dolce regalo...
ある日の午後。淡い茶色の髪を揺らした最年少の幹部が、姉のような存在であるメリッサの部屋にノックもせずに乱入した。漆黒のドアの奥を見ると、ちょうどメリッサはベッドの上でガイの髪を梳いていた。ガイのくりくりしたアイリスの瞳が突然入室してきた客人を見つめる。
「メリッサ! ティラミスを作りましょう!」
高らかに開口一番そういうジェシカに、メリッサは手を止め、にっこり笑顔で言った。
「……とりあえず、ドア閉めてくれる?」
「それで、急にどうしたの。ノックもしないで。あなたらしくない」
メリッサがガイの頭をぽんと軽くたたくと彼はベッドから下りて、奥の椅子にちょこんと座った。メリッサは立ち上がり、櫛をドレッサーの棚に片付けて、ジェシカをベッドの上に座るよう促す。ジェシカが真っ白なシーツの上に腰掛けると、白い世界に淡い色の花がたくさん咲いた。
「ティラミスを作りましょう!」
「だから、どうして?」
メリッサはドレッサーの丸椅子に座り長い足を組んだ。切れ長の瞳がしっかりジェシカを捉えている。ジェシカは白い歯を覗かせて楽しそうに話した。
「フェデリコさんにプレゼントしたいんです」
「ボスに? どうしてまた」
メリッサの声が裏返った。予想外の発言だったのか、柄にもなく困惑している。ジェシカは満面の笑みで何回も頷くばかり。
「お料理したい気分なのです。メリッサもお仕事ないでしょう?」
「暇なのね……」
「そ、それだけじゃないですよ! 最近ますますお仕事が忙しいフェデリコさんのために日頃の感謝を込めて」
「日頃の感謝ねぇ、大体なんでティラミスなのよ」
よくぞ聞いてくれましたと顔が語る。ジェシカはいつにもまして上機嫌だった。マフィアとは考えられないほどの無邪気な表情である。
「フェデリコさんの好物らしいです。ロジャーさんに聞きました」
「ほんとに? 意外……でもティラミス食べてるボスみたいかも」
いつの間にかメリッサに寄り添っていたガイが首を縦に振った。どうやら参加したいらしい。二人の好反応にジェシカは両方の手のひらを合わせ、ふふっと笑った。
「そうでしょうそうでしょう! 作りましょうよ、お願いします」
「しょーがないなぁ、わたしも暇だったしね。いいわよ」
メリッサはウェーブのかかった赤い髪をさっとかきあげて言った。赤い唇が細く伸びる。
「さすがメリッサ! ではさっそく」
「こーら。あんたは着替えてきなさい。あなたドレス姿じゃない。そんな格好で料理なんて認めません」
ジェシカは己の格好をしばし見つめ、すいませんと軽く頭を下げた。
「さあ作りましょう!」
ジェシカはマフィアとして活動する際に着るスーツに着替えた。白いシャツに黒のパンツ。黒のネクタイははずしてきたようだ。ピシッとかっこよく着こなしている彼女には失礼だが、仕事着の上に白いえりがたくさんついたエプロンをしているのはどうかと思う。メリッサはネグリジェのままだが、これはもうすでに彼女の普段着のようになってしまっている。ロングスカートから時々覗く褐色の引き締まった足が艶かしい。ネグリジェに覆われていない両肩は卵のようにつるんと光っていた。彼女は赤く染まった髪を一つに後ろでまとめた。ジェシカの頭の上には自分の髪で結いたシニヨンがのっかっていた。
「ガイくんもする?」
「……」
ジェシカが行儀よく座っている少年に声をかけた。少年は無表情に彼女を見返した。アイリスみたいな紫色の瞳がぱちぱちと開いたり閉じたりするだけ。声は出さない。しゃべらない。そこでメリッサが答えた。
「見てるって」
ジェシカの顔色が曇る。楽しそうについてきたからてっきり手伝ってくれるのかと楽しみにしていたのだが。ジェシカはガイのそばまでより、目線を合わせてこう言った。
「じゃあ味見をしてくれる?」
ガイは一回こくんと首を縦に振った。ジェシカは口角を上げると、彼の頭を二度撫でた。
「なーにやってんの?」
チーズクリームを作ろうと、マスカルポーネとクリームチーズを合わせ、よくかき混ぜているとき、パンツのポケットに手を突っ込みながらレオがキッチンに入ってきた。深海のような深い青の猫目がすっと細くなる。
