38.1℃
この作品は、高熱にうなされたうわ言が語るうわ言をうわ言を聞いているが如き上の空でお送りいたします。
「ふにゃ~」
傍らの女の子が幼児退行したような声を上げた。
ベッドの上でクリーム色の掛け布団に包まり、熱っぽく赤みが差した彼女の顔を見下ろす。彼女は潤んだ瞳を真っ直ぐに向けてきていた。目が合うと、にへらー、と嬉しそうな笑顔になる。
「あー、ぐぅちゃんだー。わーい」
舌が回ってないのびのび口調。掛け布団がもぞもぞ動いたかと思うと、横から手が出てきて腿をぺちぺちやり始めた。ここにちゃんと座っているのを確かめられただけで満足、とでも言うように一層嬉しそうに笑む。
「わーいって、風邪ひいたってメール寄越したのちよちゃんじゃん」
苦笑を返しつつ、体温計を差し出した。熱気を帯びる額には市販の熱冷ましシートが貼られている。
「む~」
高く唸りながら彼女はパジャマの襟元を少し開け、そこから体温計を脇に挟む。
朝からずっとベッドの中だった為か、少し籠った彼女の汗のニオイが鼻に届いた。僅かに、でも見ようと思って視線を遣れば確実に見えている鎖骨下の黄色いチェック柄の丸いのは……気にしないことにしよう。その代わり指摘もしてやらない。
「今朝突然熱出たんだって?」
「うにゃ~。昨日の夜ねー、寝る前まではデンキだったんだけどねー、風邪ひく夢見てー、すっごく辛くてねー、頭痛くてー、辛すぎて三時くらいに目ー覚めたら熱出てた。ふみ~」
頭の回転が鈍いというか、敢えて頭を働かせずに喋っているみたいな四分の一倍速スロー語り幼稚声ver.。普段はもっと溌剌と物を言う彼女だが、寝込むような体調の時はいつもこうなる。物心付いた頃からそうなのだ。
尤も、他の人の前だとどういう態度になるのかは知らない。ただ、いつ頃からかおばさんが看病中に顔を出すと一瞬で普通に辛そうなだけの調子に切り替わるようになったのは確認済みだ。
正直なところ、この彼女を見られる人は世界でたった一人だけ、なんかじゃなくたっていいと思っている。彼女とはそういう関係を築いてきたつもりだ。
「それで、ちよちゃん朝からずっと寝てたみたいだけど、少しは調子良くなった?」
「む~。実はあんまり寝れてないのー。寝れなくはないんだけどねー、しんどくってすぐに起きちゃうんだー」
「ああ、辛いよねそういう時。今はどう?」
「まだ頭痛いー。なんかうにゃうにゃするー」
「だろうね。見ててそんな感じだし」
「えへー」
頭からっぽの笑い顔。確かに体調悪い時って、特に頭痛があったりすると脳使うだけでもしんどいけど、それにしたってこの年頃で曲りなりにも同年の異性を前に無防備過ぎる気がする。
要するに、それ以前にそういうことなのだ。
「ねーぐぅちゃーん」
くいくい袖を引っ張る彼女。
「ん?」
「あれやってー。ぐ~ってお腹鳴らすやつ」
渾名の元になった特技のことを言っている。特技……と言える程の代物かは微妙なのだけれど、こうくっと胃の下辺りに力を入れると腹の虫が鳴ったみたいに『ぐ~』と、いつでもお腹を鳴らせるのだ。彼女は昔っからこの芸をやってやるととても喜んだ。
しかし残念。
「だから、できなくなっちゃったんだって。中学時代は全然やってなかったからなー。やらない内にいつの間に」
そう断ると、彼女は決まってぷくっと頬を膨らます。
「む~。ダメだよー。ぐぅちゃんはぐぅちゃんなんだからー。ちゃんと練習してなきゃ、ぐぅぐぅ言わないぐぅちゃんになっちゃうよー」
「いつにも増して意味不明な文句だなぁ」
さすが幼児退行モード。おかしくて思わず噴き出してしまった。彼女は彼女で単に頭に浮かんだワードを言ってみたかっただけなのか、言うだけ言うと頬を枕に押し潰してよく分からない唸りを垂れている。「ふに~ん」って。
ピピピ、とその時体温計が鳴った。
