10 鬼の逆鱗触れるべからず
積み重なった段ボール箱の陰に身を潜め、白銀は乱れた呼吸をひっそり整える。少し前に涼子から借りておいた閃光弾が役に立ってくれた。涼子の異常な趣味に初めて感謝した瞬間だった。
どうせなら、もう少し殺傷能力のありそうな武器を借りておきたかったところだが、これ以上レベルの高いものは貸してもらえなかった。閃光弾だけでも、涼子が快く貸してくれたのが奇跡に近い。
さてどうしたものか、と白銀は思案する。全身ぼろぼろで、体力もだいぶ消耗している。貧血の上に血を流しすぎたせいで、頭もくらくらしてきた気がして、白銀は片膝をついて息をつく。
思った以上に相手は手ごわい。ジャック自身がというよりも、刀の方が脅威だ。反則的な剣速と威力は、ジャックが豪語するだけあって、確かに普通の刀とは違う。これが付喪神。対する白銀の得物は、一撃で刃こぼれするレベルの血の短刀。話にならない。
一般的な吸血鬼からしてみれば遅すぎるくらいの時間をかけて、体の傷は修復をし始めていた。涼子はいつも、「どうせ死なないんだからいいでしょ」などと言って白銀を平気で攻撃するが、そういう問題ではないのだ。吸血鬼の吸血鬼性――尋常ならざる自然治癒能力の源は、血にある。血を流し続ければ、能力はどんどん落ちる。どうせ治るから、などと調子に乗って傷を負い続ければ、死にはしないまでも、危険な状態にはなる。
さっさと決着をつけなければならない。いち早く態勢を立て直し、奇襲をかけて一気に決める。もうそれしかない。持久戦に付き合っていられるほど、白銀の体力は残っていない。
ゆっくりと立ち上がる。傷はあらかたふさがって落ち着いてきた。休憩は終了だ。
その時、ピリリリリ、と。ズボンのポケットの中でケータイが鳴った。
「っ!?」
想定外のアクシデントに白銀は目を剥いた。電源を切っていなかったのが悪いと言えば悪いのだが、こんなにいきなりジャックに襲われて戦闘に突入するとは思っていなかったから、そんな暇はなかったのだ。そういう時に限って、タイミング悪く電話がかかってくるなんて、運が悪いとしか言いようがない。
直後に背後から感じた殺気に、白銀は前方へ飛び身を屈める。次の瞬間、白銀が隠れていた場所を荷物ごと、丁度首を刎ねるように、刃が横薙ぎに通り過ぎた。
振り返ると、両断されて崩れた荷物の向こう側から、ジャックの不敵な笑みが覗いた。
舌打ち混じりに白銀は短刀を握りなおす。しかし、それを振るうより先に、ジャックが返す刀で白銀の手から得物を弾き飛ばした。血の刃は弧を描いて明後日の方向に吹き飛んでいく。
明らかな形勢不利に、白銀はじりじりと後退る。
これはまずい。ものすごくまずい。一旦退いて態勢を立て直すべきかと逡巡する。
その思惑を強引に断ち切るように、ジャックは告げる。
「運が悪かったなぁ。こんな時に、電話がかかってくるなんて、なぁ?」
言いながら、ジャックは左手を掲げる。
「……!」
その手の中にあるのは、見覚えのあるピンクのケータイ。
「なんで……てめぇがそれを持ってる」
声が震えた。
「それは、涼子の、」
「駄目だろう? 若い女の子を一人で出かけさせたら。外にはおっかない奴がいるんだ、隙を見せたら、切り刻まれるに決まってる」
心臓がうるさい。思考が止まりそうになる。
落ち着け、と自分に言い聞かせる。大丈夫だ、前回だって涼子は大丈夫だった。生半可な奴では涼子には敵わない。だが、ジャックは危険な奴だ。万が一ということもあるかもしれない。涼子のケータイを持っているということは二人が接触したのは間違いない。涼子に何があった。ケータイなら他に持っているはずだ。なぜ連絡を寄越さない。涼子の身に何かあったのか。
「涼子っていったっけ? 若い女の体は柔らかいよなぁ」
待て。落ち着け。こんなのは見え透いた挑発だ。動揺させようとしているだけだ。こんな安い挑発に乗るな。落ち着け。大丈夫に決まっている。心配するな。落ち着け。落ち
「――あいつに何をしたッ!!!」
理性が焼き切れた。
★★★
安い挑発に乗って、白銀は策もなく、ジャックに掴みかかろうとした。
怒り狂って我を忘れて、冷静さを欠いて単調な動きになった、ただの獣。
首を刎ねるのは容易い。それを狙っていたのだ。
「死ね、吸血鬼!」
不用意に飛び込んできた白銀の首を、ジャックは容赦なく刎ね飛ばした。
生温かい血がジャックの頬に触れた。飛び散る鮮血に、ジャックは勝利を確信した。
しかし、ジャックの余裕の笑みは、すぐに歪む。
刎ね飛ばされ、胴体を離れた頭部を、白銀の右手が掴んだ。
「ばっ……」
馬鹿な。いくら不死とは言っても、再生能力はたいしたことのないレベルだった。出血も多い。そう簡単には再生できないはずだ。だいたい、首を斬られた時点で、普通なら耐えられないほどの痛みがあるはずだ。だというのに、なぜ、当たり前のように動いている?