「フェデリコさんにティラミスをお作りしてるんです」
「え、いいなー。おれにもちょーだい」
ジェシカの後ろに青年はまわり上からボールの中を覗き込む。女のテリトリーに勝手に入り込む青年をメリッサは鬱陶しそうに睨んだ。
「駄々っ子ね、うるさいわよ」
しかし青年は彼女の言葉を完全にスルーした。
「味見させてー。というかよくあいつがティラミス好きなの知ってたな」
「あ、それはロジャーさんが教えてくださったんです。意外ですよね」
ジェシカが動かしていた手を止め、にこっと笑う。彼女の手の中でチーズクリームは着々とできあがってゆく。レオはふと上を見上げ何度か頷いた。
「ロジャーさんよく覚えてたなぁ。おれでも忘れてたのに」
その言葉にジェシカは急に顔を曇らせ、視線を下にそらす。そのまま彼に返答するわけでもなく、手を動かし始めた。キッチンに沈黙が降りる。レオはじっとボールの中を覗き込み、にこにことしているし、ジェシカは黙々と手を動かし続ける。ジェシカは自分よりこの青年がフェデリコのことをよく知っていることに落ち込んでいた。彼のほうが何倍もフェデリコとの付き合いは長い。それはわかっているのに、妥協してもいい点なのに彼女は肩を落とすのだ。
ジェシカが基本料理をしていて、メリッサはその補佐をしているので、調理器具を取り出そうといろいろ動く。なにもせずただキッチンに立っているレオは邪魔でしかなかった。
「レオ、あんたガイの隣で静かに大人しく待ってるなら味見させてあげるわ。だからそこどいて」
「おう!」
レオは快く返事をすると、ガイの隣へ腰を下ろした。
「……」
「…………」
「メリッサ、こっちを先に入れるんですか」
「うんそうよ、ゆっくりね。少しずつ入れるのよ」
「……うー、ひま」
レオは丸テーブルに突っ伏して、もう4度目になる言葉をまた言った。隣に座って微動だにしない少年、ガイは声を出さないので、会話しようにも話は続かない。彼と会話が続くのはメリッサとジェシカとフェデリコくらいだ。ガイはあまりレオを好んでいなかった。それはレオ自身も知っていた。ガイにとって唯一無二な存在である大切な女性がほかの男と親しげに話しているのはやはり面白くない。つまり「嫉妬」なのだ。当の本人同士は全くそんな気はないようで、その意思はこの少年にも説明したのだが、わかってもらえない。レオと彼女が言葉を交わすたび彼の機嫌は悪くなる。しかしファミリーにとって、特にレオにとって退屈は「死」に値するものだった。
暇を持て余したレオはついにガイの肩をつついた。ガイはゆっくりと瞬きしてから彼を見る。レオは自分の手のひらを指差して少年に差し出した。少年はそこに軽くパンチを打ち込む。ぱし、ぱしと渇いた音がキッチンに響く。女性たちは女同士の会話が弾み、男たちの強かな戦いが始まったことも知らなかった。
レオとガイの「暇つぶし」はどんどんエスカレートする。攻守は代わる代わる交代し、レオは卑怯なことに器用に座りながら体術を駆使する。長い脚を使ってはガイの足を踏もうと机の下で不毛な戦いが繰り広げられていた。こちらからは不毛に見えても当事者たちにとっては熾烈で壮絶な戦いだ。挙句の果てにガイはバランスを崩し、椅子から転げ落ちた。
天井を見上げぱちぱちと瞬きをする少年と、鬼の形相で迫ってくる少女から目を背ける成人男性。貴族の娘とは思えないほど慎みのない声で、ジェシカは自分より幾分年上の成人男性を叱る。ひとしきり説教をくらった成人男性は問答無用でキッチンから追い出された。自業自得である。
「もう! まるで子供じゃないですか」
ジェシカは一息つこうと椅子に座っていた。頬を膨らませ、腕を組んで可愛らしく怒る姿は全然怒っているようには見えないが、彼女にとっては最大限の怒り表現らしい。メリッサは型にクリームを流し込みながら苦笑いをこぼす。
「ガイとくっつけたのが悪かったわねー」
「大体あの人仕事あるんじゃないですか」
