16 二人そろえばおおむね無敵
涼子は浮かんだ涙を拭い去り、白銀に向かって微笑んだ。
「涼子?」
「終わりにしよう。あのビッチを、ぶっ飛ばして」
「……ぶっ飛ばすって、簡単に言うけどさ」
そんなに簡単にできたら苦労はない。
「大丈夫よ。二人で力を合わせれば何でもできる…………ねえ、今私いいこと言った? 格好いい?」
「台無しだよ」
最後の一言さえなければそこそこ格好良かったのに。
「ほら、来るよ」
涼子が注意を促す。茉莉は伸ばした爪で手首を掻っ捌き、血飛沫を上げた。血の珠はやがて弾丸となり、涼子を狙って放たれた。
反射的に射線に入り、白銀は爪で弾丸を弾き飛ばす。
「援護する。突っ込んで」
背後で涼子が銃を構える音。白銀は思わず苦笑する。
「人使い……いや、吸血鬼使いが荒いな」
言いながら、白銀は駆けだした。先刻まで立ち上がるのもやっとなくらいだったのに、今は不思議と体が動く。後ろに涼子がいてくれるからだろうか。
茉莉は血の弾丸を放つ。しかし、白銀が手を出すまでもなく、涼子が撃った鉛弾がぴたりと撃ち落としていく。その命中精度は超人的だ。
やがて茉莉の懐に飛び込むと、白銀は貫手を繰り出す。茉莉は目を剥き体をずらすが、避けきれずに、ナイフの如き爪は茉莉の頸動脈を抉った。
「くそッ……!」
口汚く叫ぶと、茉莉の体は下方へ沈んでいく。影の中に潜り込んだのだ。どこへ行ったのかは考えるまでもなかった。直後に、背中に殺気を感じた。茉莉は影を伝って白銀の背後に回り込んだのだ。
だが、白銀は焦らない。
涼子が「援護する」と言ってくれたから。
乾いた銃声が響き、茉莉の短い悲鳴が聞こえた。攻撃は来ない。振り返りざまに茉莉を蹴り飛ばすと、涼子の弾はしっかり命中していたらしく、茉莉の右大腿に穴が開いているのが見えた。背中から倒れた茉莉は立ち上がろうとするが、それを阻むように、一発、二発と茉莉の肩を銃弾が貫いていった。
茉莉の再生速度は落ちていた。動きも鈍っている。対物ライフルでミンチ同然にまで追い詰められたのは、全く効いていないというわけではないようだ。
茉莉は強い。恐るべきはそのスキルの多彩さと驚異的な再生速度だ。だが、その強さ故に、茉莉はそれ以外が疎かだ。
単調な行動パターン。
相手の攻撃を避けようともしない慢心。
そういう隙を、涼子の銃弾は的確に穿っている。
やがて、茉莉の驚異的な能力の源である血は垂れ流され、弱体化する。
――茉莉、お前は負けるんだ。
――お前が嘲笑った人間に。
倒れた茉莉に馬乗りになって押さえつけると、
「銀! 受け取りなさい!」
涼子が叫んだ。
顔を上げ右手を掲げると、涼子が放り投げたそれはくるくる回り弧を描きながら飛んできて、綺麗に手の中に納まった。握りしめた瞬間、手が焼けるように熱くなったが、決して離さなかった。
「――ぁあああああッ!!」
全て終わらせるために。
白銀は茉莉の心臓に、純銀のナイフを突き立てた。
荒く息を吐き出し、白銀はそろそろと立ち上がる。途端にふらついた体は、いつの間にか傍に来ていた涼子が支えてくれた。
純銀に焼かれた手のひらを見つめ、白銀は問う。
「どこから持って来たんだ、こんなもの」
「クルースニクがママに押しつけていったナイフよ、それ。警察に証拠品として押収されてたのを、結城さんに無理を言って持ち出してもらったの」
「ばれたら懲戒ものだろう」
「ばれないでしょ、もう十三年も前の事件の証拠品だもの」
もう十三年。「もう」と言っていいのか、と白銀は涼子に視線で問う。それに気づいたか否か、涼子はどこか感慨深げに呟く。
「ママは十三年前、それであなたを助けた。そして、今も……吸血鬼が純銀に助けられるなんて、皮肉ね」
「ああ……」
純銀のナイフは白銀を助けた。そして、茉莉には牙を剥いた。
「けど……」
涼子は何か言いたげだったが、躊躇し言葉を濁した。その言葉の先は、聞かなくても解る。
「解ってる……茉莉は死んでない」
茉莉は沈黙した。だが、死んではいない。白銀以上に強い力を持ち、何百年も生きた吸血鬼は、白銀以上に化け物だ。純銀のナイフで心臓を貫かれてなお、死ななかった。眼下で倒れる茉莉は、赤い瞳にぼろぼろと涙を浮かべて、悔しげに唇を噛んでいる。悔しがる姿は、とても人間臭い。
「……して……どうして……」
消え入りそうな声で茉莉は泣く。
「どうして私を一人にするの……私はあなたをこんなに愛しているのに……」
