10 愛するものほど遠ざかる
「話を聞くほどに、今回の件は十三年前と酷似していると思う。あの時も、白銀は豹変した。一之瀬深雪は白銀を殺そうとなどしていなかった……だが、白銀は深雪を殺した」
結城は苦々しい表情で、爆弾を落とした。涼子の母親が先に白銀を裏切ったのだとされていた。しかし、実際には、先に裏切ったのは白銀だったのだと、結城は白状した。
「どうして、正当防衛だったなんて嘘を」
涼子の追及に、結城は申し訳なさそうに頭を垂れる。
「深雪の悲鳴を聞いた人の通報を受けて、現場に最初に駆け付けたのが、丁度近くにいた俺だった。そこにいたのは、瀕死の深雪と、呆然と蹲っていた白銀だ。何があってそんな状態になったのかは、俺には解らなかったし、白銀自身もわけが解らないといった調子で。ただ、俺が見たのは……俺が彼女のところに駆けつけ、今救急車を呼ぶからと声をかけた時、彼女は懐からナイフを抜いたんだ」
「え……?」
思わず声を上げたのは白刀だった。
瀕死の深雪は、ナイフを抜いた。クルースニクから押し付けられた、純銀のナイフ。吸血鬼の弱点。
だが、なぜその瞬間に抜いたのか。
クルースニクに唆されるままに白銀を殺そうとしたわけではない。白銀に襲われ、反撃するために抜いたにしては遅すぎる。警察がかけつけ、救急車を呼ぶと言った瞬間に、思い出したように抜かれたナイフに、何の意味があるのか。
「……ママは、銀を守ろうとしたんですか」
涼子がぽつりと呟いた。どこかさびしそうな声だった。
「俺はそのように受け取った。そのままでは間違いなく白銀は罰を受けることになっただろう。罪を犯せば罰を受けるのは当然だ。だが、現在の風潮は、人間も妖怪も平等と謳いながらも、やはり妖怪に対する刑は重い。人を襲った吸血鬼ともなれば、人間と同じようには罰せられない、間違いなく、通常より重い刑が執行される……おそらく始末人による処刑は避けられなかったろう。それを阻止するために、深雪は最後の最後で、正当防衛に見せかけるためにナイフを抜いた……んだと、思う。本人からそう言われたわけじゃないから、俺の思い違いかもしれない」
「いえ……きっと、そうだと思います。ママは銀を愛していた……それだけ、それだけなんです、きっと」
「俺の独断で勝手なことをしてすまなかった」
「いいえ、かまいません。おかげで私は、私の目的を果たすことができますし」
涼子が望んでいるのは、自分の手で白銀に復讐することだ。刑務所などに入られていたのでは手が出せないし、うっかり他の奴に殺されなどしたらたまらない。たとえ事実を捻じ曲げられていたのだとしても、結城がしたことは、涼子にとっては悪いことではない。
「今更、十三年前の結城さんの判断を責めるつもりはありません。そういうつもりで訊いたんじゃないんです」
「じゃあ、なぜ?」
「私の知る限り、銀は血を吸うときはとても紳士的なんです。元が人間だったって聞いて納得しました、あいつはまだ、心は人間なんです。だから、酷いことはしない、絶対……まあ、たまにぶち切れて暴走することもなきにしもあらずですけどね」
その暴走に心当たりのある白刀は小さく肩を竦めた。
「銀は……私には優しいもの。自分を殺そうとしてる相手なのにね……」
そこには、ある種の信頼があった。復讐相手を信頼するというのも、なかなかどうして奇妙なことではあるが。
「私は銀を信じます。だから、疑うべきは他にいる……十和田茉莉です」
涼子は、白銀の口から聞いた因縁の相手の名前を思い出していた。
「独占欲の強いヤンデレクソビッチ吸血鬼のようだし、そりゃあ私は邪魔者よねえ……」
涼子は不敵に微笑む。
標的をロックオンした、そんな目だ。強気な目のまま、涼子は結城に言う。
「結城さん、一つ、お願いがあります」
「なんだ?」
にこりと笑って、涼子は無茶な注文をつけた。結城が苦々しい顔をしたのも無理はない。
「……涼子ちゃんって、実はけっこう無茶な子だよな」
「ゆーきさん、それすごく今更」
傍で聞いていた白刀が同情気味に苦笑した。
★★★
白銀が徐に立ち上がるのを見て、漁は問うた。
「もう、行くのか?」
振り返った白銀の目元は赤い。長生きしているくせに子どもみたいに泣きじゃくった跡だ。だが、今はもう涙は乾いている。
「これからどうするつもりだ」
「……茉莉を殺す。俺にはもう、それしかない。あいつを殺して、俺もきっと死んでみせる。深雪と涼子を殺した償いを、今度こそ……」
ああ、と漁は内心で溜息をついた。
