8 気づいた時にはもう遅い
白銀が指したのは女性の写真だった。
「見覚えがあるような気がするんだが……」
だが、どこで見たのかいまいちはっきりしない。白銀がもどかしげにしていると、結城は「ああ、もしかして」と呟いた。
「例の事件の被害者遺族じゃないか」
結城の言葉に、周りの刑事たちが「あっ」と声を上げる。白銀だけが、なんのことか解っていなかった。
「例の事件?」
「中学生の女の子が殺害された事件だよ。ついこの前、犯人が捕まって……名前は、米川辰夫。種族鑑定で妖怪だと判明した」
「ああ、そういやそんなニュースを見たような……」
「この女性は、亡くなった中学生、滝野加奈子さんの母親で、滝野瑞穂さんだ。ニュースのインタビューでも見たんじゃないか?」
と言った後で、結城は、「だがインタビューで顔出しはしてなかったっけか」と自説を否定した。白銀も、ニュースで見たわけではなかったと思う。
では、どこで見たのか。つい最近、どこかで――
記憶を探っているうちに、白銀ははっと思い出す。
「思い出した。うちに来た復讐依頼人」
復讐、という物騒な言葉に、周りが一斉に白銀を見遣った。ぎろりと鋭い視線の集中砲火にわずかにたじろぐ。
「どういうことだ?」
「いや、うちが復讐代行屋だなんてデマが流れたせいで、そういう馬鹿な依頼をする客が来た時があったんだが、その時、うちに来た客だよ、彼女。どうしても許せない人がいるとか。まあ、速攻で断って追い払ったけど」
「許せない、か。間違いなく、復讐しようとしていた相手は米川辰夫だろうな。だが、奴は今拘留中で、手は出せないはずだ」
刑事のうちの数人が目配せをして、一人が輪を抜けて走って行った。念のため、米川に復讐を目論んでいる奴がいるということを報告に行くのだろう。
「滝野加奈子は、瑞穂の一人娘だ。まだ中学生の一人娘を殺されたとあっちゃ、許せないだろうな」
「ああ……連続殺人の被害者たちと同じ会社にいて、犯行可能だった奴のリストに、別の事件の被害者遺族がいる。こいつは偶然か?」
勿論、反語である。この奇妙な符号を、偶然として無視することはできない。
白銀の中に、嫌な推測が渦巻いていた。その推測が本当なのか、確証を掴むために、一つ白銀は確認する。
「滝野瑞穂は……人間か? それとも妖怪か?」
結城が慌てて履歴書を確認する。
種族確認欄――妖怪。
がちり、と歯車がかみ合ったような気がした。
「……犯人に復讐したいと思っている遺族。復讐代行屋なんかに頼もうとするくらいだ、尋常じゃない。だが、それだけか? 大切な一人娘を失った母親が望むのはそれだけか?」
それだけではないはずだ。犯人に復讐したい、敵討ちをしたいと、尋常でなく強く願うのなら、同じくらい、願っていてもおかしくないことがある。
「……まさか、娘を生き返らせたいとか、思ってるんじゃないだろうな?」
微かに震えた声で結城が呟く。
「犯人を殺しても、娘は戻らない。だが、復讐とは別に、娘を戻したいと思っていてもおかしくない」
「そんな馬鹿な。そのために心臓を? 心臓移植とはわけが違うんだぞ」
「ああ、人間だったら馬鹿な話で終わりだ。だが、滝野瑞穂は妖怪だ。ということは、娘も当然妖怪だ。妖怪なら、あるいは、と思っている可能性は否定できない。妖怪についてはまだ解らないことが多い、人間に不可能なことでも、可能性はゼロじゃない。ゼロじゃないなら、懸けてみたくなると思わないか……心臓を挿げ替えて娘を生き返らせる実験に」
「それで、妖怪の心臓なのか。可能性があるとすれば、同じく妖怪の心臓ってわけか」
結城が苦りきった顔をする。やりきれないと思っているのか、いかれていると思っているのか、複雑な表情からは心情を正確には読み取れない。
「まあ、今のはあくまで推測なんだが」
「いや、だが、その可能性は高い。どのみち、リストアップした社員には話を聞かなければならないんだ。すぐに、滝野瑞穂のところへ行ったほうがいい。場合によっては、復讐をほのめかした件で任意同行したっていい」
結城の意見に周りは頷いて、うち二人が指示を受けて刑事課を飛び出していった。他のメンバーもそれぞれ命を受けて動き出す。
「白銀、俺も応援に行く。情報、助かった。進展したら報告する」
結城は短く告げて、慌ただしく仲間たちを追っていった。
ひとまず、白銀にできることはここまでのようだ。白銀は小さく息をつく。雲居からの依頼がここまで大事に発展するとは思わなかった。だが、なにはともあれ、事件は解決に向かいそうである。
