8 届きそうで届かない
渕田はくわっと目を剥いて、懐に素早く手を入れる。そして、その手にスタンガンを持ち襲いかかった。
「きゃああっ!?」
突如豹変した渕田に、小夜は驚いて悲鳴を上げた。思わず後退るが、すぐに背中が扉にぶつかった。立てつけの悪い扉に、退路を塞がれていた。
バチバチとスパークさせながら、渕田は涼子に向かってスタンガンを振り上げていた。
「涼子さんっ」
小夜は切羽詰まって叫ぶが、涼子はいたって冷静だった。その場から一歩も動くことなく、小さく呟いた。
「おいで、銀」
瞬間、涼子の足下で、影が蠢いた。
「っ!?」
渕田、長田、そして小夜の驚愕が重なった。水面を突き破って浮上するかのように、涼子の足元に伸びる影から白い手が飛び出してきたのだ。ちょっとしたホラーである。
手の次は頭、胴体、脚と順々に姿を現し、突如現れたのは、銀色の髪と赤い瞳を持つ青年、白銀だった。
白銀は突然出てきたにもかかわらず、現在の状況をしっかり把握しているかのようで、慌てることもなく、目の前で武器を持って襲いかかろうとしている教頭を見据え、彼の右手首を掴み取った。
「いぎっ!?」
よほど強い力で握られているのか、渕田は途端に顔を顰め、手からスタンガンを取り落した。床を転がる得物を、涼子はさっと拾い上げ、くるくる回して批評する。
「うーん、あんまり性能よくなさそうね。まあ、歳食ったおっさんにはこれくらいのほうが安心かしら」
そう言いながら、涼子は流れるような自然な動きで渕田に近づき、首筋にスタンガンを押し当てた。「ぎゃっ」と短く悲鳴を上げて、渕田はその場に崩れ落ちる。
時間にして、三十秒もかからなかった。牙を剥いた渕田を、白銀と涼子であっという間に制圧してしまったのだ。小夜は開いた口が塞がらず、長田のほうも壁に背中をはりつかせた格好で唖然としている。有無を言わせず気絶させてしまった渕田をどうするのかと思っていると、白刀がすかさず、どこからともなく取り出した縄で厳重に拘束した。
「あー、やっぱり私のよりずっと出力弱いわ。要らん」
見るからにがっかりした様子で、涼子はスタンガンを白銀にぽいっと投げた。
「危険物を投げるな。あと、俺はゴミ箱じゃないぞ」
要らないものを押しつけられた白銀は不満げに苦情を言う。それをスルーして、涼子はケータイを取り出してどこかに電話をかけた。誰と話しているのか小夜には解らなかったが、「結城さん」と相手の名を呼んでいるのだけかろうじて聞こえた。
「……し、白銀さん? どうしてここに……いったいどこから?」
かろうじて口を開いた小夜に、白銀はなんのことはないというように、足元を指さす。
「影を使った転移。涼子の影を伝って来た。涼子が合図をしたら駆けつけることになってた」
「合図、ってさっきの? が、聞こえてたんですか」
「話ならずっと聞いてたよ。涼子の制服の襟の裏に仕込んである盗聴器で」
「と、盗聴器?」
「盗聴っていっても、双方の合意の上だけれどねぇ」
通話を終えてそう言って、涼子は笑いながら、襟の中から小さな装置を外して小夜に見せた。そんなものを仕掛けてあったなんて知らなかった。
目立つから、という理由で待機していた白銀も、この盗聴器を通して、話を逐一聞いていたのだ。だから、この場の状況もしっかり把握していた。いつでも駆けつけられるように準備していたということらしい。
ということは、涼子が白銀について「隠しているつもりらしいが全部ばれている」などというようなことを言っていたのは、本人がいないのをいいことに陰口をたたいていたのではなく、文句を言えないのをいいことに遠回しな非難をしていたということになるのか、と小夜は思う。その点について白銀は涼子に今のところ何も言おうとはしていないが、なんとなく恨めし気な視線を向けているような気がするのは、小夜の気のせいだろうか。
とにもかくにも、この状況について、涼子と白銀は勿論、白刀までまったく驚いていないところを見ると、知らなかったのは小夜だけらしい。
