2 平和だったら客は来ない
五月晴れの穏やかな陽気は、万年五月病の白銀を家に引きこもらせるには十分な効果を発揮していた。こう暖かい日は畳に寝転がって日がな一日だらだらしているに限る、とでも言いたげに、白銀は居間のテレビ前に陣取って頬杖をついて横になり、いかにも暇そうなぼけっとした顔でザッピングしていた。
「あー……平和だなー」
ぼんやりと呟いた瞬間、
「どこがだっ」
げしっ、と腹部に爪先が食い込んだ。なんの構えもないところをいきなり蹴られたらそれなりに痛い。白銀は「ぐぇえ」と悶えながら、華麗なる蹴撃の下手人、涼子を睨み上げた。涼子は肩にかかった髪を払い「またつまらぬものを蹴ってしまった……」などと澄ました顔で言っているが、その顔はものすごく腹立たしいものであった。
「て、てめぇ……食後三十分以内は腹を蹴るなって。ゲロマズのニンニク吐くだろうが」
「失礼。粗大ゴミかと思って」
「言うに事欠いてゴミ扱いかよ」
「そうでしょうよ、こんな真昼間からごろごろしちゃって」
「いいだろう、俺がいったいいくつだと思っている? もう老後なんだよ、老後。老後はゆっくりさせろ」
「確かにジジくさい髪の色してるし実際ジジイ以上に長生きしているのは知ってるけど、見た目は一応二十歳前後なんだから、もうちょっとしゃんとしたらどう? ご近所様から見ればあなたは『老後を満喫している爺さん』じゃなくて、『ちょっとやんちゃして髪を染めたニート』なのよ」
そう言われてみれば、確かにそうかもしれない。返す言葉がないので、白銀はとりあえず起き上がって、憮然として胡坐をかく。
「それにさ、現在の状況のどこが平和なのかしら。こんな血なまぐさいニュース回しておきながら、よくそんな台詞が出たわね」
涼子が指すのは、白銀がたまたま適当にチャンネルを回したニュースである。適当に回したせいで、何をやっているのかさっぱり気にしていなかったのだが、どうにもタイミング悪く、あまり平和的ではない報道をしていたようである。
『――さんが殺害された事件で、逮捕された米川辰夫容疑者は、種族鑑定の結果、妖怪であることが解りました。警察は動機について――』
「あら、この事件の犯人、妖怪だったの」
涼子がぽつりと呟く。「こういうのやると、妖怪のイメージが悪くなるからイヤなんだけどね」と続けながら、座布団の上に足を崩して座る。
科学技術の発達により、種族鑑定なるものが確立した。これを行うことにより、人間と、人間の姿をしている人外が区別できるようになった。いわゆる妖怪と呼ばれる者たちは、姿こそ人間そっくりに化けているが、体の構造は当然に異なり、特にその違いは遺伝子構造に顕著に表れているという。人間は、常染色体二十二対、性染色体一対の、計四十六本の染色体を持つ。これが、妖怪となると、もっと多かったり少なかったりする。
殺人や傷害などの犯罪が起きると、犯人にはまず種族鑑定が行われ、その結果妖怪であると判明した場合、マスコミは殊更に、凶悪な犯罪者は人間ではなく妖怪なのだと強調する。そのせいで、妖怪に対する偏見が広がっていることに疑いはない。
「こういう言いかたされちゃうと、妖怪がみんな悪者みたいに思われるのよね。実際に悪者なのは、一部の妖怪とどこぞの吸血鬼くらいなんだけど」
「どこぞの吸血鬼ってのは俺のことか」
「自覚症状があるだけまだマシね」
悪びれもしないで涼子は言う。
「……まあ、妖怪のことはまだよく解ってない部分も多いからな。なにせ、妖怪の存在を政府が公式に認めてからまだ百年ちょっとくらいだ。人間は未知を恐れる。だから、『妖怪は悪者』ってレッテルをはって、堂々と未知を排斥する大義名分にしたがるんだろうさ。妖怪に人権が保障されてなかったら、俺なんかは真っ先に始末されるな。なにせ人間が恐れる妖怪ベスト十には入るであろう、メジャーな最強種族だからな」