もそもそと開いたパジャマの胸元から手が出てきて、「んー」という発音と共に体温計が突き付けられる。どうやら自分で確認する気がないらしい。
――38.1℃
そう表示してある体温計を受け取りつつ、試しに彼女の首筋に手を当ててみる。彼女がくすぐったげに首を窄め、そのせいで下着の肩紐が指に触れたりしたがそれはそれとしてやはり相応に熱かった。これは頭もかなりボーっとしてるに違いない。
「朝測った時は何度だったって?」
「さんじゅうはちてんいちどー」
「全く変わってないな」
「そっかー。でもねー。お昼に一回測った時はさんじゅうくどだったんだー」
「ふーん、一応山は過ぎたのかな。まあ何にせよまだ熱かなり高いし、明日はちゃんと病院行きなよ」
「だって今日お医者さんやってないんだもーん」
「だから明日な」
ひたすら幼稚に甘えてくる彼女には、お返しに幼稚園児か小っこい飼い犬に言い聞かせるくらいにしか使わない声音で相手をしてやる。
きゅっと彼女が掛け布団を口元まで引き上げた。そして媚びるような上目遣い。
「ぐぅちゃんが連れてってくれる?」
「おばさんに連れてって貰いんさい」
手慣れく受け流すと、彼女は拗ねた表情でポカポカ両拳を振り回してきた。
「ふみ~ぐぅちゃんのケチ~」
「学園祭の準備で忙しいの。俺リーダーなんだから」
ベッドに横たわる彼女が楽に叩けるように腕を捧げた格好で宥める。ポカポカを続けたまま彼女はころんころん枕の上で頭を転がした。
「のど乾いたー。ジュースちょーだーい」
素晴らしい話題転換だ。本物の幼児でももう少し一つの要求を粘ると思う。
だが彼女がしたいのはわがままを言うことそのものなのである。気まぐれに思い付いたことをねだっているだけだと分かっていれば戸惑うこともない。
「あ、そういえばお土産にフルーツバスケット持って来たんだ。おばさんに渡してあるけど、食べる?」
「リンゴあるー?」
「二つ入ってたかな。剥こうか?」
「ぐぅちゃんにここで剥いてもらうー」
「分かってるよ。ちょっと待ってて」
ベッド横の椅子から立つ。勝手知ったるお向いの伊町さん家。食器は疎か果物ナイフの位置まで把握しているのだ。
と、彼女の部屋を出ようという所でばふんばふんと音がした。振り返ると彼女がベッドに両手を大きく打ち付けて跳ねさせてまた振り降ろしてを繰り返していた。
「ばいばーい」
手を振っているつもりのようだ。
「すぐ戻ってくるってば」
苦笑いが浮かんでくるのを自覚しながら手を振り返し、台所に向かった。
居間に入るとおばさんがソファーに寛いで夕方のワイドショーを見ていた。卓には煎餅という、典型を地で行くお人だ。
「あら進太郎君。ちよ起きた?」
煎餅をパリパリするのを中断して問うおばさんに、首肯して答えた。
「はい。リンゴ食べたいって言うんで、俺が持ってきたヤツ持っていきますね。あ、お皿と果物ナイフ借りますよ」
お互い家族包みで良く知る仲とはいえ、他人の家の食器棚を勝手に漁ったり刃物を無断で使用する訳にもいかない。おばさんが居間でまったりしているのは計算の内だ。
「進太郎君が持って来てくれたフルーツも台所にあるからね~」
お皿とナイフの部分についてはスルーのOKということだ。
居間から台所へ進むと、おばさんの言った通り調理台の上に持ってきたバスケットが鎮座しているのをすぐに見付けた。そこからリンゴを二個取り出し、皮入れ用のボウル、皿、果物ナイフ、手拭きなど要る物を揃えていく。
と、居間の方からおばさんが顔を覗かせた。
「ごめんね~いつも迷惑かけちゃって。進太郎君が来てくれる時は全部進太郎君にやって貰うからお母さんは何もしないでって、ちよに言われちゃってるのよ~」
おばさんは全く悪く思ってなさそうにカラカラ笑う。
