第3話:変わらない君と、変わる世界
深い森の奥、並の人間ではとうていたどり着くこともできない不可侵の領域。私たちがこの場所に小屋を建て、外界との関わりを絶ってから、およそ五十年の月日が流れていた。
エルフである私にとって、五十年など瞬きのような時間だ。
朝陽を浴びて輝く銀の髪も、華奢な手足も、魔力に満ちた細胞も、出会った頃の少女の姿から何一つ変わっていない。
そして、私の隣で薪を割っている彼──バロウもまた、五十年前のあの日から一秒たりとも歳をとっていなかった。
「フィア、起きていたのか。少し冷えるから、中に入ってなよ」
振り向いた彼の顔は、二十代後半の精悍な青年のままだった。
額に滲む汗も、私に向けるひだまりのように温かい微笑みも、何も変わらない。私たちはまるで、この森の中で切り取られた一枚の絵画のように、永遠という名の停滞の中にいた。
静かで穏やかな、二人きりの世界。
彼にかけられた魔王の呪いさえ忘れてしまいそうになるこの優しい錯覚は、しかし、ある朝の冷酷な知らせによって無惨に打ち砕かれた。
結界の縁に置かれていたのは、一羽の魔法鳥が落としていった古びた羊皮紙だった。
かつて私たちが魔王討伐の旅を共にした仲間──大剣使いだった人間の戦士の、訃報だった。
差出人は彼の孫娘であり、そこには『祖父は昨夜、老衰により家族に見守られながら安らかに息を引き取りました。かつての英雄たちに、祖父の旅立ちを報告いたします』と、丁寧な文字で綴られていた。
「……そうか。あいつ、孫に囲まれて、安らかに……」
手紙を読み終えたバロウは、ぽつりと呟いた。
その横顔は、友の安らかな最期を祝福しているようでもあり──取り残された者としての、どうしようもない絶対的な寂しさに耐えているようでもあった。
──そのとき。
ドクン、と。
小屋の中の空気が、不自然に震えた。
足元の床板がきしむような音ではない。空間そのものが、巨大な心臓の鼓動に共鳴したような、吐き気を催すほどの不気味な脈動。
「……っ!」
バロウがはっと息を呑み、手紙を取り落として胸を押さえた。そのまま、苦しげに膝をつく。
彼の影が、じわりと異様な濃さを帯びて床に広がっていく。そして、彼の身体の輪郭から、インクを水に垂らしたような漆黒の霧が、ゆらゆらと漏れ出し始めた。
「バロウ!」
私は弾かれたように駆け寄り、彼の身体を支えた。
肌に触れた瞬間、氷のような恐ろしい冷気が私の指先を刺した。ただの冷たさではない。命を否定し、光を喰らい尽くすような、純粋な『死』と『絶望』の温度だ。
「ぐ、あ……っ! だめだ、来るな、フィア……っ。俺から離れろ!」
「離れないわ! 大丈夫よ、バロウ、私を見て。深呼吸して!」
友の死による喪失感。それが引き金となり、彼の中に眠る魔王の呪いが目を覚まそうとしているのだ。
漏れ出した黒い霧が、床板を腐らせ、窓辺に飾っていた花を一瞬で枯らし、灰に変えていく。魔王の瘴気は私のエルフとしての清浄な肌をもジリジリと灼き焦がしたが、私は構わずに彼の震える背中を力強く抱きしめ、自身の魔力を光に変えて注ぎ込んだ。
「俺は……俺は……っ」
バロウの口から、子供のような悲痛なしゃくり上げが漏れた。
「ごめん、フィア……っ。俺は、俺だけが取り残されていくのが怖い……! みんな死んでいく!俺を置いてみんなっ……」
不老不死という呪いは、永遠に生きることではない。
自分以外のすべてが死に絶えていくのを、永遠に見送らなければならないという無間地獄だ。
五十年前、ともに笑い合い、背中を預け合った仲間たちはもう、この世のどこにもいない。彼を知る者は、もう私しかいないのだ。
彼にすがるように抱きしめられながら、私の心臓は冷たい絶望で凍りつきそうになっていた。
(……五十年で、人間の仲間は寿命を迎えた。ならば、千年後は?)
残酷な計算式が、私の頭の中を駆け巡る。
エルフである私でさえ、いつか必ず寿命を迎える。あと九百年、あるいは八百年後かもしれないが、その日は確実にやってくる。
エルフの死生観において、死とは『全体への回帰』だ。肉体は光の粒子となって霧散し、魔力として大地に還る。墓すら作らず、個体を残すことは自然の理に反する恥とされている。文字通り、この世界には私の欠片ひとつ遺らない。
もし、私がエルフの理に従って美しく消滅してしまったら。
彼の腕の中には、本当に「何も」遺らない。
たった一人の友人の自然死でさえ、これほどまでに彼を壊し、魔王の力を呼び起こしてしまうのだ。もし、彼が最も愛し、唯一の拠り所としている私が「何も遺さず」に消えてしまったら。
その時、バロウはどれほどの絶望に叩き落とされるだろうか。
彼は間違いなく壊れる。彼をこの世界に繋ぎ止める錨は失われ、その瞬間に魔王は完全に復活し、世界は漆黒の霧に飲み込まれて終わる。
(耐えられるわけがない)
彼が世界を滅ぼすことなんて、正直どうでもよかった。
私が恐ろしいのは、彼がたった一人で、暗闇に怯えながら永遠の孤独を彷徨うことだ。
エルフの美しい理など知ったことではない。そんな綺麗事で、私の愛する夫を救えるはずがないのだ。
私は彼を絶望させない。絶対に。
ならば、遺さなければならない。私が彼を愛し、彼と共に生きたという『形ある証』を。彼が私を失っても、その絶望ごと彼を包み込めるほどの、絶対的な愛の結晶を。
「……泣かないで、バロウ。私はどこにも行かない。ずっと貴方の傍にいるわ」
震える彼の背中を優しく撫で、耳元で甘く囁きながら。
私の心の中では、冷たくも熱い狂気の炎が静かに燃え上がり始めていた。
本来なら霧散するはずのエルフの魂を無理やり物質化し、この世に留める術式。
それは、自らの寿命を大幅に前借りし、この研ぎ澄まされた五感を一つずつ削り落とすことでようやく成し得る、決して手を出してはならない禁忌の魔法だ。
どれほどの激痛が伴うか、想像もつかない。
けれど、もしその苦痛が彼に少しでもバレれば、優しい彼は自分を激しく責め、その瞬間に絶望して世界は終わる。
(だから……絶対に悟らせない。私が最期の瞬間まで、穏やかに微笑んだまま死んでいけるように)
彼の温かい腕の中で、私は一人、途方もない覚悟を決めた。
世界を騙し、エルフの理を裏切り、何より愛する夫さえも欺き通してみせる。
すべては、いつか必ず来る終わりの日に、彼の手の中に、私の愛を遺すために。