「私はあなたに人権があろうがなかろうが、始末する気でいるけどね」
「…………」
「あと自分で最強とか言わない方がいいわよ。実際のところは低血圧で慢性的貧血のヘタレ吸血鬼さん?」
「誰のせいで貧血だと思ってるんだ!」
この言いぐさにはさすがに文句を言わずにはいられなかった。なにせ、白銀が吸血鬼のくせに貧血気味という間抜けなことになっているのは、主に、日常的に包丁を振り回し銃をぶっ放し、白銀の血をガンガンまき散らしていく苛烈な女が原因なのだ。
妖怪だから、吸血鬼だからというだけで、差別することは勿論禁止であるし、殺すなどはもってのほかだ。しかし、涼子は、白銀が死なないのをいいことに、平気で殺そうとしてくる。「死なないんだからいいでしょ?」と思っているし、ついでに言えば「別に死んでもいい」と思いながら殺しにかかる。一之瀬涼子とは、吸血鬼殺しを生きがいにする凶悪な少女なのである。
「そろそろ落とし前つけてもらったっていいんだぜ。今日ムダにした分の血を補充するのなんて、簡単なんだ」
というあからさまな挑発、脅迫は、
「そういえば、吸血鬼が人間の血を吸ったら、遺伝子構造の違う血が混ざって血管の中流れてくのかしら」
つまらない疑問の提起によってさらりと流された。脅しがまったく通用しない。白銀は溜息交じりに頭を掻く。相変わらずの食えない女っぷりに、どっと疲れが出た。
「ねえ、そこのところ、どうなの」
「知らねえよ。俺はそういうの詳しくないんだよ。だが、別に平気なんじゃねえの? お前だって魚やら肉やら食うだろうが」
「それはそうだけど、それとこれとはなんかイメージ違くない? あなた、生き血をそのまま啜るじゃない」
「そりゃそうだが……適当に遺伝子構造を書き換えてうまいことやるシステムなんじゃねえの?」
「ははぁ、バクテリオファージが大腸菌の遺伝子情報を分解して自分の材料にしちゃうみたいな?」
「なんでよりによってファージと大腸菌でたとえるんだ」
しかもそんなに解りやすいたとえでもないし。
「まー、よく解んないけど、妖怪もいろいろ難しいね」
「言っただろ、妖怪については解ってないことが多いんだって。ただ解ってるのは……妖怪も人間に交じって、権利をもって生きてる、そういうことだ」
「ふぅん……?」
「……だから、」
「血はあげない」
「…………」
生きるために血を寄越せ、という下心満載な台詞につなげようとした白銀の意図はばればれだったらしく、涼子に先手を打たれた。本日も白銀の貧血生活は決定のようである。
「くっそ……このド鬼畜女め……」
「冷蔵庫に鉄分補給飲料入ってるよ?」
「なんで吸血鬼が鉄分補給で血を補充しなきゃならないんだ」
そんな間抜けな話ってないだろう、と白銀は頭を抱える。
数多くの妖怪が存在する中でも、もっとも人口に膾炙している者の一人であり、人間の血を啜る怪物。夜闇にまぎれる魔物であり、優れた身体能力と再生能力を持ち合わせた最強クラスの化け物、吸血鬼――のはずなのに、そんな種族性も涼子の前では形無しである。
白銀が恨めしげに睨むと、涼子はあからさまに面倒くさいと思っているふうな顔で嘆息した。
「あのねえ、私だってそんなに血の気が多いわけじゃないんだから、他人に血を分ける余裕なんかないの。そんなに血が欲しいなら、ほら、献血に並んでる人を適当に誑かしてきなさいよ」
「誰の血でもいいってわけじゃないんだぜ」
誤解があってはいけないと、白銀は少し熱を入れて語りだす。
「まず男は駄目。俺は男の血が嫌いだ。吸うなら女、若い女の血だ。十代から二十代までが許容範囲。酒と煙草と薬をやってる奴は論外。健康的な奴がいい。妊婦はNG。化粧の濃い奴と香水がきつい奴も嫌いだ。髪を染めてる奴も嫌い」
「好き嫌い多すぎだろ小学生かッ!」
