煙草と黒い木と冷めたコーヒー
「ねえ、煙くさいわ、ここ」
煙草を吸う男性は嫌いだ。煙草を吸う男性とはもうつきあわない。口は臭いし身体に悪いし、なにより煙がだめ。煙草の臭いだけでもとっさに口を覆う。
周囲を見渡すと、私に背を向けた状態で煙草を吸う男の人が目に入った。喫煙席しか空いてなかった私は喫煙席にいる。テーブルの上には私の白い手袋と、ふたつのコーヒーと彼が食べたザッハトルテのお皿一枚。白い皿に少しチョコレイトの残りがついていた。
「シェリルお嬢様。あそこの男性がどうやら吸っておられるようですよ」
私はこう見えて、貴族の娘、所謂お嬢様である。家柄はよく教養があり、女としての美貌、礼儀作法も身につけた一流のお嬢様。シェリル・パルム。パルム家の一人娘だ。
わたしと相席しているのは、SPとして雇っている男、イザークだ。おそらくこの名前は偽名であろう。彼自身も怪しい部分は多々あるのだが腕は確かだし、なにより私の毒舌や面倒にも嫌がらずに、にこやかに答える姿が気に食わなくて、よく警護を任せている。今の流れでどうしてこの男に警護を任せていることになるのかという質問には答えない。
なぜ私が喫茶店に、SPの男と相席してコーヒーを飲んでいるのかというとだ。ただ屋敷から離れてぶらぶら散歩がしたかったからである。そういう私の気まぐれにもこの男は付き合ってくれる。どの仕事よりも私の依頼を優先して引き受けていると本人は言っていた(それを信じてもいないし、たとえそうだとしてもときめきはしないが)。この男がなにを考えているのかはわからないが、今はそれより煙草だ。どんな男だ、顔が見てみたい。私を不快にさせたこと、一生詫びて死ぬがいい。
彼が指差した方に目を向ける。男性は私の席の斜め後ろに一人で、背を向けて座っていた。黒い服に黒いハット。髪も黒い。毛先が少しはねているようにみえる。年はわからないが、漂う風情が年上を感じさせた。
「……いかにも煙草を好みそうな背中ね」
「もう出ますか」
「いやよ。そんなくだらない理由でどうして私が席を立たないといけないの」
思ったままの不満を口にすると、目の前の男、イザークは深海のように深い青色をした瞳を歪ませ、困ったように微笑んだ。彼はよく眉を上げて、まいったなと表情を変えるが、本気で嫌がったような素振りは見せない。実際嫌がってないからだ。それはつまり関心がないということ。私なんかの我が侭で彼の心は揺り動かされたりしないのだ。わかっている、ただのSPとクライアントだということ。彼に恋愛感情はない。ただ、
「……あ、立ちましたよ。さきほどの男性」
「そう」
男性は白いテーブルクロスの上のガラスの吸い殻に、吸っていたそれを押しつけた。彼は席を立つ。椅子を後ろに引く音が耳に聞こえた。
「あれ、フェデリコだ」
向かいの彼はそう言った。すくっと席を立つと、手を上げる。私は口をつけようとしていたカップをもってぎょっとする。あれだけ意地悪く攻めた見知らぬ男性が、イザークの知り合いだなんて。ソーサーと同時にコーヒーをテーブルに置くと、彼の腕の服のすそをくいっと引っ張った。
「知り合いなの」
「ええ、友人です」
人の近づく気配がする。先ほどの男性がそばに寄ってきたのだ。煙くさいから近づくな、と内心では思っていたが、くるっと振り向いて笑顔を作る。公爵家令嬢ともなれば、愛想よく挨拶をこなすことにも慣れている。不安や躊躇はなかった。
「はじめまして、」
続きがいえなかった。ちょうど視界に、夕方になる前の太陽の光が、白く店内に差し込む瞬間が目の前に広がったのだ。眩しくて、男性の表情は見えなかった。笑っていたのか、それともイザークがたまにするような、無感情な表情なのか。それはわからない。ただ、陽光に照らされた彼の髪は毛先まで漆黒の色をしていたこと。毛先は見立てどおり好き勝手はねているくせに、スーツ姿はぴちっと整頓されていて、スタイルがいいのでシルエットがとても素敵だったことは目に焼きついた。店員が横一面の大きなブラインドを閉めるころには、私と男性の間の隙間はあまりなく、急に彼が傍に寄ったみたいで変な感じがした。
「……仕事か」
低く静かな声だと思った。まるで、大きくて黒い木の声のよう。
「うん。もう帰るの」
「ああ、じゃあまた。……失礼します」
私に向けて一言声をかけてくれたのに、適当な相槌とお辞儀しかできなかった。しっかりした足取りでカウンターへ歩いていく男性。煙草を吸っていたわりに、いやな感じはしなかった。
それより、私の頭の中で揺れる黒い木の正体がつかめない。低く静かに、黒く深い木々。彼はその中心に立っているような。いや、彼自身が黒い木のような情景が頭に浮かぶのだ。
「お嬢様、どうなさいました」
「……ええ、座るわ」
「はい、お座りください。あ、コーヒー冷めてしまいましたね、新しいものを」
「いいわ、これで」
私は冷めたホットコーヒーを飲んだ。それは苦いだけのおいしくない味だった。しかし納得する。そうか、黒い木はコーヒー。あの男性は冷めたコーヒーみたいな人だったんだと。