「はぁぁ……そんなことになっていたなんて……」
「ふふ、ごめんね、驚かせて。部長さんも驚かせてごめんねー」
涼子は笑って長田に手を振る。長田はすっかり混乱した様子で、ずるずると床にへたり込んだ。彼にもあとで事情をちゃんと説明しなければなるまい。
「さて、あとは被害者たちの行方ね。銀、お願いね」
「男は嫌いなんだがなぁ……」
ぼやく白銀の口から白い牙が覗いているのを、小夜は見た。昨日涼子の家で顔を合わせた時はなかったはずの、二本の牙。
白銀は倒れた渕田の傍らに膝をつくと、渕田の首筋に噛みついた。
「まあ、見ての通り、銀は吸血鬼よ」
小夜の疑問を感じ取ったのか、涼子が説明する。
「血から情報を読み取れるの。その男が誘拐の犯人なら、居場所が解るはず」
「そ、そうなんだ……」
「初見の人には衝撃グロ映像だけどねー」
と、本人の前にもかかわらず平気でそんなことを言う。
「聞こえてるぞ、涼子」
白銀は不機嫌そうに立ち上がる。口元から零れた血を指で拭ってぺろりと舐め、「まっずぃ」と眉を寄せた。
「聞こえるように言っているのよ。そして味の感想は聞いてない。それで、どうなの」
「こいつは情報を流してただけだ」
「金のため?」
「金のため」
「クソだなっ」
涼子は口汚く罵って渕田の背中を蹴っ飛ばした。軽く蹴っただけのようで、渕田は起きなかった。
「国木田薺と志麻宗平という生徒が妖怪であるという情報を流した。それを元に二人を消したのは別の奴。この男自身はただの人間だ。人間を消すような力はない」
「流した相手は?」
「正体は解らないが、若い女だ。『城里蕾』と呼んでいる」
「たぶん、妖怪でしょうね。そいつの居場所については……」
「待て、もう一人……」
白銀は記憶を読み取るのに集中するように目を閉じる。
「つい最近、情報を流している……こいつは、人魚か?」
「人魚?」
涼子が気色ばむ。小夜も妖怪の端くれだ、少しは知っている。人魚の肉を食べると不老不死になれるという伝承が伝わっており、その真偽は不明だが、真実であると信じている、というより妄信している者もいるという。そのせいで、人魚は密かに狩られ、闇の市場に出回ることがあるという。
「人魚の名前は?」
「……雫」
「え」
「長瀬雫という女子生徒だ」
「雫ちゃんが!?」
小夜は思わず声を荒げた。
「今朝話をしたクラスメイトね?」
涼子は朝少し話をしただけの雫のことを覚えているようだった。
「彼女と連絡は取れる? 狙われている可能性があるわ」
「あ、彼女は図書委員です。たぶん、図書室に、」
そう告げるとすぐに、涼子はドアに手をかける。立てつけの悪さに苛立ったらしく、次の瞬間には躊躇なく扉を蹴破った。
「この死体どうすんだよ」
「死んでないよ、白銀」
などと言いながら、白銀と白刀も後に続いた。縛られて床に転がっている渕田を放置し、唖然としている長田、廊下に吹っ飛んだ扉のフォローは皆無である。小夜はどうしたものかと慌てふためいたが、結局「あとで説明します!」と叫ぶだけにとどめて三人を追いかけた。
すぐ目と鼻の先にある図書室の扉を、涼子は勢いよく開け放った。
その瞬間、図書室で悲鳴が上がった。突然飛び込んできた涼子に驚いたから、ではない。小夜も遅れながら中に進入すると、図書室にいた生徒たちがある一点を眺めて固まっているのに気づいた。その視線を追ってみると、床の上に何冊かの本が散らばっている。
「な、何があったんですか」
小夜は近くにいた女子生徒を捕まえて問い詰める。生徒は声を震わせる。
「と、突然、黒い穴があいて、その中に、生徒が吸い込まれて、消えちゃって……」
そんな非現実的な光景を思い浮かべて、小夜はぞっとする。人間の仕業ではない。明らかに妖怪の仕業。
「……雫ちゃん?」
小夜はぽつりと呟き、あたりを見回す。図書室にいるはずの雫の姿は見えない。まさかと思って電話をかけてみると、無機質なアナウンスが流れるばかりだった。
「うそ……」
宗平に続いて、雫まで?
