4 陰謀渦巻く昼下がり
「おえぇ……まっずぃ……」
コーヒーを飲んだ瞬間、コーヒーとは思えない味を舌が感知した。白銀は人目も憚らずに率直な意見を述べる。向かいに座って優雅に紅茶を飲んでいた涼子は、眉を寄せて咎める。
「営業妨害よ。嫌な客ね」
「嫌な客はお前だ。タバスコを入れたな?」
喫茶椋鳥の各テーブル席にはコーヒー用の砂糖やミルクの他に、主にパスタに使うべき粉チーズやタバスコも備え付けてある。こういう席の店は危険だと解っていたのだが、ちょっと目を離した隙に、コーヒーに本来入れるべきでないものを混入されてしまったらしい。
白銀の不適切な発言が耳に入ったのか、ウェイトレスがこちらを気にしていた。先ほど話を聞いた、被害者の一人、葛である。涼子が気を遣って、大丈夫だと身振りで伝える。
「さて、一応ここまでの話をまとめると」
涼子はメモ帳を広げる。花屋での白銀の失礼な発言以降、結局聞き込みは涼子が中心に行った。
「梓さんは昨日、二十日に切り裂き魔に遭った。髪をばっさり切られてる。花江さんは十六日の月曜日に肩を切られた。そして、椋鳥の葛さんは、十七日の火曜日に、これまた髪を切られて、麗しのロングヘアが一瞬でボブカットになってしまった、と」
「共通点は、全員女ってだけか」
「そうね。あと、みんな犯人は見ていない。周りに目撃者もいない、と。妖怪の仕業だと思う?」
「まあ、聞いてる限りだと、人間業っぽくはないな。毛倡妓もそう断言してたし」
「無差別の通り魔かしら。とはいっても、ほんとに無差別というよりは、若い女性が好みなのかしら。目に入った美女を襲ってる?」
「毛倡妓は『若い』にカウントしていいのか?」
妖怪の場合、見た目から推定される年齢と実年齢はイコールではない。白銀にしても、見た目こそ二十歳くらいだが、それは百年単位の嘘っぱちである。
「まあ、見た目が若けりゃいいんでしょうね。妖怪って、人の姿をしていないのから、人型でもあなたみたいにあからさまに妖怪っぽいの、人間と区別ができないレベルのまで、いろいろでしょ? 梓さんなんかは、自分から言わなきゃ妖怪だなんて全然解んないタイプでしょ。だからさ、犯人だって梓さんがすでに云十歳のご高齢だなんて、思いもしないでしょうね」
「じゃあ、まあ、犯人が若い女を狙ってるとしよう。その理由は?」
「うーん、ストーカー? 傷つけちゃうのは、愛情の裏返し」
「ひねくれた愛情表現だ」
白銀は呆れた調子で呟いて、苦々しい顔をする。ストーカーの心理が理解できないせいでもあるし、無理してまずいコーヒーを飲んだせいでもあった。
「けど、とりあえず怪我をしたのは花江さんだけなのよね。梓さんと葛さんは、心に傷を負ってはいるものの、髪を切られただけで、怪我はない。髪に何か意味があるのかしら」
「さあな。今のところ、髪を切られてる奴が多いが、全体としてどういう傾向なのか……残り二人の事情を聞いてから判断するのでも遅くないだろう」
「そうね。じゃ、それ飲み終わったら、アップルパイと抹茶プリンを買いに行くわよ」
「洋菓子屋と和菓子屋の店員に話を聞きに行くんだからな?」
しつこいくらいに買い物をメインにしたがる涼子に釘を刺し、白銀は激マズコーヒーを飲み干す。やはりコーヒーにタバスコなど入れるものではない。
★★★
一生の不覚、というしかない。涼子は自分の失態を呪った。大雑把でガサツな白銀には任せておけないと、自分でスケジュールを調整したまではよかった。が、その計画に穴があることに、喫茶椋鳥を出た直後に気づいた。気づいたのが遅かったかぎりぎり間に合ったか、その結果はまだ出ていない。
「私としたことが、迂闊にも忘れていたわ……『ときわ』の抹茶プリンが、一日限定三十個だって」
