(2)
一限目が始まっても美影が教室に姿を見せることはなかった。
担任教師である中澤の言葉がぐわんぐわんと響く。それは授業内容に関することではなく、先ほど廊下でした他愛ない会話の一つである。
『失踪』『誘拐』
どちらとも普通に生活する上では縁がない二文字だが、どうにも俺の脳にこびりつき放れようとしない。そんなはずないと否定しても、嫌な予感は絶えず俺に警鐘を鳴らし続けている。
美影が?そんなばかな。
先生が言っていた。
『思春期のガキは何しでかすかわからない』
それはそうかもしれないが、美影に限ってはそんなわけない、と勝手に思いこんでいる。これは信頼というのかただ盲信なのかともかく、意味もなくいなくなるような人じゃないのは確かだ。
だから、
少し電車が遅れてるとか、そんな大したことない問題なのだろう。
だって今朝会った時に本人が忘れ物をした、って言ってたんだから、それ以外何があるってのさ。
そう自分に言い聞かせるが、隣の空席を見ると、不安という気持ちは再び膨れだす。
今朝、美影に会った時、いつもと様子が違っていると感じたことは確かだ。違和感を感じた。そうはいっても気にするほどのものじゃなかった。
だから、これはただの杞憂だ。
美影だって俺に過保護されたって嬉しくもなんともないだろう。心配しすぎだって。
そう結論づけるのは何度目だろう。授業中、なんども肯定否定を繰り返しては、もやもやを積もらせている。
心の芯が冷たくなっていく。
不思議と心配しすぎだと判を押す度に、異常なほどの不安からそれを感じた。
大きなしこりは取れないまま一限目の終わりのチャイムが鳴り響いた。
授業中、ずっと教室のドアが開くのを期待していたが、そんなこと起こらず、いつもどおり単元は終了をむかえた。
時間というのは、人の不安を増長させる。
いくらなんでもただ忘れ物をとりにいくのにこんなに時間がかかるのはおかしいだろ。
さっきまで必死になって否定していたはずなのにその事実を思ったよりすんなりと俺は受け止めた。
「はい、それじゃ今日はここまで。今日やったとこも勿論テストには出すからちゃんと復習しとけよ」
「起立」
返事の代わりに総務が号令をかける。
ガタガタと不規則な音をたてて椅子が引かれみんなが一斉に立ち上がり礼をする。
それを見届けると先生はスタスタとドアに向かって歩きだした。
総務は「着席」と引き続いて号令をかけたけど、大多数の生徒がそんなの無視して立ったままか、もしくは友達の席に向かっている。
俺はそのどちらでもなく教室から出ようとする先生に話かけた。
「先生」
「ん?表か。どうした?」
ドアまで数歩のところで先生は立ち止まりこっちをふりむいた。
「あの、裏さん結局来ませんでしたね」
下の名前、美影に慣れているので今更名字だと言いにくくてしょうがない。だけど先生の前で下の名前で呼び合ってると知られるのは気恥ずかしいのだ。
「ああ、そういえばそうだったな」
そういえばじゃねぇだろ。
「まぁ、そういう事もあるさ」
「そういう事ってどういうことですか?」
「ああだから、端的に言えばサボリだろ」
「サボリ……」
朝の彼女の表情がぼんやり浮かぶ。
寂しそうな顔をしていた。
たった三文字で片付けられるような表情ではなかったハズだ。
「美影はそんなことやるタイプじゃないです」
「……」
気がついたら、口が勝手に動いていた。
「確かにそうだな。裏はそんなこと積極的にやるタイプじゃない」
だったら、もっと確認をとれ。アンタの言う通り誘拐とかだったらどうすんだ。
つもりつもった不安をマシンガンの弾にこめることなく、脳は冷静に節度を守ることを舌に命じている。
「だけど、正直この時期はよくわからんのだよ」
「この時期?」