「幼馴染ですから。迷惑だなんて思ったこと、一度もないですよ」
「ホントにもう、進太郎君だって忙しいのにねえ。高松さんに聞いたわよ。また今年も学園祭に個人団体で参加して、その責任者を務めるんですって? 偉いわね~」
「いえ、高三にもなって、未だに友達と集まってバカやってるだけですよ。本来そんなもんに参加してないで模試でも受けて来いって話です」
「あらいいじゃない受験勉強なんか学園祭終わってからで~。高校生活最後の学園祭でしょう? まだ六月なんだしねぇ。ちよの高校はそういうの秋だから、進太郎君の所が羨ましいわ~」
おばさんの言葉に、彼女が以前言っていた事を思い出す。彼女の高校の文化祭も、高三でも有志で参加できるらしいが、現実的に出し物の準備なんかやってる場合じゃないので例年高三の参加者は受験を早くも諦めて来年に賭ける連中くらいしかいないらしい。だから最後の文化祭代わりに絶対遊びに行くからね! とかなんとか。
「でも私、ちょっと心配だわ~」
傍目からはどこまでものんびりとおばさんが頬に手を当てた。
「何がですか?」
「私ね~、進太郎君の学校は中学から男子校だって言うから安心してたの~。でも健円って学園都市中の学校と合同で学園祭やるっていうじゃない。進太郎君の学校、都市のどこかの女子校と仲良いっていうし、最後の最後で進太郎君にいい出会いが訪れちゃったらちよがかわいそーだな~って」
「何ですかそれ」
なんだかおばさんがまた変な勘違いをしている気配がする。
「何度も言ってますけど、俺とちよちゃんの間には別に何も無いですよ。ちよちゃんには中高とクラスなり部活なりで出会いがたくさんあったろうし、そろそろ俺にも素敵な出会いを下さいよ」
返事は思わず溜め息混じりになってしまった。
「ていうか最後の最後って、高校が終わってもまだ大学とか会社とか先は長いですから」
するとおばさんはオバサン臭い不敵な表情で怪しむ目線を向けてきた。
「そんなこと言っちゃって~。お互い、どっちかが風邪ひいたら必ず看病に行くくらい仲良いのに、これまで何も無かった訳ないじゃな~い。私には誤魔化さなくていいのよ~。進太郎君なら大歓迎だから~」
おほほほと口に手を当てるおばさんにはもう肩を落とすしかない。確かに、普通の幼馴染に比べて結構その枠を飛び越えた仲に見られるような事を今まさにしているのは認める。
「まあ正直俺も、高三になってまでまだこれが続くとは思ってませんでしたけどね」
風邪ひいたら風邪ひいた方は思いっきり甘える。看病に来た方はちゃんと相手をする。
なんて、初めにやり始めたのはどっちだったろう。昔風邪ひいた時にふざけて甘え捲ったのは彼女だったか、それとも彼女が真似したんだったか。次に風邪ひいた時に問答無用でわがままを聞き入れさせ始めたのは彼女の仕返しだったか、それとも彼女への仕返しだったか。
始まったのがいつかだってもう思い出せない。でも、少なくともいつでも一緒だった小学校以前のいつかではあるハズだ。
するともう十年以上も続いている訳か。
「なんかお互い、止め時を見失ってる感じがしますよね」
現状に呆れているようなニュアンスで零すと、おばさんは柔和な微笑みを浮かべた。
「あら~。でも多分、ちよから止める気はないと思うな~、私は」
「そうですか?」
「絶対そうよ~。多分ね~」
僅か二言で壮絶な矛盾を放ち、おばさんは逆に尋ねてきた。
「進太郎君は、こんなこといい加減止めたいって思ってる?」
水道で濡らした手拭きを絞りながら、少し考える。
「さっきも言いましたけど、迷惑だと思ったことなんて一度もないですよ。まあ、恋人ができたら面倒が起きる前に止めるだろうなとは思いますけど」
話してる内に用意ができた。持って行く物を俎板に載せている横でおばさんは「ふ~ん」と意味深に首を傾げていたが、やがて「そっかそっか」と妙に機嫌良く居間に戻って行く。