これは涼子にとって大問題であった。予定では、「アルメリア」のアップルパイ焼き上がり時刻、午後一時半に合わせて喫茶店を出て、焼き立てパイをゲットした後、「ときわ」に向かうのは午後二時頃を予定していた。しかし、目当てのプリンは悠長にしていたら売り切れてしまうということを思い出した。
本来なら、一番最初に行くべき場所だった。帰りにお土産で、と考えていたから、ついうっかり順番を後回しにしてしまっていたが、これが大きな間違いだった。
涼子は急遽予定を変更し、自分は焼き立てアップルパイを目指して「アルメリア」に向かい、白銀を「ときわ」に向かわせた。白銀は、「そんなくだらない理由で……」と渋ったが、銃口をちらつかせると大人しく従った。白銀一人に買い物と聞き込みを任せるのは一抹の不安があったが、パイとプリンを両方手に入れる確率を上げるには、これしかなかった。「ときわ」のプリンはお取り置き不可である。
限定プリンを午後に買いに行くなど、正気の沙汰とは思えない。涼子は激しく後悔した。しかし、今更悔やんでも仕方がない。今は、白銀が無事にプリンを買ってくることを祈るばかりである。
「アルメリア」と「ときわ」は喫茶店から方向が逆だった。二人はここで別れ、戦利品を獲得したのち、二つの店のほぼ中間くらいの場所にある、彩華駅前目抜き通り沿いの高架下のスペースで待ち合わせた。歩行者専用の広いスペースは、夏になれば夏祭りの会場の一部にもなる広さで、周辺の案内地図や休憩用のベンチもある。日陰になっているので、人を待つには割と適した場所である。
ベンチに座って白銀の戻りを待ちながら、涼子は焼き立てアップルパイのピースにかぶりつく。
「んー、やっぱりアップルパイは『アルメリア』ねー。さくさくパイ生地に甘さ控えめのリンゴが他の店とは段違い」
リンゴの旬になったらもっと美味しくなるだろう。涼子は上機嫌にパイをあっさり平らげ、べたついた指をぺろりと舐める。
箱の中には、あと一つパイが残っている。白銀の分にと買っておいたものだが、見ていると食べてしまいたくなる。最初から白銀の分は存在しなかったということにしたくなる。
「……あと五分待って来なかったら、最初からなかったことにしよう」
残念ながらパイは買えなかったのだということにしよう。証拠を隠滅しよう。甘いもののためなら平気で冷たい仕打ちをする、というか甘いもののために限らず平気で残酷な仕打ちをすることで定評のある涼子は、白銀が来るはずの方を睨んだ。
「あと五分待って来なかったらなかったことにする。あと四分待って来なかったらなかったことにする。あと三分待って来なかったらなかったことにする。あと二分待って来なかったらなかったことにする。あと一分待って来なかったらなかったことにする……あ、もう一分たった」
五秒ごとに制限時間が一分ずつ減っていった上に、結局三十秒すらも経過しないうちに、涼子の中では一分がたったという設定になった。
「銀が遅いから悪いんだから。せっかく焼き立てのパイなんだから。冷めないうちに食べるのがいいに決まってるから。私悪くないから」
散々自分に言い訳をして正当化をした上で、涼子は箱を開けてパイを掴む。
「いただきまーすっ」
幸せいっぱいの笑みを浮かべて口を開けた時、ぐぎゅるるうー、と間抜けな音が響いて、涼子は目をぱちくりさせる。
盛大に腹の虫が鳴った音。
ふと視線を巡らせると、いつの間にか、涼子の真ん前に見知らぬ青年が立っていた。
ぐるるる、と再び鳴ると、青年が犯人だと明らかに解った。青年は恥ずかしそうに顔を赤くする。涼子もまた、さっきの見苦しい言い訳を聞かれていたのかと思うと、途端に恥ずかしくなった。
「……ええと、食べる?」
照れ隠しにそう勧めると、青年は小さく頷いた。
「美味しい!」
あどけなさを残す青年は子どもっぽく破顔する。両手で掴んだパイをぱくぱくと食べる。
