忘れない注文
からん、と四角い氷が細いグラスの中で溶け落ちたような軽い音がした。お店の入り口の鈴が鳴ったのだ。わたしはそれが鳴る方向に背を向けて、フロアの掃き掃除をしていたところだった。振り向いた頃にはマスターがコーヒーカップの水を切って、にこりと微笑んでいた。
「いらっしゃい」
マスターのダンディな声にお客さんはなにも返さなかった。わたしもいらっしゃいませと笑顔で応える。お客さんはわたしの知らない人。初めてのお客さんだった。見たこともない、黒服の男性。平然として端然としている、背が高くて黒いハットを被った男性。どこか冷たい雰囲気があって、視線が交わったとき身震いがした。わたしはお客さんに軽く会釈してカウンターに戻り手を洗った。水の流れる音が店内に響く。お客さんはカウンターに肘をついた。いつもはフィオーレのおじいさんが肘をつくその場所に彼は肘をつき、マスターを呼んだ。
「なんでしょう、カフェラテですか」
「……いえ、カッフェを」
「はい。かしこまりました。カッフェですね」
マスターは鼻歌を歌ってポットを手に取った。わたしはタオルで手を拭いて、豆の用意をする。しばらくの沈黙の後、男性が被っていた黒いハットを脱いで、頭を振って前髪を後ろに払った。ハットで見えなかった顔を盗み見ると、綺麗な顔立ちをしていて顔が赤くなった。思っていた以上に若い男性で、細い顎とマゼランブルーの吸い込まれるような青い瞳に見惚れた。男性はマスターを真直ぐに見つめてこう言う。
「マスター、なぜ私がカフェラテを頼むと思った理由を聞いてもよろしいか」
「ええ、もちろん。あなたが前に女性と店を訪れていたのを思い出したんです。確かあのときお二方ともカフェラテを注文なさって、女性がわたしに美味しかったと笑ってくださった姿が急に浮かんだものですから。とても記憶に残っています」
「……そうか」
この人、一度お店にきたことがあるんだ。わたしは時々お手伝いにくるただの女学生だから知らないのも無理はないけれど。
男性はマスターから目をそらし、カウンターを見つめて小さく笑ったように見えた。優しそうに、ふわりと。腕の中の赤ん坊に微笑むみたいに包み込みたくなるような愛情の深さが感じられた。マスターは目を細めて続ける。
「あのお方の笑顔が今でもわたしの自信になり、やる気になり、なによりお客さまに対する思いやり、おもてなしする心を思い出させてくれます。ありがとう」
男性はなにも言わず、ハットをまた深くかぶった。マスターも言うだけ言って満足したのかにこにこ笑って、カッフェをカップに注いだ。男性は目を隠し、表情がよく見えなくなった。まるで隠すようにハットを深くかぶったのだ。