載せた物が落ちないように工夫して俎板を持ち、続いて台所を出る。すでにソファーの上でテレビに向かっているおばさんを横目にそのまま居間も出ていこうとすると、計ったようなタイミングでおばさんの声が掛かった。
「ちよをよろしくね~。できればず~っと」
居間を振り向くと、おばさんのいい笑顔と目が合った。肩を竦めて応え、再び彼女の部屋に向かう。ほぼ同時に後ろからCM明けっぽい拍手が聞こえてきた。
「やれやれ」
彼女の部屋を目指しながら、ついそんな感想が口を衝いて漏れる。おばさんは一体何を期待しているのか。そんなことあるハズもないのだ。
思えば彼女とは本当に微妙な距離間の関係だ。幼馴染以上恋人未満なんて男女のストーリーをよく目にするが、そういう言葉を借りるならば、彼女との関係は幼馴染以上、友人未満、みたいな感じである。
付き合いだけは長い。これまでの人生で両親と数ヶ月差くらいの勢いで長い。本当に幼い頃の彼女ならなんでも知っている。それこそ小学生以前の頃の彼女だ。
けれど、そこからの彼女はほとんど知らない。通った学校が小学校から違うのだ。母さんに言われるがままのお受験で、気付いたら初めての教室は彼女がいない空間だった。
特に動揺は無かった。彼女も淡白に納得していた。そうしていつの間にかお互いにお互いのほとんどの部分が分からなくなった。
彼女とは誰一人共通の友人がいない。顔見知りレベルまで範囲を広げてもリアルに互いの家族くらいしか挙がらない。
彼女が学校でどんな風なのかも知らない。彼女の成績はどうなのかも知らない。彼女にどんな友達がいるのかも知らない。彼女が部活でどんな顔を見せるのかも知らない。彼女の初恋も知らない。
そしてそれを知りたいとも思わない。この辺りが本当に、クラスメートではあるけれど特に絡みの無い知り合い、とかと近い感覚なのだ。
かと言って、完全に見知らぬ他人のようでもない。
小学校低学年まではしばしば二家族で遊園地とか動物園やらに行っていた。いつしか何となくそういうのが無くなると彼女とは顔を合わせる機会自体が稀になり、電車通学と地元通学の生活リズムの違いからかお向いに住んでいても偶然出くわす回数が月に二度あれば多い方な有様になったが、それでも会えば結構話せるし、お互いの学校の学園祭文化祭には毎年顔を出している。近所付き合い的な義理の二月十四日と、同じく近所付き合い的お返しの三月十四日なんかも律儀に続いているし、今日のような妙な習慣だって生きていたりする。
という、真っ当な幼馴染以上と見られても否定し得ない部分もあるのだ。
昔からの間柄を保ち続ける幼馴染でありながら、ほとんど他人と言ってもいいくらい今のお互いを知らず、知ろうとさえ思わない。
高三にもなって、人前でも“ちゃん”の付く昔からの呼び名そのままで呼び合っても平気なのは、彼女との関係が基本的に物心付いた頃で止まっているからなのかもしれない。
できることは増えても、関係が幼児時代で止まっているのなら進展のしようがない。
彼女との時間が動き出す時とは、まさに彼女との唯一の接点である昔が流れ去る時。それはきっと、進展とは逆の変化をもたらす。
そして、そうなっても構わないと思っていて、いつかそうなるだろうなと思っている。それが彼女との微妙な距離間で、十年以上切れそうで切れていない彼女との関係なのだ。
壁と膝を駆使して片手持ちの俎板を落とさないようにしつつ、彼女の部屋のドアを開ける。彼女は音程を適当に吹っ飛ばした鼻歌を歌っていた。リズムだけを漠然と楽しんでいるようだ。
「何の歌だっけ、それ?」
「んみ~、忘れた~」
ハテナマークが見えてきそうな顔。それからパァっと頬を緩めて彼女は目を細める。
「ぐぅちゃんおかえり~」