「サボりね。あとでボスに言っとこ」
「……お忙しいですね」
先程までの勢いを無くし、呟くようにジェシカは言う。意気消沈。頭を垂れては自分の手を優しく撫でている。
「あいつの仕事は休日特に忙しいからね、ああみえて仕事もできるし」
ジェシカの様子に変化を感じるもメリッサはあくまで手を止めない。前を見据えている。ジェシカがどんな顔をしているのか、なにを考えているのか、なんとなく彼女はわかっていた。ジェシカは目線を下に向けたまま、ぽつりと言った。
「わたし、レオさんが羨ましいです」
「どうして?」
「部下にも慕われて頼られてますし、なによりボスのことをしっかり支えられている、その力がすごく羨ましいです」
それからジェシカは一つ一つ自分の言葉で溜め込んでいた気持ちをゆっくり吐露する。
「わたしは年も若く、カポレジームとして幹部の中に所属していますけど、部下への指示、作戦での指揮は兄がとっています。わたしは構成員とたいして変わらない」
ジェシカが自分の手をすりっと撫でるのに呼応するようにメリッサは手を動かす。
「指揮に関してはダニエルの方が向いてるからね、年も上だしファミリーに入ったのも彼のほうがはやいでしょう? そんなに気にすることじゃないわよ」
「兄に率いられるのはいいんです。ただ、わたしは本当にボスの役に立てているのかなって不安になるんです。ファミリーにわたしは必要なのかな、邪魔だと思われてないかなって不安になるんです」
メリッサがそんなわけないと振り向いた時には、アクア色の瞳から涙は溢れそうで、今にも泣きそうな顔をして壊れそうなか弱い少女の姿があった。メリッサは考える間もなく彼女をぎゅっと抱きしめる。隙間なく、息が詰まるくらい強く。豊満な胸にジェシカの顔が埋まった。
「馬鹿ね、ジェシカがどれだけわたしたちに良い影響をもたらしてくれたかわかる?」
メリッサは悪戯をした子供に言い聞かせるように優しく言った。
「あなたには貴族の娘として育ってきた。故に昔から教養には力を注がれてきたはずよ。豊富な知識を持っているし、論理的な思考能力も頭の良いあなたの素晴らしい能力よ。そして、今の表世界の状況を逐一知れるのはあなたの広い交友関係と伯爵家の娘という地位があるからこそ。危険なことをしなくても情報を得ることが出来るのは本当に救いなのよ」
「……」
「仕事だけじゃない。あなたがここに住んでくれてから、ボスもわたしたちも構成員もきちんと食事と睡眠をとるようになった。仕事の効率は格段に上がったのよ。あのエルネストが感心していたくらいだもの。共同フロアの掃除や食事の栄養バランスまで、あなたの細かい気遣いと笑顔でどれだけわたしたちが救われているのか、あなたは知らないでしょうね」
腕を解き、メリッサはしっとりと彼女の頬を伝う涙を拭った。そして淡い茶色の髪を慈しむように撫でた。ジェシカもまた赤髪の女性を見つめ返す。
「あなたがやっていることはね、わたしにはできなかったことよ。わたしの生活にも彩をくれる。休日にこうしてお菓子をだれかのために作ることなんてなかった。わたしにはずっとガイがいてくれたけど、女の子はまわりにいなかったから」
赤い唇を伸ばし、心からの笑顔を鼻をすする彼女へ向ける。溢れんばかりの愛情を、どう伝えればいいかわからないからもどかしくてたまらない。
「あなたはわたしの妹みたいなものよ。可愛くて仕方がないの。あなたが好きよ。ファミリーのみんなもきっとそう。だから自分の力をもっと認めて。自信を持って」
返事の代わりにジェシカの鼻をすする音がキッチンに響いた。
「結構出来てきましたね」
「うん、おいしそう。ガイも見においで」
メリッサの声掛けにガイが席を立ったとき、ちょうどダニエルもキッチンの前を通りかかったようだ。赤毛の髪が特徴的な男性である。
「なにやってるんだ?」
「お兄様! お仕事お疲れ様です。ティラミスを作っているんですよ」
妹の屈託のない微笑みを見てから、ダニエルは彼女の奥で茶色い粉をふるっているメリッサにも目を向ける。メリッサは澄ました顔で手を動かし続ける。彼女の背筋はぴんと立っていた。ダニエルはあからさまに顔をしかめる。
