3 死に始まって報いに終わる
春の日差しのように微笑む茉莉。しかし、対する悠は凍りついた。こんな美人に告白されたら、普通なら舞い上がってしまうだろう。たとえ自分が相手に気がなかったとしても、少しは嬉しくなるものだ。
しかし、悠は全く嬉しくない。むしろ、なんという修羅場なのだろう、と思ったくらいだ。
悠の戸惑いをよそに、茉莉は恥ずかしそうに続ける。
「ハル君、私と付き合って」
初めて、「ちょっと酷い」と思った。海人の想いには鈍感なくせに、こうやって乙女ぶって告白するのが、無自覚な残酷さなのだと悠は思う。いや、もしかしたら海人の気持ちを知っていながら、気づいていないふりをしているのかもしれない。
なんにしても、悠の選択は、迷うことなく一択だ。
「すみません、先輩。俺は先輩のこと、恋愛対象として見てませんから。付き合えません」
「ハル君……」
「失礼します」
まだ何か言い募ろうとする茉莉を遮り、悠は脇をすり抜け離れていく。
茉莉は追いかけてこなかった。
サークルに行きづらくなってしまったな、と悠は溜息をついた。
茉莉がいると思うと、部室には顔を出しづらい。しかし、茉莉とそんなことがあったとは当然知らない海人とは、サークルでまた会おうと言ってしまってある。さてどうしたものか、と結論が出ないまま、悠は未練がましく部室の前まで来てしまっていた。
ドアの向こうは少し騒がしい。誰かいるようだ。一人、部長だけは確実にいると解った。部長はどんな日も、必ず部室に一番乗りしているのだ。そして、ドア越しにでも聞こえる騒がしい声は、間違いなく部長のものである。どうも話に熱が入っているような気がする。部長の他に、部長の熱弁に付き合わされている部員がいるようだ。
入ろうか、帰ろうか。その二択で、悠は延々と悩んだ。
しばらくそうして扉の前で突っ立っていると、
「お、ハルじゃん!」
後ろから声がかかった。振り返ると、廊下の先から、歩いてくる影。声のおかげで相手が海人であることはすぐに解ったが、割と距離があり、廊下が薄暗いせいもあって、顔までははっきり見えない。そんな中、後ろ姿だけで悠を判別した海人の目の良さは驚嘆に値する。
「海人……」
海人が手を振りながら歩いてくる。こうなってしまっては、今更引き返せまい。悠は苦笑し、肩を竦めた。
と、背後でがらっと扉が開く音。反射的に振り返ると、茉莉が出てきたところだった。中で部長と話していたのは茉莉だったらしい。手洗いに行くのだろうか。それにしても、なんとタイミングの悪いことか、と悠は自分の運の悪さを呪う。
「先輩……」
悠は気まずげに目を逸らす。
茉莉は、しかし、そんな悠の態度など気にせず、にっこり笑って、悠の肩にそっと手を置いた。
直後、茉莉の顔がぐっと近づいて、
「…………、」
思考が止まった。
茉莉の甘い吐息が、うっとりとした瞳が、柔らかい唇が、すぐそこにあって。
強引に唇を奪われた。
だんっ、と強い足音で我に返る。
「……ッ!」
茉莉を少々乱暴に突き飛ばし、振り返る。海人の後姿が急速に遠ざかって行った。
「海人!」
走り去っていく海人の背中を、悠は慌てて追いかけた。
取り返しのつかないことをしてしまった――一瞬でそう悟った。
このまま海人と別れてしまったら、本当に、もうどうしようもなくなる。
待って、待ってと。何度も叫んで。
だが、海人は待ってくれなかった。校舎の外まで追いかけて、しかし彼の背中には追いつけなかった。息切れを起こした体に苛立ち、見失った姿に絶望し、汗と一緒に涙を流した。
「ハル君」
甘い声が名前を呼んだ。振り返ると同時に、そこに立っていた茉莉の胸ぐらを掴んだ。相手は女だとか年上だとか、そんなことを考えている余裕はなかった。
「どうしてあんなことを! あなたとは付き合えないと言ったはずです! 海人の気持ちにだって、本当は気づいてたんでしょう? どうして、こんな無理矢理、海人の前でッ!」
散々に怒鳴り散らした。しかし、茉莉は謝るどころか、なぜか淫靡な視線を悠に向けていた。
そして、にぃ、と。唇を歪めて笑った。
何がおかしいんだ――そう問い詰める前に、バチンと首筋で電流が弾けた。
目を覚ますと、奇妙な感覚に襲われた。酒に気持ち良く酔ったときのような気分に似ていた。はっきりしない意識の中で、恍惚感だけが明確に感じられていた。
首のあたりで何かがさらさらと動いた。それが女の髪だと気付くのに時間がかかった。
「一目見た時からね、綺麗な子だなって思ってたのよ」
誰かが――否、茉莉が、悠の肩のあたりに顔を埋めながら、耳元で囁いた。
柔らかいベッドに寝かされた悠の上に、茉莉が乗っていた。視線を巡らせると、部室の前で会った時と同じ、黒いブレザーを着ているのが見えた。