「あなたの愛は、最初から間違いだらけだったのよ」
涼子は、いっそ憐れむような声で告げる。
「あなたが愛しているのは銀じゃない。あなたが好きなのは自分だけ。だから周りのことが何も見えない。誰が傷ついても、誰が泣いても気づかない。そんなことじゃ、何も手に入れられない。残るのは独りぼっちの自分だけ」
「違うっ……私は……」
「違わないよ。あなたに見えていたのは銀じゃない。あなたは、綺麗なお人形をはべらせた自分を夢見ていただけ。そういうのは、愛って言わないの。女子なら誰でも知ってる常識よ。あなたはそのあたりのことを、千年くらいかけて学びなおした方がいいんじゃないかしら」
どこからかサイレンの音が聞こえてくる。きっと涼子が呼んでおいたのだろう。結城あたりがここへ向かっているのだろうと白銀は悟る。
茉莉は頬を真っ赤に染めて泣いている。涙を拭おうにも、手が動かないようだった。
その涙を、拭ってやろうとは思わなかった。
「――さようなら、茉莉。これで全部、終わりだ」
白銀は茉莉に背を向ける。もう茉莉は追いかけてこない。二百年間続いた、鬼しかいない鬼ごっこが、終わったのだ。
ぐらりと視界が揺れた。なんとか耐えていたが、そろそろ限界らしい。
暗転する世界。頬に湿った土の感触があった。音が遠くなっていく中で、誰かが必死で名前を呼び続けるのが聞こえた。
その声に応えようとするが、しかし、白銀は声すらも出せなくなっていた。
体も思考も、何もかもが重い。
白銀はそのまま意識を手放した。
「貧血だね」
「……あ、そうですか」
医者の端的な診断に、白銀はどっと脱力した。初老の男性医師は皺だらけの顔にからかうような笑みを浮かべる。
「君、吸血鬼のくせに貧血なの? 珍しいね」
「はあ、よく言われます」
「とりあえず、鉄剤出しとくね。それとも輸血用の血液パックこっそり持ってく?」
「鉄剤をお願いします」
横からきっぱりと口出ししたのは、過保護な母親よろしく診察室までついてきた涼子である。
「そう? じゃ、鉄剤ね。窓口で処方箋貰って、もう帰っていいよ。お大事に」
「ありがとうございましたー」
涼子は晴れやかに告げる。白銀は、涼子にずるずると引きずられ部屋を出た。
待合室のソファに並んで座り、会計の順番を待っている間に、涼子は重い溜息をついた。
「人騒がせな奴。結局ただの貧血かよ」
「仕方ないだろ。派手にやらかした後でずっとふらふらしてたんだ。その上クルースニク連中にも酷い目に遭わされたし」
ぼやくと、涼子は気遣わしげに白銀を見つめた。
「……痕、残っちゃったわね」
「ああ……」
一番酷い痕が残ったのは純銀の鎖で縛られていた両手首だ。他にも、ナイフを握った右の手のひらと、聖水を浴びた肩から胸にかけて、火傷のような痕が残ってしまった。吸血鬼の弱点によって負った傷は、吸血鬼の再生能力では治癒しなかった。
「……まあ、そのうち消えるんじゃないか? 人間だって、体の傷は時間をかければ治るじゃないか」
「それもそうね」
やがて名前を呼ばれると、涼子が代わりに窓口で清算を済ませた。
処方された薬を薬局で受け取って帰途につくと、涼子は「そういえばさぁ」とどこか不満げな声を上げた。
「あなた、病院では『日下部悠』って呼ばれるのね」
「保険証に偽名は使えないからな」
「医者がそう呼んでいいなら、私も呼んでいいよね」
「なんだ、藪から棒に。呼びたいのか」
「いい?」
「お前が俺に許可を求めるってのは珍しいな」
「だって、あなた強情だからさ。人間の悠はもう死んだんだー、とか言いそうじゃない」
図星である。相変わらずお見通しだな、と白銀は苦笑する。
「まあ、好きにしろよ」
「そう? じゃ、早く帰ろう、悠。白刀たちがそろそろ待ちくたびれてる頃ね」
「たち? 白刀以外に誰かいるのか」
「みんないるよ。漁さんとか、小夜さんとか、結城さんとか。あと梓さんに雲居に志麻君に……」
「なんだ、その大所帯は」
「言わなかったっけ? 今日、みんなでパーティーだって」
「俺の快気祝い?」
「まさか」
真顔で即答である。嘘でもいいから肯定してほしかった。内心涙目の白銀である。
「悠の数々の失態を肴に飲み明かす会よ」
「やめてくれ」
「ふふ、冗談よ。ま、暑気払いって奴ね。今回お世話になったみなさまに、悠のヘソクリで思う存分飲んでもらおうと」
「げっ! お前、俺が部屋に厳重に隠しておいたのに!」