なんとなく和んだ。
「はいはい、ただいま」
気兼ねの要らない幼馴染が寝そべるベッドの脇の椅子に着く。皮剥き作業の最中、彼女は一生懸命鼻歌の歌詞を思い出そうとしていた。
「今はーもう君の癖さえーかーこ形でーもー、だいすき♪ って部分は覚えてるんだけどな~」
歌詞を聞いて不意に思い出した。
「ああ、そういやカラオケでたまにそれ歌う友達がいたな。それで聞き覚えがあったのか」
「誰の歌だっけー?」
「さあ。俺はオリジナル聞いたことないし」
我が道街道まっしぐら率が高いお蔭で、歌は知ってるけど本物の声を知らないって曲が無駄に多い。世の中の多様化は身近にも顕著に進行中なのだ。
曲の正体も思い出せぬまま、気にせず彼女はこんな替え歌を披露した。
「今はーもう君の芸さえーかーこ形でーもー、だいすき♪」
「なんか相手がホモであって欲しいみたいになってるじゃん」
裏平手で掛け布団にツッコミを入れる。もちろんちゃんとナイフを持ちかえた上で手拭きで果汁を拭き取ってからである。彼女はケラケラ笑いながらサビと思しき歌詞の忘れたフレーズを口ずさむ。サビだけの無限ループに陥っていた。
「あれー? ぐぅちゃん、サビ以外ってどんなだっけー?」
「ん、と。ンンンーンンンンンンンンンンー♪ って、これはサビか」
「ぐぅちゃんにちよが移ったー。ケタケタ」
ケタケタなんて発音して笑う彼女は、楽しそうで何よりだ。
「ねーぐぅちゃーん」
「んー?」
「お腹ぐ~ってやってー」
また唐突だなぁ。別に今に始まったことじゃないけど。
そういえばさっきも言ってたっけ。そんなに彼女が『ぐ~』を聞きたがるなら、真面目に挑戦してあげようという気にもなるものだ。
「よーし。見ておじゃれ」
「わーいパチパチ」
口でも言いながらチパチパ拍手する彼女に見守られる中立ち上がる。俎板他を傍の彼女の机に退避させ、応援団を意識した直立姿勢を取る。かつて鳴らしていた感覚を思い出して胃の下辺りに力を込めた。ペコ、とお腹が凹むだけだった。
「ふっ」
ペコ。
「ふん!」
ペコ。
「ふぬん!」
ヘコン。
「やっぱり無理でした」
早々に諦めることにした。座り直してリンゴの切り分けを再開する。彼女がじ~っと見ているのに気付いた。
「ぐぅちゃ~ん」
幼児退行にしても甘えたトーン。
「んー?」
すぐに返事をする。しかしそこから続きが無い。彼女は真ん丸な瞳を向けてくるばかりだ。単に呼びたかっただけなのかもしれない。と思っているとしばらくして彼女はころりと寝返り、歌うように言った。
「なーんでもなーい~」
右に左にころりんころりんしながら「なーんでもなーいよ~。なーんでもなーいっちゃー。なーんでもなーいでごーじゃる~」と語尾を変化させながら何でもない音頭を始める。
「なに? 変なちよちゃん」
おかしさに込み上げてくる笑いを含みながら、リンゴを切り終えた。
「できたよ。はい」
ナイフをフォークに、俎板を皿に持ち換えて彼女に示す。彼女は半身を起こして食べる姿勢になった。
「あーん」
手渡そうとする手を完全無欠に無視して大口を開ける。熱で赤い顔は満面の笑顔だ。
「しょうがないな」
流石にくすぐったく感じながら、リンゴにフォークを突き刺し彼女の口の前に持っていく。ガジ、と彼女は食らい付き、半分だけ噛み割って嚥下した。
「こらこら。折角一口サイズに切ったのに、わざわざそんな食べ方したら果汁が飛び散るじゃん」
慌てて手拭きを取ろうとしていると、フォークを持つ手を彼女が握ってきた。するりとリンゴ半切れが刺さったままのフォークを掠め取り、それをそのまま突き返してくる。
「ぐぅちゃん、あーん」
食えということらしい。食べかけを。
「えー。それちよちゃんの食べかけじゃん。風邪移すつもり?」