「お前たちはまだ一年だから実感が薄いかもしれないが、受験という荒波があるんだ。時期的に、もう決まったものが大多数だろうが、まだ決まっていない生徒も結構いるんだよ。学校全体にそんなイライラが漂っているんだ」
「それは三年生の話ですよね。俺たち一年には関係ないんじゃないんですか?」
三年生の三学期、残されたイベントは卒業式だけで、単位がとれている生徒は学校に来る必要がなくなる。
必然的に三年生は休みがちになる。
「そういっちゃそうなんだが、三年生がそんなんだと一、二年も感化されてしまうみたいでな。それにお前らももう二年生、うかうかしてられない学年だ。そんなこんなでこの時期はいまいち生徒の心が掴みつらくなってしまうのだよ。特に裏のように真面目な子はなんのために勉強してるのか分からなくなって、ついサボってしまったりなんかもあるらしい」
「っ」
何も言えずに唇を噛んだ。
乾燥した唇の皮がザラザラと嫌な感触を起こす。
「まぁ、そういうのは一時的なものだから心配する必要はないだろう。一応もう一回家の方に連絡はしてみるがな。わかったらお前も期末の心配をしたらどうだ?気合いいれればかなり上位にはいれるぞ」
茶化すように先生は歯を見せて笑いかけてきた。それが先生流の不安の取り除き方なのだろう。
「マジっすか?前回ヤバかったから心配してたんですよ」
「ははは、まぁ頑張れ」
微妙な笑い声を上げて先生は教室から出て行った。
残された俺は、何をするでもなくトボトボと自分の席に戻るため足を動かす。
先生はああ言っていたが、俺の不安は拭えない。それはひとえに美影がサボりなんて怠惰なことやるわけないと知っているからだ。
「雨音さんよー、どうしたんだよー」
「うるせぇ…」
また斎藤がやってきて俺に軽く声をかけた。
小さく彼に応えつつ椅子に座る。
「別にお前が心配したってなんにも変わんないだろー。逆になんか怖いぜぇ、ストーカーみたいで」
「そうだよな…」
「何をそんなに気落ちするのか俺には理解できないぜ!ほら笑って、笑って!スマイルは世界を明るくするのよ!」
「ははは」
「……そんな乾いた笑いは求めてないのよ」
それから2限目、3限目が終わり、トータルでみて約2時間程が経とうと美影が姿を見せることはなかった。
授業が代わる度に先生が出て行く。教師からの監視がなくなった合間にみんながみんな友達との会話に華咲かせるためにサークルを作っているけど、その中に裏美影というクラスメートは含まれていなかった。
4時間目、英語。
これが終わればお昼休みという希望を目指して生徒達を気力を振り絞り、その授業に臨む。
美影の事は一旦忘れて、俺も試験前の大事な授業をうけることにしていた。斎藤の言うとおり心配のし過ぎは逆にキモイと思ったからだ。俺は彼女の保護者じゃないし人が何を思おうがその人の勝手だからだ。
「それじゃ本文を朗読した後、訳をしなさい」
英語の担当教師は椅子にふんぞり返りながら生徒にそう命じると、5分したら名指しするから、と淡白につけくわえ、腕時計を凝視した。
生徒はみんな慌てて辞書やら単語帳やらを取り出して本文の和訳にとりかかる。
俺も机の奥に放置された電子辞書を取り出して、机に置いた。いつもは持ち帰るのだが、たまにその存在を忘れ置いてけぼりにしてしまう。
2つ折りの電子辞書を開く前に自分の番号と本文のピリオドが合致する地点を見つけ出す。先生は席順に名指しするので、ピンポイントで、和訳することにより無駄な労力を割くのだ。
それから、電子辞書を開いた。
「あ」
声が出ていた。
前の人が自分が呼ばれたかと思ったのか怪訝そうに小さくこちらを振りむいた。
慌てて何でもないと取り付くろう。不思議そうな顔をしながら彼は視線をもとにもどした。
俺は再び、電子辞書を見る。
写真が2つ折りの辞書の間に挟まれていた。