「ふーん。メリッサ(こいつ)とふたりで?」
「ジェシカに誘われたの。暇だったし」
そっけない彼女の返事にダニエルは顔を歪める。レオとガイの相性が悪いようにダニエルとメリッサも馬が合わない。お互いがお互いを毛嫌いしている。ダニエルは年上の女が嫌いで、メリッサは彼の高飛車な態度と家族を大切にしない精神が気に入らない。二人が顔を合わせると、途端に冷気があたりを覆う。それはファミリー内でもよく知られていることだった。ダニエルは腕を組み、エプロン姿のメリッサを鼻で笑った。
「似合わねえの。あんまり五月蝿くするなよ赤女。ボスの邪魔したら撃つからな」
「しないわよ。大体これはボスにあげるために作ってるんだもの」
「なに?」
ダニエルの声色が変わった。メリッサはしまった、と声を漏らす。ボスであるフェデリコ・カーヴェルを崇拝する彼のことだ、うちのコックが作った以外の料理をボスに出すなんて許さないと言い出しかねない。キッチンに緊張が高まった。ダニエルはその赤毛から青色の瞳を覗かせてゆっくりと口を開く。
「……味見させろ」
「え、味見?」
「ボスにお渡しするんだろ? まずいものなんてあげられない」
「お、美味しいですよ!」
あわててジェシカが訂正するも彼は聞かなかった。頑なな態度はやはり貴族の血筋を感じさせる。ジェシカも確固とした兄を口で納得させることはできないとわかっていた。
「どうぞ」
目の前に差し出されたティラミスを、ダニエルはスプーンですくって口に含んだ。ジェシカとメリッサは静かに見守るだけ。スプーンを机に置くとかつんと金属音がした。そのあと彼女たちの鼓膜に響くのは高飛車口調のけなし文句。
「チーズクリームがどろっとしてる。コーヒーが染み込んだスポンジも如何にも手作りって感じだな。中身ももっとこだわったらよかったのに。最低限の材料で作りましたっていうのが食べる人に伝わって来る。これを人にプレゼントしようと思ってたのか? 見た目はそれっぽいけどお店の方が美味しいに決まってる」
まさにマシンガン。次々溢れる小言。ふたりは苦笑いをして笑い飛ばすしかなかった。ひとしきり笑うとジェシカはうなだれ、メリッサは気に入らないのかヒールを床に何度も打ち付けてはじめる。
「そうですか……貴重なご意見ありがとうございました、お兄様」
「時間をかけて手作りしたものにまずいって、そんなはっきり言わなくてもいいじゃない」
「……別にまずいとは言ってないけど」
ティラミスをそっと見つめるメリッサとジェシカに、ダニエルは言葉を付け加えた。精一杯の譲歩。彼なりの優しさなのだろうか。ジェシカは微笑み、メリッサはため息をついた。
青年が席を立ち、手についたココアパウダーを水で洗っていると、アイリス色の髪の少年がダニエルの服をきゅっと掴んだ。
「ガイ? な、なんだよ」
「食べてもいい?って」
「あ、ああ」
ぎこちなく頷くダニエルの声を聞くと、少年は先ほどダニエルが座っていた椅子に腰掛け、大きくすくったティラミスを小さな口に押し込んだ。
「お兄様のお許しも出ましたし、ガイくんも美味しいとおっしゃってくれたので、出来立てをお部屋にお持ちしないといけませんね。お茶を淹れましょう」
あのあと一人分のティラミスを食べ終えたガイに美味しいと言ってもらえ、ジェシカの機嫌はすこぶるよかった。鼻歌を歌いながらポットを棚から取り出している後ろ姿に、兄のダニエルはこう言った。
「僕が淹れる」
「えぇ、ダニエルの紅茶よりジェシカのほうが美味しいと思うけど」
彼の発言はメリッサやガイにとって驚きの一言だった。彼がお茶を淹れるところなんて見たことがない。まず淹れることができるのかと。しかしよくよく考えればダニエルはジェシカの兄。伯爵家の令息ともなれば一般教養は教え込まれているはず。妹は柔らかくメリッサの言葉を否定した。
「いえ、わたしのお茶よりお兄様のお紅茶のほうが数倍美味しいですわ。お兄様の紅茶は大変貴重です」