「前にぐぅちゃんがこうした時にちよも最初はそう言ったもん。でも結局食べたげたでしょ。だから、あーん♪」
そういえばそんなことを求めたような思い出も。小三くらいまではこういう時、寝込んだ方の任意で何口か、看病側に(何故か食べかけ限定で)摘ませていたと何となく思い出して、呆けた悪戯心でお願いしたのだ。
「でも俺、来週学園祭なんだけど。今風邪移されたら割とシャレにならないんだけど」
「大丈夫だよ。あの後ちよ風邪ひかなかったもん。だから、はい。あーん♪」
純粋に学園祭を心配したいところだが、言い逃れはできそうになかった。今日は彼女のターンなのだ。どっちみち病人の部屋に来た時点で移されるリスクを孕んでいる訳だし。
本気で風邪ひいたら皆に土下座して謝ろう、と諦めて大人しく半切れのリンゴを食べた。彼女の口に合わせた一口のさらに半分は、咀嚼する暇もなく喉に滑り落ちてしまった。
それを見て彼女は、まだ辛いだろうに、良いとは言えない顔色で幸せそうな顔をする。
まあ、いいか。と思った。これで風邪が移ったらすぐにまた彼女に移してやろう。
一瞬頭を過った考えは、甘かったのかもしれない。
彼女がフォークを返してくる。
「はい、ぐぅちゃんの番」
彼女は全部こうやって食べる気だったのである。
そして一々フォークを交換しながら二個分のリンゴを見事に半分こしてたっぷり時間をかけて味わってしまった。しかも順番を変えてくれなかったから回ってくるのは全部彼女の食べかけである。
「ふみ~。おいしかったー。ごちそうさまー」
「……お粗末様」
機嫌よく枕に戻っていく彼女。気持ち顔色も僅かに良くなったように見えなくもない。
だが代わりに……あ、やばい。心なし頭が熱い気がする。
彼女が「恋人だったらこういう時って口移しとかしたりするのかなー」なんて口走った時にはどうしようかと思った。幼児退行中はお互い理性を取っ払って気分気まぐれでアクションするから分かる。彼女が「恋人ができたら口移しして貰おー」という結論に達してくれたのは本当に幸いだった。どこの漫画から仕入れてきた偏見だか知らないけれど、そんなことしたら移されること確定である。皆に迷惑をかける理由が『風邪っぴきの幼馴染とリンゴを口移ししたら移された』なんてことになったら、清きボーイズスクールの名の下に滅殺される。※現状も十分滅殺半径内です。
「ねー、ぐぅちゃん」
「なに?」
「あのね、いいこと思い付いたー」
体調に一抹の不安を抱いている横で、彼女は今し方摂取した糖分を彼女的名案の閃きに消費したようだ。
「いいこと?」
「うん。いいことー」
頷いて繰り返し、彼女は解説者気取りにこう語った。
「思うんだけどねー、今ちよの中では風邪さんとちよの体が戦ってるでしょー。でー、ちよの体が風邪さんに押され気味だからちよはこんなに熱が出ててー、それで思ったんだけどー、ちよの中にいる風邪さんが半分だけになれば、ちよはすぐに風邪治ると思うんだー。移された方もー、半分だけならきっと体の方が勝てるからー、風邪ひかないと思うのねー。これで、ちよはすぐに治るし、移された方も何にもなくて、風邪さんも全滅して、バンザーイだよ」
「それで俺にどうしろと」
「大丈夫。ぐぅちゃんちよより丈夫だから、ちよの風邪半分くらい移っても、平気だよ」
「それで俺に、どうしろと」
「ぐぅちゃんは、ちよの風邪が早く治るようにって、看病しに来てくれたんだよね」
「もちろんそうだけど、それで、俺に、どうしろと」
「ちよの風邪半分貰ってー」
ころりんと彼女が体一つ分転がった。掛け布団を巻き込み、蓑虫みたいに体を包める。
そしてベッドの半分に誰か用のスペースが出来上がる。
「つまり、ここに寝ろと」
「そしたらちよが半分移すから」
「それはここに寝なきゃできないことなの?」
「ちよ病人だよ? 起きるのはしんどいから、や」