途中までは一応ちゃんと聞いていたがやがて辟易し始めた様子だった涼子は、ついに嫌気が差して座布団を投げつけてきた。ぼふん、と顔面で座布団を受け取りながらも、白銀は勢い任せで続ける。
「理想像は、十八歳の健康的な女性、黒髪セミロングで、身長は百六十五センチで、体重が、」
ゴリッ、と耳障りな音が響く。たとえていうならば、眉間に銃口を突きつけられたときのような音である。
少々調子に乗りすぎたらしい、と白銀は肩を竦める。目の前には、鬼の形相でぶち切れてる涼子。右手に持った黒光りする拳銃は、白銀の脳天をぶち抜こうと照準済みである。
涼子は伊達に吸血鬼殺しを趣味としていない。こういう危険な得物を常に隠し持っていて、キレた瞬間武器を取る。白銀が死なないことをいいことに、普通の人間なら当然死ぬような凶行を、「お仕置き」と称して実行する。掛け値なしのド鬼畜ドS少女――武装少女である。
一応ホールドアップしておくが、涼子は依然鋭い光を宿した目で白銀を睨んでいた。
「ちょっと沈んでろ」
そう言って、涼子は引き金を引いた。
n回目の脳天ぶち抜かれ。
だが、眉間を撃ち抜かれることなど、この凶悪な少女と付き合い始めてからそれなりに時間のたつ白銀にとっては慣れたものである。この程度では、死なないのは勿論、意識を飛ばすことすらあり得ない。こんなことに慣れても自慢できるわけではないのだが。
一発撃ったら気が済んだのか、涼子はふう、と溜息をついた。そして、次の瞬間、「しまった」と言いたげな顔になった。やりすぎてしまったと後悔しているわけでは、勿論ない。
「やっば、また畳を血で汚しちゃった」
ブルーシート敷けばよかった、などと、頭に風穴の空いた男を目の前にしておきながら畳の心配である。だが、問題はない。心配などされないのも、白銀にとっては日常茶飯事である。
朝刺された胸の刺突痕が跡形もなく消えたように、眉間の風穴もすぐさま修復を始める。後に残るのは壁にめり込んだ弾丸と血で汚れた畳だ。
「……ったく、畳の心配するぐらいなら、撃つんじゃねえよ」
「だって、あなた、これくらいしないと反省しないでしょ」
頬を膨らませて、涼子は雑巾片手に畳掃除を始める。
「……ああ、居間の畳にまたおかしな染みが……コーヒーこぼしちゃいましたで通用するかしら」
その言い訳は無茶ではないだろうか、と白銀は密かに思う。
そんな時、ぴんぽーん、と家のチャイムが鳴る。涼子は苛立たしげに舌打ちする。
「この忙しいときに……新聞? ガス? 宅配?」
「そういうわけではなさそうだが……」
白銀は吐き出し窓の障子を細く開けて、外を確認しながら答える。窓からは庭と、庭の外の道路の様子が見える。新聞やガスの集金、宅配便なら表に車が停まっているのが常だが、そういう車は見当たらない。残念ながら玄関前までは見えないので、客が何者なのかは不明である。
「ちょっと出て。物売りだったら門前払い」
涼子は畳をなんとかコーヒーで誤魔化せるレベルまで修復するのに忙しい。白銀は肩を竦めて、家主に代わって応対に出る。
曇りガラスの格子戸を引くと、外に見えるのは砂利の敷き詰められた庭だけ。客の姿は見当たらない。奇妙だな、と白銀は首をかしげる。チャイムが鳴ったのに客の姿がない、いや、それ以前に、客が来た割には庭の砂利の音がしなかった。騒がしくしていたとはいっても、砂利の音さえ聞こえないようでは、防犯用にと敷いてある砂利の意味がない。
白銀がおかしな現状に警戒を強めると、足元から声がした。
「ごめんください」
「……?」
まさか背の低い子どもが客だったというオチだろうかと見下ろすが、しかしやはりなにも見当たらない。
だが、よくよく目を凝らしてみると、白銀の足下に、小さな黒いものが見える。身を屈めて目を近づけてみると、そいつは小さな蜘蛛だった。
「ごめんください」
また声がした。そしてその声は、目の前の蜘蛛が発しているように思えてならなかった。