第1話:終わりの日の朝に
光を失った世界で、どれくらいの時間が経っただろう。
視界はとうに暗闇に沈んでいるというのに、私の右手を両手でぎゅっと包み込む彼の体温だけは、千年前から何一つ変わっていなかった。
「……フィア」
ひどく掠れ、震える声が耳元に落ちる。
感覚の薄れた私の手の甲を、ひんやりとした水滴が濡らした。彼が泣いている。その事実だけで、とうに枯れ果てかけたはずの私の胸が、痛いほどに締め付けられた。
「……泣かないで、バロウ」
砂を噛むように出にくくなった喉を震わせ、私はゆっくりと紡ぐ。
エルフである私の寿命は、もう限界を迎えていた。指先の感覚はとうに抜け落ち、今は足先から少しずつ、自分が光の粒子となって崩れていくのを感じる。
見えなくとも想像がついた。今の私は、白髪と深い皺に覆われた、醜く老いた姿だろう。対して、私の手をすがるように握る彼は、千年前のあの日から残酷なほど時計の針を止めたままの、精悍で美しい青年の姿をしているはずだった。
「ダメだ……。お願いだ、フィア。俺を、置いていかないでくれ……っ」
嗚咽を必死に噛み殺す彼の声が、私をこの世界に縛り付ける。
ああ、どうか泣かないで。私の愛しい人。
貴方が絶望に呑まれれば、その瞬間に貴方の奥底で眠る魔王が目を覚まし、この世界は終わってしまうのだから。
世界を滅ぼす、不老不死の時限爆弾。
それが、私が千年間愛し抜いた、不器用で優しい夫の正体だ。
だから私は、ただの一度だって彼を一人きりにはしなかった。
彼を絶望の淵に立たせないために。誰よりも「愛されている」と安心してもらうために。エルフとしての誇りも、悠久の命も、光も音も、すべてを削り落として、今日という日まで彼に微笑み続けてきた。
「大丈夫よ。……私はずっと、貴方と一緒にいるわ」
嘘は言っていない。
私は、感覚を失い消えゆく左手で、自身の胸元にそっと触れた。
そこには、私が千年という時間を代償に創り上げた『魂の種子』が、彼の体温に応えるように、トクン、と確かな熱を持って脈打っている。私のすべてを懸けた、極秘の研究の果て。
エルフは本来、死ねば光となって森へ還る。個としての魂は霧散し、何も残らないのが美しい理だ。
けれど、私は還りたくなかった。
彼をたった一人残して、美しい自然の一部になんて、死んでもなりたくなかった。
たとえこの身が砕け散ろうとも、私が貴方を愛したという『証』だけは、絶対にこの世界に遺してみせる。
この一粒が残る限り、私は、貴方の手の中で生き続ける。
「愛してるわ、バロウ。……出会ったあの日から、ずっと」
最期の力を振り絞り、口角を上げて微笑む。
愛しい人の震える唇が、私のしわがれた額に、すがるように押し当てられるのを感じた。
「俺もだ!俺も愛してる、フィア……愛してるんだ……!」
血を吐くような悲痛な叫びを聞いたのを最後に、私の輪郭は弾け飛び──肉体としての意識は、ふつりと途切れた。
直後。
光の粒子となるはずだった私は、たった一粒の『黄金の種子』へと凝縮され、彼の手の中に取り残された。
同時に、繋いでいたはずの手から、爆発的な喪失と絶望の感情が巨大な津波となって膨れ上がるのを、『種子』となった私ははっきりと感じ取った。
ドクン、と。
世界そのものの心臓が脈打つような、恐ろしい音。
温かかった朝の空気が、一瞬にして漆黒の冷気へと塗り潰されていく。彼の中から決壊したドロドロとした黒い霧が、光を喰らい、空を覆い尽くし、世界を終わらせていくのが分かった。
──ああ、始まった。魔王の呪いが。
すべてが真っ黒に染まっていく絶望の底で、私はただ静かに、その時を待っていた。
彼の絶望が世界を壊し尽くす前に、私が遺したこの小さな『愛』が、どうか彼の心に届くようにと祈りながら。
意識が、千年前のあの日へとゆっくりと逆流していく。
まだ私たちが若く、世界が今よりずっと残酷で、そして……彼が、どうしようもないほど優しかった、あの日の始まりへと。









