新世界
兄を追ってここまできた。もう引き返すことはできない、とジェシカは改めて実感し、固唾を呑んだ。
「自らの命は自分で守れ。情報は漏らさない。自分が死ぬことになってもだ。それさえ守れば多少のことは目を瞑ろう」
「甘いですね。命令違反はどうなんです」
「命令違反をして死ぬのは自分の責だ。使えない者は死ぬ。私が手をくださなくても」
「ふぅん、潔くてわたしにはぴったりです」
「……それぐらい厳しい世界だとわかっているのか」
「わかっています」
見つめ合う瞳と瞳。本当は小さく小刻みに手足が震えている。表情を崩さないよう心がけているが、正直情けない顔をしているに違いない。
怖い。死への恐怖心は止まらない。マフィアに入るということは常に死と隣りあわせだ。いくら覚悟を決めても、いざ死を目の前にし、想像したら倒れそうになる。それでも強がるのは、死よりも優先したいことがあるから。
「まあいい、すぐにわかるはずだ」
フェデリコ・カーヴェルは嘆息し、しばし待て、と告げた。
しばらくすると、ノックの音がして、静寂に包まれた部屋に真っ赤な薔薇が舞い落ちた。真っ赤な髪に赤い唇。漆黒のドレスに包まれた肢体は細くひどく艶かしいものだった。使用人ように見えた。
「お呼びですか」
「メリッサ。新しい仲間だ。服を用意してやれ」
美しい使用人は返事をすると、ジェシカを瞳で外へ促した。あわてて彼女についていく。やはり彼女は使用人のようだ。服装や容貌が気になるが、彼女の立ち振る舞いなどは使用人のそれに近い。
「あの」
「……」
聞こえなかったのか、反応がなかった。ジェシカの前を歩く女性の髪が淡々と左右に揺らめく。髪と同じように彼女の足も淡々と前後に動く。
「すいません」
呼びかけても彼女は応えない。こういうものなのか、とジェシカは納得し黙って彼女について行った。 長い長い廊下を歩いて行く。まだ試されているような、そんな気がした。
一つの部屋の前で立ち止まると、彼女は入室を促した。部屋に入ると大きなクローゼットが置いてあり、彼女が服を何枚か取り出した。
「仕事着です。何着か選んでください」
淡々と言った。はじめて観た彼女は薔薇だったのに、今は彼女の中に虎が見える。警戒しつつ、クローゼットに向かうが変な仕掛けはなさそうだ。違和感もない。不審がられないように、服に手を伸ばす。さらさらとした衣、よい素材を使っているようだ。
3枚目の服に手を伸ばしたときだ。ぴん、と糸が引き締まるような、ピアノ線が耳をかすめたような、冷たい感覚がする。これは殺気だ。ジェシカはばっとふりむく。右袖に仕込んでおいた短剣をもって、今までで一番はやい動きだった。薔薇のように美しく赤い使用人は腕を組み、ゆっくりと瞬きをして、ジェシカの青く透き通った瞳を見つめ返した。
「へえ、やるじゃないあなた」
「あなたは……何者なの」
「わたしはメリッサ。幹部の一人でもあるわ。よろしくね。あなたをファミリーの一員だと認めましょう」
切れ長の瞳をもっと細くして、彼女は静かに微笑んだ。まだ警戒心はとけない。彼女の殺気は消えたが、先ほどのそれは背筋がぞくりとするぐらいのものじゃなかった。今のジェシカにとって、彼女の赤い髪と褐色の肌、赤い唇でさえ恐ろしく感じられた。
「わたしはジェシカ。ジェシカ・フォリナです」
「フォリナ……あなたあの高飛車乱暴少年の妹」
「はい、ダニエルはわたしの兄です」
メリッサは眉をあげて、意外そうにジェシカを見た。隅から隅まで、上から下へゆっくりと視線を動かす。それから一つ小さなため息をつくと、クローゼットへ近づき、つるされていた服をひとつ掴んでジェシカに差し出した。
「あの子、ついこの間やってきた子だったわね。身体能力は高いし、感もいい」
「兄は才能に溢れています。天才肌なんですよ」
「わたしはあんまり好きじゃない。だけどあなたは気が合いそうだから忠告してあげる。よく聞きなさい」
メリッサはジェシカの髪を手のひらで転がし、言った。
「ここにはあなたを好まない者もいるわ。生まれたときから貧しくて、昔雇われた殺し屋の能力を使ってこの仕事を続けている者もいる。あなたは貴族の娘。自分の立場を隠すべきかもね。あなたの兄のように」
「隠す?」
「あなたの兄は自分が貴族ということを隠しているわ。知っているのは上の人間だけ。わたしも知らなかったけど、なんとなく振る舞いを見ていて、そう思ったのよ。わたし昔貴族に仕えていたことがあってね。だからあなたのこともわかる。レディとして完璧ね。その品格は素晴らしい。ダニエルは貴族っぽくないけど、あなたは正真正銘のお嬢様ね。隠せるものじゃないかもしれない」
「じゃあどうすれば」
渡された服を胸に抱きながら、ジェシカは赤い薔薇に尋ねた。彼女は花びらを開くように、そっと耳元で囁いた。
「強さを示しなさい。誰にも負けない強さと、ファミリーに対する忠誠心。誰もがあなたを認めてくれるように」
メリッサは先ほどまで纏っていたどこか恐ろしいオーラを水に溶かしていった。次第にジェシカの警戒心もとかれる。不安なことはたくさんあるが、がんばれると思った。メリッサの表情は含みを感じなかったし、彼女の声は信じられるものだった。言葉通りファミリーと認めてくれたのだろう。
強くなろう、兄のように、この女性のように。強くなり、親にも兄にも頼らず、自分の足で立っていこうとジェシカは強く心に決めたのだった。