お前はそんなことをする奴じゃない、と言ってやったのに。涼子には黙っててくれと言われたものの、さすがに良心が咎めたので、それとなく涼子は生きているから大丈夫だとほのめかしたつもりだったのに。この思い込みの激しい頑固な吸血鬼は漁の送ったサインにまったく気づいてくれなかった。
この鈍感、と漁は心の中で罵った。
それにしてもいったい涼子は何を考えているのだか。よもや幽霊のふりをして白銀の前に現れるわけではないだろうが。どうにも、事態は漁が思っている以上にややこしいらしい。白銀から聞いた断片的な情報だけでは、今何が起きているのか、漁には正確には解らない。ゆえに、どうにも悲壮な決意を固めている白銀を、止めるべきなのか否か判断がつかず、結局流されるままに白銀を送り出すことになりそうだ。
しかし、それはあんまりにもいい加減な対応ではないだろうか、と漁は悩む。
「まったく……しようがない」
漁は部屋のドレッサーの引き出しを開けた。
「こいつを持っていけ」
探し出して白銀に渡してやったのは青いリボンだ。
「髪が煩そうだから。貸してやる。必ず返しに来い」
目を丸くして受け取ったリボンを見ていた白銀は、やがて漁の意図を理解したようで、薄く微笑んだ。
「解った。借りていく。……ありがとう、漁」
白銀は漁に背を向け去っていく。
一人で行ってしまった白銀を思い、漁はもう何度目か解らない溜息をつく。
「あの吸血鬼を心配する日が来るなんて、思いもしなかった……」
私もヤキが回ったな、と苦笑を漏らした。
★★★
同じ銀の髪、同じ赤い瞳を持つのに、心だけは同じではない。茉莉がどんなに愛しても、悠は茉莉を愛さなかった。
愛は見返りを求めないものだ、と誰かが言った。しかし、それでも茉莉は、与えた分だけの愛を返してほしかった。数百年の時を、出会いと別れを繰り返し孤独に生きてきた茉莉が、初めて、永遠に一緒にいてほしいと願った相手は、しかし茉莉を拒み続ける。拒めば自身も孤独になるしかないというのに、それすらも厭わない。
「本当に、意地っ張りな子……」
茉莉は愛おしげに呟く。
彩華二高の旧校舎前、花壇の傍で茉莉は待っていた。すでに使われていない花壇には当然何の花も咲いておらず、土だけが残されている。校舎も体育館も壁は薄汚れているし、手入れのされていない植木は形悪く葉をつけている。
数百年の時を生きる茉莉は、とうに学校は卒業してしまったが、その後も何度か、気まぐれに学校に通ったことがある。書類を偽造して、子どものふりをして、何度も学校生活を繰り返した。そうでもしていないと、退屈ですることがなかったからでもあり、誰かを好きになれるかもしれないと思ったからでもある。
そして、何度目かの大学生活で見つけたのが、日下部悠という青年だった。
この先の孤独を慰めてくれるのはこの人しかいないと思った。
「これでもう寂しくない……そう思った。だいぶおあずけをされてしまったけれど、でも」
茉莉は顔を上げる。視線の先から歩いてくる影を認め、微笑む。
「もう追いかけっこは終わりにしてくれるのね?」
見慣れない青いリボンで髪を結い、右手には鮮紅の刀を持ち、赤い瞳に静かな闘志を湛えて、悠がそこにいた。
「理解してくれたのかな、あなたには私しかいないって。私以外の『大切』は、結局あなたが自分で殺してしまうんだって。……一之瀬涼子の血は、どんな味だった?」
茉莉の解りやすい挑発に、悠はあえて乗ってきた。赤い刀が閃く。
「『凍剣』」
雪女の血から得た氷の力で、氷の刀を作り出す。
キン、と鋭い音で刀が交わった。ぶつかりあった妖気の波があたりに波紋を広げる。鍔迫り合いをしていると、二人きりの世界にいるような錯覚さえ覚えた。
今、悠が自分だけを見てくれている。そう思うと、この緊迫した状況の中でも、自然と笑みが零れた。
「十三年前と同じように、大切な人を自らの手で殺した。いい加減、解ったでしょ? あなたには、私以外必要ないの」
「……ああ、解ったよ――」
そう悠が呟いた瞬間、視界の端で水飛沫が煌いた。
ぶしゅっ、と首のあたりで嫌な音。赤い飛沫が勢いよく噴き出した。悠の白い頬が返り血を浴びる。頸動脈を斬られたのだとすぐに解った。
悠は血の刃と同時に、水の刃も操っていた。
少し油断したかな、と茉莉が微笑むと、悠は追い打ちをかけるように、茉莉の胴体を半分にした。
歓喜に震えていた茉莉は、しかし一瞬で地に堕ちる。真っ二つになった状態で倒れると、見上げた先で悠が冷たく告げる。
「――お前を殺すしかないんだって」
悠はまだ、茉莉の物になってはくれなかった。