「出倉君から話を聞いて、いい子なんだな、って思った。実際に会ってみて、それが確信に変わったの」
体が重くて動かなかった。今がどういう状況なのかも、理解できなかった。
「私、一緒にいたいって思った。ずっと、私の傍に置いて、独り占めしたいって思ったの。だから、あなたの友達は邪魔だった。出倉君が私に気があるのは知ってた。それを利用してやろうと思ったわ」
綺麗な声で、残酷なことを、茉莉は言う。
「やっと、二人になれたね、ハル君。これからもずっと二人だよ。何年経っても、何十年経っても……何百年経っても、何千年経っても、私たち二人だけ」
耳元で、奇妙な音がした。茉莉が何かを嚥下する音。
不意に茉莉は体を起こす。悠の目に映ったのは、それまでの茉莉とは違う妖しい姿。
「ハル君、見て。私たち、お揃いだよ」
そう言って、茉莉は手鏡を悠に向けた。
そこに映っているのは、無様に泣いている顔。
茉莉と同じ、銀色の髪と赤い瞳を持つ、醜い顔だった。
★★★
「何年ぶりかなあ。百年くらい? ねえ、元気だった、ハル君?」
相変わらず、薄気味悪い笑顔を浮かべて、茉莉が親しげに言う。その言葉の一つ一つが神経を逆撫でした。
「二度とその名前で呼ぶなと言ったはずだ。悠は死んだ。二百年も前に……お前が殺した」
日下部悠という人間は、吸血鬼に殺された。後に残ったのは、悠を殺した憎き敵と、その敵と同類に落ちぶれた男だけだった。
目の前にいるのは、悠を殺した憎き敵。全ての元凶の、悍ましい吸血鬼だ。
「もう、折角久しぶりに会えたって言うのに、一言目がそれなの? もっと他にない? 相変わらず綺麗だね、とか。また会えて嬉しい、とか」
拗ねたように唇を尖らせる仕草は、年頃の少女のよう。しかし、実際には、白銀以上に長い時を生きている、不死の化け物だ。
「ああ……また会えて嬉しいよ」
白銀は憎しみの籠った赤い瞳で、茉莉を睨んだ。
「俺はずっと、お前を殺したかった!!」
手首を噛んで、血を流す。流れた血を刃と為す。
悍ましき化け物の鮮血でできた刀を片手に、白銀は茉莉へ飛びかかった。
★★★
結城が帰った後、なぜか白刀がそわそわしていた。白銀がいないまま、平気でご飯を作って、二人だけで夕飯を済ませて、お風呂に入って、さあ寝ようとしたところで、痺れを切らした白刀が部屋に乗り込んできた。
「涼子っ」
「あら、白刀。どうしたの」
タオルを頭にかぶせてわしわしと髪を乾かしていた涼子は、ノックもなしに飛び込んできた、珍しく行儀の悪い白刀にきょとんとする。そろそろ寝ないとお肌に悪いのだが、などと呑気に考える。
「どうしたの、じゃないよ。白銀のこと、どうするのさ。隠し神に消されてからずっと音信不通、行方不明! 心配じゃないの? 探さないの?」
「ああ、そのこと」
すっとぼけたように言うと、白刀があからさまにやきもきしているような顔になる。少しからかいすぎてしまったな、と涼子は反省する。
「大丈夫よ、銀だって子どもじゃないんだから、迷子になったのくらい放っておきなさいって」
「迷子! この異常事態を迷子の一言で済ませるなんてっ」
強者すぎるよ涼子ー、と白刀が情けなく項垂れる。
「心配しすぎよ、白刀。城里蕾の話じゃ、今彼女の異空間内には誰も取り残されていないらしいじゃない。とりあえず、こっちの世界には戻ってきてるのよ」
「でも、どこに落ちたか解らないんでしょ? 隠し神本人が解ってないとか異常すぎるよ」
「それは解ってるわ。第三者がちょっかい出してきてるんでしょうよ。けど、あいつどうせ何やっても死なないし、仮に敵が襲ってきてるんだとしても問題ないでしょ。万が一問題があって死んだとしても、私はそれで構わないしー」
身も蓋もないことを言うと、白刀がさらにがっくり肩を落とす。
「はぁぁ……前から思ってたんだけど、涼子ってどうしてそういうこと言うの?」
「そういうこと?」
「殺してやるとか、死んでもいいとか。相手が吸血鬼だからって、冗談にしてもブラックすぎるし、なんか、白銀だけ対応雑じゃない?」
「あれ、話してなかったっけ?」
言いながら、そういえば話した覚えがないな、と涼子は思い出す。成程、事情を知らなければ、確かに不思議な状況だろう。人間と吸血鬼が同棲していて、人間の方が吸血鬼を積極的にいじめ倒しているという光景は、他では見られないだろう。
涼子はにっこり笑って、白刀の疑問に答えてやる。
「まあ、大した話じゃないんだけど」
「うん」
「私のママ、あいつに殺されたから、私はあいつに復讐したいの」
「…………???」
白刀が今までにないくらい、驚いていた。