白銀は警察署を後にして家路につく。途中で思い出して、近くのコンビニに寄った。冷凍庫をのぞいて、涼子の好きな抹茶アイスを一つ買って、溶けないうちにと足を早めた。
昼前には自宅に帰り着き、どうせならついでに昼飯を買ってくればよかったかと後悔しながら玄関戸を開けた。
「!」
ただいま、と声をかける前に、白銀は異常に気付いた。
普通の人間なら、気づかずに通り過ぎただろう。だが、白銀の吸血鬼性は、三和土にほんの僅かに落ちた赤い雫を逃さず、肌をざわりを粟立たせた。
「なんで、血が……」
ばさりとアイスの袋を取り落とし、白銀は玄関に跪く。目の前に散っているのは、まぎれもなく血液だ。まだ乾いていないところを見ると、流れてからそんなに時間は経っていない。
白銀はそれを指で掬って、躊躇うことなく舐めた。
瞬間、血から記憶が流れ込んだ。
★★★
「暑い……れ、冷房……いや、でも五月に冷房つけるのは私のプライド的に……」
居間のテーブルに突っ伏して、涼子はぶつぶつと呟いた。五月の生ぬるくべたつくような陽気に加えて、微熱のせいで体感温度は真夏気分だった。できることなら冷房をつけたい、しかし五月という暦が、冷房のリモコンに伸ばそうとする手を止めてしまう。
「やっぱり冷房は、七月からよね……ならせめて扇風機……」
と部屋の隅っこを見遣ると、置いてあるのは扇風機ではなくヒーター。梅雨時はまだ寒くなるかもしれないから、と未だに置きっぱなしにしてあったのだ。扇風機は物置で埃をかぶっている。それを今から一人で出すのは面倒くさい。
ならば最後の手段でうちわ、と思ったが、手が届く範囲にうちわはない。
だるくて動くのも億劫な涼子は、苛立たしげに「キー!」と奇声を発した。
「どうしてこういうときに銀はいないの? 銀がいれば、アイスとかアイスとかアイスとか取ってもらえるのにっ」
イライラして仕方がない。いっそストレス解消に銀の部屋のベッドを蜂の巣にしておこうかなどとも考えたが、今は階段を上がるのですら億劫に思えて、もうどうしようもない。
「はぁ……大人しく薬飲んで寝よう」
無難な方針が決定すると、不思議と普通に立ち上がって、台所まで歩けた。冷蔵庫上の置き薬箱から風邪薬をおろして、三錠まとめて水で流し込む。
さて寝るぞ、と思ったその時、家のチャイムが鳴った。
「ったく、こんなときに……」
溜息交じりに、涼子は玄関に向かう。急な来客もあるかと思って着替えておいたのだが、本当に客に来られると、いっそパジャマのままでいた方が、自分に言い訳する余地があってよかったかもしれない、などと思う。
サンダルをつっかけて応対に出ると、数日前に見た顔がそこにあった。
「あら? あなたは……」
言いかけた涼子を遮るように、突然の女性客は涼子に向かって手を伸ばした。その手に握られていたのはスタンガンだ。突然のことで、また微熱のせいで、涼子は対応が遅れた。
バチン、と音がして涼子の体は崩れた。
涼子は悔しげに顔を歪め、唇の端をぶちっと噛み切った。
私のスタンガンの方が十倍は出力があるわね、などとつまらないことを張り合いながら、結局涼子は意識を失ったのである。
★★★
突然のエマージェンシーでも、咄嗟に唇を切って血を流したのは流石だった。この血は、白銀に記憶を読ませるために涼子がわざと落としていったのだ。
記憶を読む限り、今のところ涼子に大きな怪我はない。だが、急がなければならない。涼子を襲った相手は、予想通り滝野瑞穂。このままいけば、間違いなく涼子が三人目になる。
「くそっ……よりによってこんなときに」
白銀がいない間に、しかも涼子が万全でないときに来るとは。涼子は普段は悪運が強いが、肝心なところでは運が悪い。
「だが、なんで涼子が……あいつは人間なのに……」
吸血鬼の白銀が狙われるならまだしも、涼子が標的になる理由がない。
いや、待て。白銀は、滝野瑞穂が訪ねてきたときの記憶を引っ張り出す。
あの時、白銀は彼女の前で、涼子に向かって言ったのだ……あの不名誉な二つ名、「四次元スカート妖怪」と。
まさか、あれを真に受けたのか? 白銀は愕然とする。思った以上に、滝野瑞穂の思考回路は危ない。そんな馬鹿みたいな妖怪がいるわけないだろうに、正常な思考が働いていないとしか思えない。
というか――
「ほとんど俺のせいじゃねえか!」
白銀は忌々しげに叫んで家を飛び出した。