「そんなにお腹空いてたの」
涼子が苦笑しながら尋ねると、青年は申し訳なさそうにしゅんとする。
「ごめんね、ほんとは自分で食べたかったんだよね。ものすごく食べたそうにしてたもんね」
「あの醜い自己正当化は聞かなかったことにしてちょうだい。私はもう一個食べたからいいのよ、別に」
「変な意地はって、ご飯を食べないで飛び出してきたから……」
「意地? なに、誰かと喧嘩でもしたの」
「喧嘩っていうんじゃないけど。……さっきまではほんとに食欲がなかったんだけど、でも結局こうやって食べてるんだから、僕って結構いい加減な奴なんだって思う」
「お腹空いたら食べたくなるのは、別に普通でしょ」
「でもさ、……えっと、たとえば、この後に憂鬱な仕事が待ってたら、とてもじゃないけど呑気にご飯食べる気にならないと思わない?」
「まあ、場合によりけりね」
「実際、そう思って、とてもじゃないけどご飯は喉を通りそうになかったんだけど……僕って薄情なのかな」
どうにも話が抽象的で、青年の言うことが涼子にはいまいち解らなかった。だが、落ち込んでいるらしいことは確かなので、とりあえず慰めておくことにする。
「薄情なんかじゃないでしょ。私なんか、右手で拳銃ぶっ放しながら左手でサンドイッチ食べたことあるわよ」
励まそうとしてついた嘘などではなく、事実である。以前、涼子が作ったガーリックチキンサンドに文句をつけた白銀を、涼子は容赦なく撃った。「自炊できないくせに食事にケチをつける奴は死すべし」というのが涼子の言い分である。
青年は、しかし涼子のそんな苛烈さを知らないので、当然に冗談だと思ったらしく、小さく笑った。
「何それ。面白い人だね」
「冗談じゃないんだけどなぁ」
しかし、初対面の者が信じられないのは無理もない。涼子と白銀の関係は、特殊すぎる。
「まあ、つまり何が言いたいかって、別に薄情ってわけじゃないと思うよ。あんまり自分を卑下しなくってもいいんじゃない」
「そうかな」
「そうよ。人間、どんな憂鬱なことが先に待ってたって、食べなきゃやってられないもの。硝煙の中だって、死体を目の当たりにした後でだって、私は食べたわ……吐いたけど」
「……?」
「……変な話になっちゃった。ごめんね」
涼子は曖昧に笑う。青年も反応に困ったようで、曖昧に頷いただけだった。
その時、「涼子!」と呼ぶ声がして、顔を上げると、ようやく白銀が戻ってきたところだった。手には「ときわ」の袋を下げている。戦利品は獲得して来たらしい。
「私、行くね」
「うん。アップルパイ、ありがとう。美味しかった」
「しぃっ。あいつには内緒なんだから」
涼子が悪戯っぽく笑ってウィンクすると、青年はつられて笑う。
「涼子、っていうの?」
「そう。一之瀬涼子」
「僕は白刀。白い刀と書いて、白刀」
「白刀? ……ふうん、成程ね」
涼子の不可解な呟きに、青年は首をかしげるが、涼子は答えず、代わりに手を振る。
「じゃあね、白刀」
「うん」
そうして涼子は白刀と別れ、白銀と合流した。怪訝そうにする白銀に説明をしながら、帰途につく。
★★★
「――こんなところにいたのか、白刀」
涼子の背中が小さくなったころ、後ろから音もなく近づいてきたのは、ジャックだった。白刀はジャックを振り返ることなく、涼子と、その隣の銀髪の男を見送った。
「俺が苦労して聞き込みしてたってのに、お前ときたら……人の苦労を水の泡にしてくれる。こんなにあっさり引き当てるとは」
責めているような言葉だが、口調は決して不愉快そうではなく、むしろ嬉しそうだった。
「あれが……」
「今回のターゲットだ。目に焼き付けろ」
ジャックの言葉に従うのは少々癪に障ったが、それでも白刀は、見えなくなるまで二つの背中を見つめ続けた。




