第2話:世界で一番優しい爆弾と、果たせぬ約束
漆黒に塗り潰された意識の底。不意に、千年前のむせ返るような血の匂いが鼻腔を突いた。
まだ私が若く、エルフとしての悠久の命と魔力を持て余していた時代。
人間たちの要請で魔王討伐の旅に出た私は、人間の勇者であったバロウと恋に落ちた。
種族の壁も、絶望的な寿命の差も気にならないくらい、私たちは深く、ただ純粋に愛し合っていた。この血みどろの戦いが終われば、平和になった世界で二人きり、どこか静かな場所で暮らそうと微笑み合って。
けれど、そのささやかな夢は、私たちが世界を救ったその瞬間に無惨に砕け散った。
『──我が身は滅びようとも、呪いの器は残る。勇者よ、貴様が絶望に泣き喚くその時、我は貴様の肉体を借りてこの世界を喰らい尽くそう』
魔王が最期の断末魔と共に遺した呪いは、愛するバロウの体を「不老不死」へと作り変え、強大な黒い瘴気と共に、彼を「世界を滅ぼす時限爆弾」へと変え果てさせてしまった。
発動条件はただ一つ。
『バロウが、愛する者を失う絶対的な絶望を味わうこと』
凱旋した私たちを待っていたのは、歓喜のパレードではなく、冷え切った恐怖だった。
王宮の豪奢な大広間で、人間の王や貴族たちは、先日まで救世主と讃えていたバロウを、汚物を、あるいは得体の知れない化物を見るような目で取り囲んだ。
「彼を地下牢の最下層へ封印せよ! 決して外に出すな、誰とも関わらせるな!」
「勇者が絶望すれば世界が終わるのだぞ! 一生、光の届かぬ場所で鎖に繋いでおくしか……」
向けられる無数の悪意と恐怖の視線。
バロウは、一切の抵抗をしなかった。ただひどく傷ついた、諦観の張り付いた顔で、自身の残酷な運命を受け入れようと俯いていた。
私が彼の『弱点(絶望の引き金)』にならないよう、わざと私から目を逸らし、その手を振り払おうとして。
その痛ましい姿を見たとき、私の中で、何かが決定的に弾け飛んだ。
「──ふざけないで」
私の低く冷たい声と同時に、王宮の巨大なステンドグラスが凄まじい魔力圧で一斉に砕け散った。
降り注ぐ色ガラスの雨と、悲鳴を上げてしゃがみ込む兵士たちを一瞥もせず、私はまっすぐにバロウの元へ歩み寄る。そして、彼の冷え切った大きな手を、決して逃がさないように両手で強く握りしめた。
「彼を地下牢になんて入れさせない。鎖で繋いで、愛から切り離して孤独にさせることこそが、彼を一番の絶望に追いやるのだとどうして分からないの」
「し、しかしエルフ殿! もし彼が絶望して魔王が復活したら……」
「しないわ」
私は玉座で震える人間の王を真っ向から睨みつけ、はっきりと宣言した。
「彼を絶望なんてさせない。私がこれから千年間、誰よりも深く、彼を愛し抜いてみせる。彼に、悲しむ隙なんて一秒たりとも与えない。だから──彼にはもう、指一本触れさせないわ」
それが、私がこの理不尽な世界に対して切った、最初で最後の啖呵だった。
バロウは信じられないものを見るように私を見つめ、やがて大粒の涙をこぼして私の小さな肩に縋り付いて泣いた。その震える涙が、世界を滅ぼす絶望ではなく、ただの不器用な青年の安堵によるものだと分かっていたから。私は彼の背中を、ただ優しく、何度でも撫で続けていた。
それから私たちは、人里離れた深い森の奥へと身を隠した。
彼を外界の悪意から遠ざけ、穏やかな日々だけを紡ぐための、たった二人きりの箱庭へ。
ある星の綺麗な夜だった。
小屋の窓辺で夜風に当たっていたバロウが、ふと、ひどく寂しそうな、けれど優しい顔で笑って言った。
「なあ、フィア。いつか……もしもいつか、俺の呪いが解ける日が来たら」
「ええ」
「俺が育った、故郷の村を君に見せたいんだ。何もない辺境の村だけど……風の匂いが穏やかで、人も温かくて、本当に良い場所なんだよ。君を、そこに連れて行きたい」
彼の瞳は、もう二度と帰れない遠い昔の優しい記憶を見つめていた。
私は彼の隣に並び、そのがっしりとした肩にそっと頭を乗せる。
「ええ、楽しみにしているわ。いつか……必ず、一緒に帰りましょうね」
私は微笑みながら、心の中で血の涙を流していた。
バロウもきっと、泣いていたはずだ。
呪いが解ける日など、永遠に来ない。
不老不死となった彼はもうその村で私と一緒に老いることはできないし、人間より遥かに長く生きるはずのエルフの私でさえ、いつか必ず彼より先に限界を迎えて死ぬ。
私が死ねば、彼は絶望し、魔王が復活して世界が終わる。
故郷の村になんて、絶対に帰れない。
二人とも、その残酷な事実を完璧に理解していながら。まるですぐ明日にでも叶うかのように、互いを想い合うがゆえの、甘く優しい嘘を吐き合っていた。
(……このままじゃ、ダメだわ)
彼が静かな寝息を立て始めた後。私はランプの頼りない灯りの下で、エルフの古い伝承が記された禁書を開いた。
エルフは死ねば光となって森に還る。彼の手には、文字通り「何も」残らない。
それでは彼は、喪失感に耐えきれず、間違いなく壊れてしまう。
ページをめくる手が、ピタリと止まる。
『──相反する極大の魔力が、全く同じ質量で衝突した時。それは対消滅を越え、変転、あるいは新たな創世を呼ぶ』
古い神話の一節。古びた羊皮紙を指でなぞりながら、私は暗い夜の森を見つめた。
いずれ訪れる、彼の中に眠る極大の絶望。それに完全に釣り合うだけの、極大の愛情を、形にして遺すことができたなら。
「私が……」
ポツリとこぼしたつぶやきは、誰の耳にも届くことなく夜の闇に溶けていった。
それが、私を破滅的で狂気にも似た研究へと駆り立てる、長く残酷な千年の始まりだった。