うん。まあ、リンゴを半分に齧ってる時も結構しんどそうだったけれども。
じ~っと彼女が見詰めてくる。熱のせいで潤んだ瞳が部屋の電灯を乱反射して、夜景の海みたいに煌めいて見えた。
風邪をひいたら幼児退行するのは、そうする方が楽だからだ。大きくなってくると段々、今しようとしている言動で相手に与える印象が、後々どんな禍根となるかを気にするようになる。それはやがて肉親に対しても例外ではなくなっていく。しかし体調が悪くて本当に辛い時というのは、そんな煩わしい理性を巡らせるだけでもとても苦しい。本当は苦しさを咽び叫びたいし、忘れそうになる快楽に埋没したいし、恥も外聞もなく誰かに縋り付きたい。その捌け口として、何の遠慮もしなかった子供時代に帰る。いくつになってもそうできる繋がりが、昔にしか接点がない幼馴染なのだった。
幼児退行すればする程辛いんだということ。それが彼女との共通認識。
滲み出ている脂汗や、重たそうに下げられた眉尻や、数字しか示さない体温計よりもよっぽど伝わる指標である。
すでに若干移されている気がする辺りにツッコミたいところもあるが、彼女の要求通りに風邪を半分頂戴することにした。彼女のベッドの上に、横寝に向かい合う格好だ。
彼女は右肩下がりな感じの笑みで喜しそうに頬を綻ばせた。
「で。どうやって俺は風邪を半分だけ受け取ればいいのかな」
勿論そんなことが不可能だというのは見抜いている。単に彼女のわがままに付き合っているだけだ。尊い健康を賭けて。
「うん。動かないでね。今移すから」
言うと、彼女はうんしょうんしょと芋虫よろしく体を動かし――のしかかってきた。
「ぶぎゃっ」
逃げる前に頭を彼女の体に押し潰される。というか、動き的にすり潰されたと言った方が近いかもしれない。下敷きにしている悲鳴を無視して、彼女はもぞもぞ動き続ける。首同士が交差する体勢になってようやく落ち着いた。
「いーち、にーい、さーん、」
そして頭の後ろからカウントが始まった。どうやら首を触れ合わせることで風邪が移る設定らしい。彼女の顎が動く度、沸騰したヤカンの蒸気のような吐息と汗ばんだ頬が後頭部を撫でる。触れ合う首から伝わる彼女の体温は火傷してしまいそうな程に熱かった。
一・七秒毎一カウントくらいのカウントを黙って聞き続けることしばらく。
「さーんじゅっ」
ころんと転がって彼女は密着を解いた。彼女内時間で一分間が風邪を百パーセント移すのにかかる時間だったようだ。
「どう? ぐぅちゃん、風邪さんちゃんと受け取ってくれた?」
「ああ、ちょっと頭の奥の方からだるくなってきたよ」
真剣に。
「そっか。うん。ちよもちょっと楽になったかも。これでもう安心だね」
「そうだね。これでちよちゃんが早く治って、俺が風邪をひかなければ、事は全て解決だね。ちよちゃんが早く治って、俺が風邪ひかなければ」
問題は依然として彼女がどう考えても一日かそこらで治りそうもない顔色なのと、体感気温が約一分前より大幅に下がっているという二点だ。これは考え得た最悪のパターンではなかろうか。
「じゃあ、二人で協力して早く風邪さん退治しようね」
「え?」
何か不穏な言葉が聞こえた気がした直後、再び彼女が密着してきた。ただし今度はのしかかるのではなく、腕にすっぽり収まる感じで。
「ちよちゃん?」
意図を探ろうと胸元の熱源に呼び掛ける。彼女はあまり意味を成さなくなってきたのか熱冷ましシートを剥がしながら、今日の中で見たどの笑顔とも違う笑みで見上げてきた。
「こうしてね、風邪さんを挟み討ちするの。こうすればもっと早く風邪治るよね」
言って掛け布団に蓑虫状態の体をさらに寄せ、胸に顔を埋めるようにくっ付いてくる。彼女のイメージではこうすることでなんか空中のこの辺にフヨフヨしている風邪を包囲していることになるらしい。