首のない状態の胴体が、それでもかまわず平然と動いた。吹き飛びそうになる頭を掴んで、切断面を無理やりくっつける。
――積み木じゃないんだぞ? そんな、一度飛んだ首を、当たり前のように胴体の上に乗っけて動き続けるなんて、おかしいだろ。
ジャックはその異常すぎる行動に、初めて恐れを抱いた。
しかし、それでも白銀は丸腰だ。このまま白刀で押し切れば、負けるわけがない、そのはずだった。
ジャックは失念していたのだ。吸血鬼の脅威は、再生能力だけではないことを。その特性は、人間を凌駕するパワーと、鋭く研がれた、刃にも等しい爪牙にもある。
白銀の右手の爪は、いつの間にか鋭く伸びている。
自分の体を爪が抉っていくのを、ジャックはやけにスローモーションに感じていた。
「がぁッ……!!」
肩から腰までを斜に深々と爪が刮げていった。強引に肉を引き裂かれる激痛に呻き、ジャックは倒れる。四本の爪痕の残る胸をおさえ、ジャックは体を起こすが、すぐそこまで迫ってきていた吸血鬼の鋭い視線に射竦められ、立ち上がれずにいた。
血の色をした瞳が、憤怒と憎悪で満ちていた。
どうやら、触れてはいけない逆鱗に触れてしまったようだと、ジャックは今更気づいた。
「涼子はどこだ」
強引に押し付けられていた切断面は、少しずつ癒着を始めていた。正真正銘の化け物が、地を這うような声でジャックを追及する。
「答えろ」
爪からはぼたぼたとジャックの血を垂らしている。ジャックが答えないと見るや、白銀は再びその爪を振るおうと、ジャックに近づく。
その時、ジャックを庇うように、白銀の前に立ちはだかる影があった。
「待って!」
両手を広げ、ここから先は一歩も通すまいと道を塞ぐ背中。ジャックは信じられない気持ちで、その背中を見つめた。
いつの間にかジャックの手を離れ人の姿になった白刀が、震える声で白銀に対峙していた。
★★★
「もう勝負はついた。もう彼に手を出さないで」
白刀はそんな、勝手なことを訴えた。自分たちから手を出して、涼子を巻き込んでおいて、自分たちが危なくなったら勝手に降参して。そんなことが許せるはずがない。
「どけ」
白銀は短く告げる。白刀はびくりと体を震わせるが、それでもどこうとはしなかった。
邪魔をするな、と白銀は白刀を睨む。用があるのはジャックだ。
「涼子に、手を出した……赦してはおけない。全部吐かせて、殺してやらなきゃ、」
「涼子は無事だよっ!」
白銀の手がぴくりと止まる。真っ赤に染まった思考に歯止めがかかる。
「薬で眠らせただけで、危害は加えてない。全部終わったら彼女は解放するつもりだったんだ。ジャックは涼子に手を出してない。本当だ!」
二人の視線がぶつかり合う。白刀は目を逸らさなかった。
ジャックが言ったのならば、おそらく信じようとはしなかっただろう。
だが、白刀の必死な声が、沸騰した血を急速に冷ましていった。
伸びていた爪が引っ込み、牙が縮んで、肩から力が抜けた。白銀は大きく溜息をついて、頭を掻いた。
「……頭が冷えた」
「えっ?」
「無事なら別に、もういい」
いつになく取り乱してしまって自制が効かなくなった自分の未熟さを恥じ、白銀は短く告げる。
「涼子はどこに?」
「えっと、それは……」
白刀が口ごもり、若干目が泳いだ。その真意を問い詰めようとした瞬間、乾いた銃声が響いた。
「っ!?」
白銀と白刀が揃って驚愕に目を見開いた。
「うそ……」
信じられないというように動揺して、白刀の体がぐらりと傾ぐ。その奥で、立ち上がり、拳銃を構えていた、ジャック。
二人はようやく理解する。ジャックが撃ったのだ。白銀が牙を収め油断したその瞬間、白刀の体を盾に死角をついて、白刀ごと白銀を撃ったのだ。鉛の弾丸は白刀の体を貫通し、白銀の胸を穿った。
「は、ははははッ! まだ勝負はついてねえ、気ぃ抜いてんじゃねえぞ、吸血鬼!!」
白刀が倒れる。それを意に介さず、ジャックは狂ったように笑う。
「て、めぇ……!」
白銀が再び牙を剥く。しかし、動きの鈍った体が攻撃を繰り出す前に、ジャックは立て続けに引き金を引いた。
「が、ぁっ、あッ!」
だん、だん、と至近距離から撃たれ、両脚に一発ずつ、胸部にさらに二発をぶち込まれる。ジャックはさらに引き金を引くが、弾が切れたらしく、カチっ、と渇いた音がするだけになった。
その隙に、と白銀はジャックに手を伸ばす。が、突如全身から力が抜けて、白銀はその場に崩れ落ちた。
ジャックは倒れた白刀を跨いで、白銀に近づく。空の薬莢を捨てて、興奮に震える手でリボルバーに弾丸を装填する。銃口を額に突きつけられても、白銀はへたり込んだまま動けなかった。
「弾には麻酔が塗ってある。化け物用の強力な薬だ、そいつを五発も食らえば、吸血鬼といえど動けないだろう」
「クソが……小賢しいことを……」
「首を刎ねてもぴんぴんしてるような化け物だ、この程度じゃ死なないだろうな。だが、動けない吸血鬼なんざ怖くねえ! 撃って、撃って、撃って、撃ちまくって、死ぬまで撃ち続ければ、いつかは死ぬかもしれないなぁ」
ジャックは引き金に指をかける。
「まずは、いっぺん脳漿をぶちまけてみようぜ」
直後、銃声が響き渡った。