「部屋にトラップを仕掛けてたら偶然見つけちゃって。あと、デスクの引き出しの二重底の下はたいして厳重じゃないわよ? 二重底を発見した瞬間はエロ本でも隠してるのかと思って歓喜したんだけど、ただのお金でちょっとがっかりしたわ」
「なんでエロ本かもで歓喜するんだよ」
「いや、二百年も生きてるわけだから、実際のところ枯れてるのかどうなのか気になるじゃない」
白昼堂々と、それなりに人目のある通りで、涼子はかまわず品のないことを言う。
「余計なお世話だ、馬鹿」
顔を赤くして白銀は目を逸らす。それを見てにやにやする涼子の横顔を見て、まんまとからかわれてしまったと気づく。
しかし、涼子のその問いかけが、実はけっこう重要な意味を持っていたことに気づくのは、少し先の話である。
飲み明かす、とは言っていたが、未成年も交っているし現役刑事も交っているわけだから、飲めない奴は大人しくジュースで乾杯した。酒を飲んでいたのは、女子トークに花を咲かせた漁と梓で、漁がかなりザルだったせいで、白銀の懐はかなり痛んだ。
白銀は部屋の隅っこで結城とひっそりウーロン茶を啜っていた。素面のまま話したいことがいくつかあったのだ。
「……茉莉はどうしてる?」
茉莉とクルースニクたちの後始末をしたのは、結城だった。
「どうも。施設でずっと大人しくしてるよ。逃げ出す様子もないらしい。ただ、呆然としてる……もう疲れちまった、みたいな顔してる」
「そうか……」
「終わりのない鬼ごっこは、逃げる方もつらいが追う方もつらいもんだ。終わらせられて、案外せいせいしてるのかもしれない」
「そういうもんか」
勝手な奴だ、と思う。我が儘で、独善的で――可哀相な女。かつて怒りと憎しみと共に思い出していた吸血鬼の名前を、今の白銀は憐れみと共に思い返す。茉莉を赦すことはない。それでも、ずっと憎み続けるのも存外疲れるものだ。
それに、身につまされる話だとも思う。十和田茉莉の姿は、決して白銀と無縁の姿ではない。永遠の時を生きる中で孤独に絶望し、狂ってしまうことになれば、白銀もおそらく彼女のようになってしまう。
今、一線を越えないでいられるのは、長い時間の中で出会った、孤独を癒す人たちのおかげであって。
ゆえに白銀は、仲間たちを手放したくないし、茉莉を赦さないし、自身を戒める。
「……それよりな」
不意に結城が恨めし気に白銀を見遣る。
「今回の一件で俺は減給されたぞ」
「なんでまた」
「証拠品持ち出したのがばれたからに決まってるだろうが」
誰のせいだと思っている、と言いたげに結城はじろりと睨む。少し考えて、理解した。茉莉の胸には、純銀のナイフが刺さったままだ。吸血鬼の力を封じておくためにそうしている。厳重に保管してあるはずの証拠品が堂々と晒されているのだ、そりゃあばれる。
「まあ、この程度で済んだのは、違法ハンターどもの一斉検挙と帳消しになった分があるからだな。吸血鬼狩りの過激派にはいろいろと苦労させられていたからな、まとめてしょっ引けたのは僥倖だった。……結局のところ、十三年前の件も、今回の涼子ちゃんの件も、裏で動いてた十和田茉莉とクルースニクたちの陰謀だったわけだろう?」
結城がぼかしながら言ったのは、深雪を殺したことと、涼子を殺しかけたことについてだ。
「まあ、そういうことなんだろうけど……けど、俺がやったことに変わりはないから」
「はぁー」
言った途端に結城が嘆息した。心底呆れてるふうだった。
「なんだよ」
「そういうところが、お前の悪い癖だな」
結城は自分で自分の言葉に納得してうんうんと頷いている。白銀にはなんのことだかよく解らない。
「そろそろ自分を赦せ、白銀」
「……赦す?」
「ああ。俺が見たところ、お前を赦せていないのはお前だけだ。涼子ちゃんは、たぶんもう赦してる」
「まさか」
白銀は反射的に涼子を見遣る。涼子は楽しそうに小夜と話をしている。漏れ聞こえる言葉の断片からすると、小夜と志麻の惚気話で盛り上がっているらしい。
「あの子は聡い子だ。本当はずっと赦したかったに違いない……けれど、複雑な問題だからな、そう簡単に水に流すわけにもいかない。だが……今回の件は、あの子に『口実』を与えた。やっと赦せる……そう思ったんじゃないかな」
その言葉を聞いて、思い当たるのは、涼子があの時呟いた言葉だ。
『やっと、退ける』
あれは、そういう意味だったのだろうか?
