1 一之瀬さんちの吸血鬼
※ヒロインがとてつもなく不道徳ですのでご注意ください。
かたり、と小さな物音がした。白銀はうっすらと目を開ける。カーテンの隙間から漏れてくる陽光が眩しい。いつもなら、この眩しさに耐えかねて、布団をかぶって二度寝を決め込むところだ。だが、意に反して体が動かない。まったく動けないというわけではないのだが、どうにも妙な倦怠感がまとわりついていて、自分の体ではないような気にさえなった。
いつもとは違う、異常なだるさ。部屋の扉が開き、誰かが忍び足で入ってきたようだが、白銀は起き上がれなかった。すっきりしない目覚めに、これは一服盛られたな、と白銀は悟った。そういえば、昨日の夜はやけに眠くなって、ベッドにもぐりこんだ瞬間に意識が落ちた。夕食に睡眠薬でも入っていたらしい。
侵入者は近づいてくる。視界の端に、きらりと銀色の光が瞬いた。陽光を跳ね返して美しい光に変えるのは、鋭く研がれたナイフ。
すぐ傍らまで近づいてきていた侵入者は、ナイフを両手で握りしめ、振りかざす。
そして、ぐさり、と。白銀の胸に突き立てた。
「がっ……ぁあ……」
白銀は思わず呻き声をあげる。ごぽっ、と喉の奥で嫌な音。
下手人はナイフを抜き取った。返り血はほとんど飛ばない。薄手のブランケットには鮮やかな赤が広がっていく。
やられた――そう悟った白銀は、激痛に目を見開き、そばに佇む下手人――まだ若い少女に向かって、呪詛の言葉を吐いた。
「……て、てっめぇえええ、またやりやがったなクソがああああああ!!!」
胸を一突きにされて出血多量になっている割に、大声で叫ぶ元気のある白銀を一瞥すると、少女・涼子は聞えよがしに舌打ちした。
「生きてたか……しくじったわ」
「この殺人鬼! 人殺し! てめぇの血は何色だ!」
「心臓刺されて生きてる奴が何偉そうなこと言ってるのよ。てか、あなた人じゃないしね」
涼子は悪びれることなくしれっとそうのたまった。清々しいくらいの開き直りっぷり。痛みですっかり眼が冴えた白銀は、よろよろと起き上がり、最悪の目覚めに舌打ちした。ベッドも寝間着もすっかり血みどろである。
「血は落ちえねえんだ、解ってんだろ、涼子」
「それは何、『刺すなら全裸の時にしてください』ってことなの? まあ変態」
「刺すなっつってんだ!」
「はいはい、次は撃ちまーす」
「撃つのも駄目だッ!」
白銀の苦情をさらりと聞き流し、涼子は手をひらひら振って部屋から出ていく。
まったく何しに来たんだ、と愚痴りかけて、ああ、殺しに来たんだっけ、と思い直して、白銀は溜息をつく。赤く濡れて気持ち悪い服を脱ぎ捨てる。肌には傷一つ残っていない。
「くっそ……死なないからって調子に乗りやがって。俺じゃなかったら百回くらいは殺人罪でしょっぴかれてるぞ、あいつ」
白銀はぶつぶつ一人ごちながら着替えを始める。ちなみに、百回というのは割と少なめに見積もってある。
タオルで体の血を拭き取って、箪笥の上に放り投げてあったTシャツとパーカー、ジーンズに着替える。ジーンズには少々穴が開いているが、今どき流行りのダメージジーンズであるという設定で誤魔化している。
無造作に伸ばされている銀色の髪を適当に髪紐で結って、部屋を出た。
洗面所で顔を洗うついでに鏡を確認すると、写っているのは、赤い瞳と、どうにも血色の悪い青白い顔である。朝っぱらから出血してれば、血色不良にもなるというものだ。
だが、多少の出血程度ならば、気分が悪くなるだけで致命傷にはならない。胸への刺突もまた然り。傷など三十秒としないうちに修復される。
白銀は吸血鬼である。そう簡単には死なない怪物だ。
そして、涼子は白銀が死なないのをいいことに、遠慮なく白銀を殺しにかかるドS少女である。
「――銀! ちんたらしてるとごはんにニンニクぶち込むよ!」
涼子の叫ぶ声にげんなりしながら、白銀は涼子の待つダイニングへと向かった。
「……おい、こいつはどういうこった」
白銀は青筋を浮かべながら涼子に問う。涼子は向かい側の席で、涼しい顔をして食事を口に運ぶ。白銀の嫌いなものの五本指に入るであろうメニュー――ペペロンチーノである。
「ごはんにニンニクぶち込む? すでにぶち込まれてるじゃねえか。ニンニク入りのスパゲティはやめろって言っただろ」
「だから、銀の我が儘な要望に従って、ニンニク入りのスパゲティはやめました。今日のメニューはニンニク入りのフェデリーニです。直径一.四ミリの。あなたが嫌がったのは直径一.九ミリでしょ」
「ニンニク入りの料理をやめろって言ったんだよ! 屁理屈言ってんじゃねえ」
「屁理屈じゃないわよ。私はてっきりあなたが、太麺が嫌いなんだと思ったから、わざわざ細いのを探してきたのよ? 感謝されこそすれ、恨まれるいわれはないわ」
「こんなもん、食え――」
「ごはんを粗末にしたらフォーク刺すわよ」
白銀の言葉を遮って涼子は先制する。どこに、とは言わない。
刺されたって死にはしない。ただ、痛いものは痛い。刺されどころによっては激痛でのたうちまわること必至である。痛いのは嫌だ。服が血で汚れるのも嫌だ。
白銀は渋々ペペロンチーノ(ニンニク増量)を食べる。吸血鬼なのに。
その様子をしばらく見ていた涼子は、聞こえよがしに溜息をついた。
「……やっぱニンニクじゃ死なないか」
「殺すつもりで作ってるのか!? お前にとってニンニクはお手軽な劇薬なのか!?」
確かにニンニクで死にはしない。が、気分はあまりよくない。できることなら食べたくない。死ななければ何をしてもいいというのは、違うと思う。
だが、涼子はそんなことおかまいなしで、殺しにかかる。時々、殺せないと解っている方法で嫌がらせをしてくる。まったくたまったものではない。
趣味・吸血鬼殺し、特技・吸血鬼苛めのドS少女、一之瀬涼子。おそらくどちらかといえば美少女の部類に入るであろう彼女は、しかし心は美しくない。そんな少女が家主である一之瀬家では、今日も今日とて奇妙すぎる非日常が繰り広げられている。