2 平和を切り裂く銀の影
涼子が手際よく持ってきたタオルで、女は濡れた体を拭いた。落ち着いて髪を整えると、女は綺麗なショートヘアの持ち主であった。
「あたしは黒木梓。毛倡妓」
女は静かにそう名乗り、ついでに自分が正体を明かした。
「毛倡妓?」
「そう。伝承じゃいろいろ言われてるけど、あたしはちょっと人間より体が頑丈なだけの、髪が自慢のキャバ嬢よ」
梓は濡れてインクの滲んだ名刺を一枚手渡した。かろうじて、駅前の住所と「クラブAYAKA」という店の名前が読めた。が、キャバクラに用はない上にこんな濡れた名刺をもらっても仕方がないので、あとで捨てようと白銀は失礼な決断をしていた。
「今、この町には切り裂き魔がいるのよ」
「切り裂き魔?」
「そう。そいつに、あたしもやられた。自慢の髪が、この有様よ」
この有様、といわれても、白銀にはなにがよろしくないのか解らなかったのだが、涼子は同じ女性として解ったらしく、「これはひどいわ」と顔を顰めていた。
「かなり雑に、ばっさり適当に切られてる。美容院じゃこうはならないわね」
「そんなもんなのか?」
「あなたには解らないでしょうね」
期待してない、と言いたげに涼子はすっぱり両断した。
「それを、切り裂き魔にやられたわけね。何者なの?」
「知らない。犯人見てない。けど、あたし以外にも切り付けられた人、たくさんいる……人じゃないけど」
「切り裂き魔かぁ……ニュースでは見なかった気がするけれど」
「みんな軽傷で済んだから。それに、犯人見てないし。……警察は、妖怪が被害者だとあからさまに冷たいっていうし」
被害者が人間であるか妖怪であるかで対応が違う警察というのは、少なからずいるらしい。人間に対しては、親身に味方をしてくれる。だが妖怪に対してとなると、怪我をしてもどうせすぐ治るだろうとか、妖怪同士で喧嘩でもしたんだろうとか、露骨に雑な応対をする。そういう差別を嫌って、被害に遭っても警察に届け出ない妖怪は一定数いる。
「それに、たぶん相手は妖怪。姿を見せずに、一瞬で切り裂いていくの。人間業じゃない」
黒木は力強く断言する。
「まぁ、そういうことなら、こっちでも動いてみる。けど、一応警察にはいっとけ。親身になってくれそうな奴を紹介するから」
白銀はメモ帳に「彩華署 刑事課妖怪対策係 結城虎太郎」と書いて、ページを破いて黒木に渡す。
「白銀の紹介だっていえば通じる。捕まえた後にいろいろ処理するなら、届けておいた方がいい」
「あてになるの?」
「時間だけは有り余ってる奴だ」
微妙な紹介の仕方に、黒木は眉を寄せたが、大人しくメモを受け取った。
「それと、他に被害に遭った奴を知ってる限り教えてくれ」
「えーと……『フローラル・タチバナ』の花江ちゃんでしょ、『喫茶椋鳥』の葛ちゃん、『アルメリア』の栞奈ちゃん……」
黒木が指折り数えながら早口に言うのを、白銀は慌ててメモする。被害者数は総勢六名に及んだ。
「思ったより被害が出てるな……どうせ来るならもっと早く来いよ」
「私がやられたのは、ついさっき」
他人事だと思っていたらついに自分に火の粉が降りかかり、失意のあまり傘もどこかへ失くしてきて、ふらふらとここまで辿り着いたのだということらしい。
「とにかく、犯人、絶対捕まえて。毛倡妓の髪を切るなんて、許せないんだから」
「任せてちょうだい!」
胸をどんと叩いて宣言するのは涼子である。白銀に対するいつもの雑な対応からは想像できないくらい、涼子は客に対しては親身になるが、女性に対しては特に優しい。その優しさの一ミリでもいいから分けてくれればいいのに、と白銀は恨みがましく思わなくもない。
「女の髪を傷つけるなんてクソ中のクソは、私が責任もって踏み潰します」
「頼むから殺さないでくれよな」
依頼人のために熱意が漲っている、というよりも殺意をだだ漏れにしている涼子に、白銀は不安げに呟く。
その後毛倡妓は、意気投合した涼子とメアドの交換をして帰って行った。