白銀には、まだよく解らなかった。
罪を赦されたのか。
涼子に近づくことを許されたのか。
よく、解らない。
そして、白銀をさらに混乱させる事態が発生するのは、翌日のこと――
「子作りしようか」
唐突に涼子から告げられた爆弾発言に、白銀は思わず飲んでいた茶を噴き出した。びしょびしょになったちゃぶ台を、白刀がいそいそと掃除した。それを横目に、白銀は頭を抱え、涼子を凝視する。涼子は、いたって真面目そうな顔をしている。
「待て、涼子、頭でも打ったのか」
「私は正気よ。これを見なさい」
そう言って、涼子は分厚い本を広げて見せる。『吸血鬼伝説 ~よく解る吸血鬼~』とかいう怪しげな本だ。涼子が開いたページには、ダンピールの解説が載っている。
「人間と吸血鬼の間に生まれた子どもは、吸血鬼を殺す力を持ってるんだって。ねえ、試さない?」
「試さない? って、どんだけ軽いノリでとんでもないこと言ってるんだ」
「私は真面目よ。茶化さないで男らしく答えなさい。やるの、やらないの」
「やるわけないだろ。お前、俺を殺すためにどこまでやるつもりなんだ。もっと自分を大事にしろよ、せっかくの処女なんだから」
言った瞬間、涼子は舌打ちをして、スカートの下から銃を取り出した。
「今のは白銀が悪いー」
白刀のジャッジ。
三十六計逃げるに如かず。
白銀は一目散に逃げ出した。後ろから「待てッ!!」と怒号が響いたが、振り返ることなく家を飛び出した。
本気で逃げようと思えば、人間である涼子に吸血鬼が追いつかれるはずがない。白銀はここぞとばかりに全力で逃げた。逃げた先は、漁の家だった。
急な来訪にも関わらず、漁は少し驚いただけで、白銀を匿ってくれた。
「た、助かった……漁」
「いや、構わない。私も貴様には言いたいことがあった」
「え」
「昨日の席では、水を差すまいと黙っていたが。貴様、私が貸したリボンはどうした」
そういえば、そんなこともあったっけと白銀は思い出す。
「あー……悪い、燃やされた」
「何ぃ!? 貴様、よりによって燃やされたとはどういう了見だ!」
「悪かったって! お詫びならいくらでも……」
「そうか」
漁は驚くほどあっさり怒りを引っ込めた。何か裏があるような気がした。
「なら、今すぐ落とし前を付けさせてもらう。大人しく涼子のところに戻れ」
「はぁ!?」
「今さっき、涼子から電話があった。貴様がここに来たら家に帰らせろと」
「くっそ、お見通しかよ!」
そろそろ体のどこかに盗聴器と発信器を仕掛けられているのではと疑うレベルのお見通し具合だ。
「いったいなにをやっているのだ? なぜ涼子から逃げる」
「涼子が子作りとか言い出した。俺を殺すにしたって、もうちょっと他に方法があるだろうに。冗談にしても行き過ぎだ」
白銀が愚痴ると、漁は少し逡巡した後、聞こえよがしに溜息をついた。
「冗談だと思ってるのか、貴様は」
「えっ」
「貴様は好きでもない奴にそんなことを言えると思うのか」
「……」
「そんなんだから、女心の解らないヘタレだというんだ、貴様は。涼子が、復讐のために貞操をくれてやるような分別のつかない女に見えるのか」
「それは……」
「そんなのは口実だ。素直になれない女子の気持ちを汲むのは紳士の務めだと、雑誌で読んだぞ」
「…………今度その雑誌貸して」
自他ともに認める、女心の解らない吸血鬼だが、一つだけ知っていることがある。
どこで聞いたか忘れたが――曰く、女の子を待たせる男は、死刑。
照れくさいのを誤魔化すようにがりがりと頭を掻く。
「……ああ、もうっ」
解りにくいよ、お前の愛情表現。
そうぼやきながら、悠は涼子の待つ場所へと急いだ――
完結しました!
諸々の反省会は活動報告で。




