美影に会えるなら、肘でっぽうを大統領に食らわせるくらいの覚悟をきめた。
「まず、朝。それもかなりの早朝だ。机に写真を三枚いれた美影はエントランスで、雨音に会う。それまで誰にも会ってないというのだから、校舎に残ってたということか」
「ん?どういう意味だ」
「写真を机に仕込むのにそう時間はかからないだろう。誰にも見られないように早朝に登校したに違いない。それから雨音に会うまで美影は何をしてたんだ?」
言われてみれば確かに違和感があった。
余った時間を無為に過ごしたとは思えない。
「クラスメート全員に聞いたわけじゃないから断言できないけどな」
「それでも不思議なのは写真をわざわざ雨音に渡したことだ。なんで今日、渡すんだ?」
それは思っていたことだ。
実の兄の命日に写真を俺に託すわけ。
それは、
「見つけてほしいのか」
部長が呟いた。
「先輩の死を清算するために、処分する意味を込めて雨音に渡したのかもしれないけど、……私はそっちだと思う」
落ち着きを取り戻したらしい、何時もの声音に戻った部長の言葉は俺たちの気を和らげる波長が出ている気がした。
ああ、そうか。じゃあ、これは写真じゃなくて手紙なのか。メッセージは辞書に入力された『しゃしんさしあげます』じゃなく、こちらの方だったのか。
「雨音、写真見せてくれない?美影があなたに渡したっていう」
和水が俺に言った。
その提案に少しためらう。
俺はいままで写真をもらったと言うだけで実物を彼女たちに見せたことはなかった。理由は簡単、恥ずかしいからだ。
文化祭や合宿はまだしも、そのなかには昨日の二人きり海に行った時のも含まれているのだ。
そして写真を見せる事もなければ、美影と海に行ったことも秘密にしていた。本来ならすぐに打ち明けるべきなのだろうが、どうしても昨日の事は二人きりの胸の内だけにしたかったのだ。
だけど、背に腹は変えられない、俺は何も言わずに胸ポケットから写真を取り出し机に置いた。
「これが合宿の時の集合写真ね。……なんで美影は顔を隠してるのかしら」
「そういえばあの時、美影は自分がカメラマンになることでフレームに入るのをためらってたね。僕がタイマー機能についていったから収まったんだっけ」
芳生が写真を指差して言った。
そんなやりとりがあったような気がした。
この写真以外、美影が映っているのはない。
俺は無言で合宿の時の写真を手に取った。
思えば、この時いろんな話を彼女としたような気がする。クリスマスプレゼントの手袋を貰ったのもこの時だ。
「あ」
「どうした雨音?」
ふと、不思議な考えが浮かんだ。
さっき部長は泣いているのを隠すように手で顔を覆っていた。美影もそうなんじゃないかと、
「楓、チャリ貸してくれ」
「え?」
楓は自宅から学校まで自転車で通っている。駅までの時間短縮に彼の移動ツールを借りることにした。
「それは、いいけど…、なんでだよ」
あの時した会話はブワリブワリと浮かんできた。
美影は前に楓と芳生の地元に住んでいた。それから離婚して家族はバラバラに暮らすようになったのか、それは知らない。
でも、重要なのは、