それを頂けるなんてフェデリコさんは羨ましいですわとジェシカは笑った。
お茶の用意はできた。ポットのふたを開けると、仄かな紅茶の香りがガイの鼻をかすめる。ガイは少し口角をあげた。メリッサがエプロンをはずしながら言う。
「だれがもってく?」
「全員はだめだろう」
ダニエルが腕を組んで言った。行きたいという意思がひしひしと伝わって来る言い方だった。リボンを抜き取り、髪を下ろしたメリッサの赤い唇が動いた。
「やっぱりここはわたしが行くわ」
洗い物を途中で止め、タオルで手を拭きながらジェシカが言う。
「わたしもいきたいです。わたしが最初に提案したんですよ」
「お茶淹れたんだから僕が」
「……」
最後には何もしなかったガイまでも手を上げる。
誰もが彼にこれを届けたい。届けたい思いがある。
言い合いは止まらない。体格の差や実力の差もあるので、戦闘での勝敗は決められない。もう少し簡単に公平に決着をつけようということで簡単なカードゲームを行うことになった。
結果は最年少である紫色の髪と瞳が特徴的な少年、ガイの圧勝だった。
「どうして負けたんだよ、僕のばか」
「ガイくん強いですわ……吃驚しました」
負けたことの悔しさに堪えられないフォリナ兄妹をよそに、メリッサは少年の頭を撫でていた。心なしか彼女は少年の勝利を喜んでいるようだった。
「ガイ、丁寧に運んでね。メモを書いておいたから、無理に声を出さなくていいからね」
少年は姉の言葉にいつものようにこくんと一回首を縦に振った。
ジェシカ、メリッサ、ダニエルの三人が部屋の外で見守る中、ガイはドアを二回ノックした。部屋の中から声がする。ガイが部屋の中に入ると、フェデリコは読書をしていたが、ガイに目を向けると年季の入った表紙の書籍をぱたんと閉じた。部屋の中には誰もいない。
「ガイ、一人か?」
フェデリコは少し驚いた。
少年は彼の質問に答えずに黒い机の上にトレーを置く。その机の上には本がたくさん積み上がっていた。その本の全ては古文書だとか、錬金術だとか、そういった類のものだった。その様子を見る限り、彼が仕事をしている感じはしない。エルネストの目を盗み、趣味の読書に明け暮れているようだ。
フェデリコは茶色い粉に包まれたそれを見てぎょっとした。こほんと咳払いをして、それを目で示した。
「これ、どうしたんだ?」
ガイは無表情でトレーの右脇に添えられていた小さなメモを渡す。彼は白いメモに整った字で書かれていた内容にすばやく目を通した。
『フェデリコさまへ
ジェシカです。ロジャーさんからティラミスがお好きときいたので、メリッサとふたりで作ってみました。お仕事がんばってください。
PS、お茶はお兄様が淹れました。おいしいですよ』
フェデリコの口角が5ミリ上にあがったことをガイは見逃さなかった。ガイは首をひねって男の瞳をじーっと覗きこむ。彼の視線に気付いた男は少年の頭を大きな手で包み込んだ。
「ガイ、運んできてくれてありがとう。いただくよ」
「……」
目を細ませた少年は撫でられ終わっても、その場から足を動かさなかった。じっと男を見つめるばかり。フェデリコは少年の気持ちを汲み取ろうと少年の紫水晶の瞳を見つめ返した。長年彼と生活してきたフェデリコにとって、今の少年の気持ちを汲み取るのはそんなに難しいことではなかった。
「今食べろって?」
少年は一回首を縦に振った。
「……いただきます」
フェデリコはシルバースプーンを手に取って、ティラミスを一匙すくった。口の中に広がるほろ苦い味に彼の頬はほのかに緩んだ。
「おいしい。懐かしいな……昔、母がよく作ってくれたんだ」
ガイは優しく笑った。目尻が下がっただけだが、彼にはガイが笑ったように見えたのである。
「ガイが一人で運びに来てくれたのは意外だな、頼まれたのか?」
ガイは首を横に大きく振った。そして声に力を込めてはっきりと言った。
「自分の意思……」
ガイが声に出して伝えてくれた言葉にフェデリコはとても驚いた。だが、気がつくと笑みを浮かばせ、ガイの髪を梳くように撫でていた。彼への労いは大成功だったようである。