当然自分が入れたものではない、辞書には国語辞典の画面が開かれていて(開くと自動的に直前の画面が復帰されるのだ)そこの検索窓にはこう文章が入力されていた。
『しゃしんさしあげます』
ドッドッドと心臓の音がうるさく高鳴る。頭に血が昇り体が熱くなってきた。その平仮名で入力された文章を脳内で漢字に再変換するに数秒時間をようした。
写真差し上げます。
丁寧な敬語、いつかやった辞書でのチャットを思い出す。
もう、ほぼ間違いないだろう。
俺の辞書に写真を仕込んだのは美影だ。
辞書に仕込まれた写真は全部で3枚だった。写真の数え方は『葉』だった気がするが今はそんな事どうでもいい。
一番目の写真は海に行った時のものだった。昨日帰ってからすぐに現像にだしたのだろうか。待ち合わせ場所にぼんやりと突っ立つ俺の姿がフレームの中にあった。完全に隠し撮りだ。
美影怖いよ、と苦笑しながら、ペラリとめくる。
二番目はすぐに思いだせなかったが、バックで思いだした。文化祭の時の写真。半年前のこの教室だ。お化け屋敷の内装になんだか見覚えがある。そしてなによりフラッシュに俺が捉えられていた。そういえば写真撮ってたなぁ、とぼんやり思いながら最後の写真をめくる。
三番目は合宿の時の写真だった。
全員で撮った記念撮影。夜空をバックに部員全員が並んでいるのだが、まともに見れるのはフラッシュの範囲内の人物像だけであり、あの時の満天の星空は再現されていない。真っ黒な画用紙を背景に貼り付けたようである。やはり家庭用デジカメで撮った写真じゃ星をうまく写せなかったらしい。
とはいえ、懐かしい気持ちになりながら、写真の時間を思いだす。
芳生が怖い怖いと言って渋ったんだっけな、それから……
「ッ」
がたっ
思わず立ち上がっていた。
その時の衝撃で椅子が大きな音をたて、クラス中の注目を浴びる。
英語教師はためらいつつも急に立ち上がった俺にたどたどしく聞いてきた。
「表、…急にどうした?」
「……トイレ、行ってきます」
ズボンの右ポケットにケイタイが入っているのを少ない動作で確認すると、先生の返事を聴かずに廊下にむかって駆け出した。
「いっトイレー…」
尻すぼみになった先生の声をドアを閉めることで完全に遮断した俺は静寂が支配する授業中の廊下に飛び出た。
そこからさらにトイレにむかって駆け出す。先生には嘘を言っていない。
その途中、先ほどの写真がぶわりと浮かんだ。
みんなが笑っていた集合写真の中、
美影だけが、顔を両手で覆い隠していた。
なんで、なんで、なんで……
同じ言葉を反芻する。
なんで顔を隠すの?
なんで写真を渡したの?
なんで授業をサボったの?
なんで、なんで……
トイレの個室に入るとすぐにケイタイのアドレス帳を呼び出し、今まで一度もかけたことのない美影の電話番号を呼び出す。
発信ボタンを押す指がふるえた。
荒げた息を整えながら耳にあてると、コール音が響くことなくすぐに「電波状況がわるいか…」と音声アナウンスが流れた。
「ちっ」
舌打ちをしながら、今度はメールの新規作成を選び、アドレス欄に、名前と誕生日だけの単純なメルアドを貼り付けて本文を入力する。
そう多くない。
『いまどこ?みんな心配しているよ』
普段使わない絵文字を軽く使い威圧的イメージをできるだけ抑え、完成。送信ボタンを押した。返事はすぐには帰ってこないことは容易に想像できたけど何もせずにはいられなかった。
俺はもう一度美影の電話番号を呼び出し、かける。
でてくれ。
でてくれ!
それでもやっぱり、留守番電話サービスが呼び出されるだけだ。
一人きりのトイレで俺はズボンを下ろすことなく洋式の便座にドカンと座りこんだ。
力がぬけた。
美影は、やっぱり電話にでない。
出れないのか、出ないのか。
どっちにせよ、また……
また、朝の彼女が思い出されるだけだった。