涼子は肩をぐるぐる回して、やる気十分といった様子で、
「さあ、手作りするわよ、鉄の処女!」
物騒なことを言って部屋に籠ってしまった。
犯人に対して使うつもりなのか、白銀に対して使うつもりなのか。どちらにしても、手作りするようなものではないはずなのに、と白銀は呆れて溜息をついた。
★★★
ピンポーン、と部屋のチャイムが鳴った。雨だからどうせ誰も来ないだろうと、悠々二度寝を決め込んでいた男は、チャイムの音に意識を覚醒させ、寝ぼけ眼をこすりながら上体を起こす。枕元の時計を見ると、時刻は午前十一時。少しどころかかなり寝すぎである。
ピンポーン、とせっかちな客が再びチャイムを鳴らす。男はとりあえず、返事をした。
「はいよー、どちらさん?」
問いかけながら、ドアスコープを覗く。外に立っていた人物を見て、男ははっとする。
雨にほんのりと濡れた長い銀髪が煌いて、血のような赤い瞳がスコープを覗き返していた。
「お前が『ジャック』か? 仕事を頼みたい」
低い声でそう言う人物に、これは久々の「客」だと男は理解する。
「待ってろ。身支度をする」
それまでの眠気は吹っ飛んだ。男は機敏な動きで服装を整える。顔を洗って鏡を見れば、そこに映るのは黒い髪のつんつん頭。ぎらりと好戦的な、獣の目。
五分ほどで支度を終えると、部屋の外で待たせていた客を中に招き入れる。
「少々散らかってるが……」
「構わない」
一応荷物を部屋の隅によけて、スペースを確保したところに、客はどかっと胡坐をかく。
「早速だが、依頼をしたい。この写真の奴を斬ってほしい」
血色のいい手が一枚の写真をテーブルの上に滑らせる。その写真に写っている人物を見て、ジャックは小さく頷く。
「こいつはどこに?」
「彩華町にいると聞いた。詳しい所在地までは」
「いや、そこまで解っていれば十分だ。確実に斬ってやるよ」
「奴には仲間がいる」
「仲間?」
「仲間の方も侮れない」
「問題ない。邪魔をするようならまとめて斬るさ」
「頼もしいな。もしも二人まとめて斬ることになったら、金も二人分払おう」
ジャックは興味深げに相手を見た。こちらからふっかけたわけでもないのに、二人分払ってくれるというのは、随分と気前がいい。ひょっとすると、仲間とやらのほうにも恨みがあるのかもしれない。
しかし、ジャックは細かいことまでは詮索しない。金さえ入れば、そんなことはどうでもいい。久しぶりの仕事で、結構なあたりを引いたものだと、ジャックは内心ほくそ笑む。
「報酬のことは、解っているな? 前金で百、成功報酬で百だ。二人分なら二百」
「この業界にしては、良心的な価格だ」
客はおかしそうに笑う。
「なにせ俺は、正義の味方だからな。この世の害悪、化け物どもを狩る正義のハンター。妖怪も、妖怪の味方をする奴も、全員まとめて悪。今の世の中は腐ってる。腐った世界をどうにかするために、俺がいる」
「成程。……今日中に口座に振り込もう。それを確認したら、すぐに仕事に入ってくれ」
客は口座番号のメモを受け取り、さっさと部屋を出て行った。
仕事の話が終われば長居はしない。余計な事をしゃべって自分の情報を渡しはしない。殺し屋と相対するには正しいやり方だ。
「さぁて、久々の仕事だ、腕が鳴るな」
ばきばきと手を鳴らして、ジャックはにやりと笑う。
写真に写る、今回のターゲット。写真を見ただけで、充分手練れだと解った。
ジャックは、部屋のクローゼットを開ける。その中に服は入っていない。薄暗いクローゼットの中にあるのは、一振りの刀だ。
刀掛けに飾られた刀は、しかし決してただの飾り物ではない。柄を右、鞘を左に向けて、いつでも抜けると言いたげに置かれた刀を、ジャックはそっと手に取った。
「鈍っちゃいないだろうな? 久しぶりの大物だ、きっちり首を落としてくれよ……『白刀』」
ジャックの呼びかけに、刀は消え入りそうな小声で、「了解」と呟いた。