絶望的な現実を突き付けられ、小夜は立ち尽くす。
雫まで消えてしまったのか。間に合わなかったのか。そんなことって――
ガンッ! と激しい音が響き、ぐるぐると渦巻く思考に囚われていた小夜の意識が現実に引き戻される。見ると、涼子が壁に拳を打ちつけて項垂れていた。
その背中から漂うのは、絶望よりも、怒りだ。
「どういうことなのか、説明してもらおうか」
校舎前のロータリーにある円形花壇、その周りに据え付けられたベンチに、小夜たちは座っていた。白刀はどこかへいなくなってしまい、座っているのは小夜の他には涼子と白銀だ。
そして、その三人と向かい合って仁王立ちしているのは、髪の長い女性。涼子が呼んだようなのだが、なぜ呼んだのか、彼女が何者なのか、小夜には解らなかった。女性は鋭い目つきで白銀を睨んでいた。追及されているらしい白銀は、不機嫌そうに涼子を見遣る。
「なんでこいつ呼んだんだよ」
「無関係じゃないでしょ、ことこうなっては」
「今質問しているのは私だぞ、吸血鬼」
「この学校で妖怪狩りが行われてるんだよ。で、ついさっき人魚が消えた。以上」
「……この疫病神め」
「俺は吸血鬼だ」
女性は白銀を睨み、白銀は女性を無表情に見つめ返す。険悪な空気に、小夜は胃が縮む思いだった。凍りついた空気に割って入ったのは涼子だった。
「漁さん。ごめんなさい、私もすぐ近くにいたのに、こんなことになってしまって……」
漁と呼ばれた女性は、白銀に対する態度とは百八十度違う柔らかい口調で、
「いや、涼子が責任を感じる必要はない。知らせてくれてありがとう」
怖い人なのかと思ったが、どうやら白銀にだけ個人的に恨みがあるだけのようだ。あからさまな対応の違いに、白銀は肩を竦めていた。
「それで、犯人は解っているのか?」
漁は涼子に問うが、涼子はその質問をそのまま投げるように、白銀を見遣る。
「周りにいた奴らの話を聞くに、おそらく相手は隠し神とみて間違いない。空間にいきなり穴を開けて異空間に連れ去るなんてのは、奴らの専売特許だ」
白銀の答えを受けて、涼子は「敵は隠し神みたい」と漁に伝えた。相手が目の前にいるにもかかわらず涼子を介してしか喋ろうとしないとは、筋金入りの険悪な仲である。
「白刀が今、気配を追ってる」
「そうか。そういえば、吸血鬼は妖の気配を辿るのが苦手な役立たずだったな……と、阿呆吸血鬼に伝えてくれ」
「水の中じゃないと役立たずの奴が陸に上がっていいのかよ……って横暴人魚に伝えろ」
「陸上では人魚が役立たずなどという偏見を持っているのでは痛い目を見るぞ……と、愚図吸血鬼に伝えてくれ」
「そういう負け惜しみみたいな台詞は役に立ってから言えよ……って陰険人魚に伝えろ」
「……」
さすがの涼子も不毛な伝言ゲームに疲れたらしく、小さく溜息をついた。
こんな息のさっぱり合わない険悪な二人組を連れていて大丈夫なのだろうか、と小夜はものすごく不安になったが、そんな正直な感想を言う度胸もなく、結局成り行きを見守らざるを得なかった。