じゃあ何の為に風邪を二つに分断したんだ、とツッコもうとして――止めた。
代わりに彼女の頭を包み込むように抱く。彼女が一際大きく熱い息を吐いた。同時に風船の空気が抜けていくみたいに彼女の体から力みが抜けていくのが腕に伝わってくる。
よくある物語では、こんな場面の後には最後の一線を越えたりするのが普通なのだろうか。
これまでは彼女とは本当に何も起きたことはない。だが、ここまで甘えてくる彼女は初めてでもある。
幼児退行した彼女は感情にとても素直だ。では今彼女が何を求めているのかを考える。
考えるまでもない。
いつも通りなのだ。
誰かに縋り付きたい程に辛いから幼児退行する。幼児退行すればする程辛いということ。
ただそれだけだ。彼女が全身に巻き付けている掛け布団。彼女からしてみればただ寒気がするからなのだろう。だが、それによる彼女の素肌への距離が、彼女との関係の距離感そのもののようでもあり、この距離感を居心地良くも感じる。
恋人とは程遠いけど誰よりも安らげる他人みたいな幼馴染。
着実に頭の芯が重くなっていく。これが答えだ。
「ちよちゃん。明日、一緒に病院行こうか」
「えへへ、ごめんなさーい」
彼女が明日病院に行くのに一緒に付いて来て欲しがるのなら、きっとそういうことになるのだ。
作中に出てきた歌はWhiteberryの「かくれんぼ」という、ポケモン映画「セレビィ 時を超えた遭遇」と同時上映の短編アニメ「ピカチュウのドキドキかくれんぼ」の主題歌です。
著作権法に触れとるわボケェと突っ込まれたら言い逃れできない気がするので、まあこれで商的利益得てる訳でもないし一ファンとしての愛情表現と捉えて欲しいなとも思いますが、一応悪意は無いというアピールをすると共に僅かながらの貢献を主張しあわよくば誤魔化すべくここで宣伝しておきます。
という訳で、一回聞いてみて下さい。どうせ検索すれば大抵のモノはすぐヒットするでしょう今の世の中。ひょっとするとこの作品に対する部分部分の解釈が多少変わる事もあるかもしれません。ないかもしれません。どちらにせよいい歌だなと思ったらお買い上げ申し上げちゃってください。
どうも。初めましての方は、お初にお目にかかります。
そうでない方は、滅多にいないと思いますが毎度ありがとうございます。
上記の歌が収録されたCDは勿論購入済みの作者、一休と申します。
今回は、地の文に一人称代名詞(俺、自分、俺達、こっち、etc)を出来る限り廃してみました。
こういう制限を自分で課して、ちょこちょこ言葉遣いを工夫する練習をしてる子です。と言いますかなんだか今回思ったんですが多分一休は制限付きの文を考えるのが結構好きなのかも。
内容はま~、思い付いた瞬間から、今まで挑戦したことのなかった「もうあんたらデキちまえよ」みたいなベッタベタだけどくっ付かない幼馴染の話になったらいいかな、と思ってたんですが、蓋を開けてみればやっぱり若干方向性歪んだかしら。
そもそもこの話を創造(漢字違い)したのが先月末に高熱出して家で一人うーあー苦しんでた時で、いきなりボワ~ンと最初から最後まで走馬灯のように脳内を駆け巡っていったという逸話がある素晴らしい突貫創作なに恥ずかしいこと口走ってんのよ止めなさいよ。
家で一人夏風邪の辛さに耐えるしかない誰かを、一時の夢(という名の妄想)の世界へご案内差し上げ、微かな励みになることができれば、創作者として最上の喜びでございます。
後に襲ってくるであろうどうしようもない現実は知りません。嫌な現実をこそ妄想に追いやるって生き方もあるみたいですよ。渋谷を舞台に繰り広げられる恋の物語で筋金入りのオタクが言ってました。
では、いつかまたどこかでお会いすることを楽しみにしておりますm(__)m