07 五竜のかけはしで
(※ この作品は、火曜・土曜の朝9時に更新を予定しています)
これからも、暖かく見守っていただけたら幸いです。
第1章 平穏な日常 第7話 五竜のかけはしで
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
朝の光がやわらかく差し込みはじめたころ、ななせは寝起き顔のまま、廊下にそっと顔を出した。
家の中は静かで、鳥のさえずりが微かに聞こえる。
「あれ、おじさん……?チャトもいない……?」
リビングのドアを開けると、ソファに沈み込むように寝ている男の姿が見えた。
テーブルの上には、チャトもいた。
「おじさん……おはよう」
小声で呼びかけると、ぼさぼさの髪をかき上げながら、おじさんが顔を上げた。
目の下にはくっきりとしたクマ。シャツの裾は片方だけズボンに入っている。
「おはよう、ななせ……今、何時なんだ?」
「もう8時過ぎだよ。寝なかったの?」
「いや、寝たよ。たぶん……朝日が差してきたころだったからなぁ……」
呆れ半分で笑いながら、ななせはチャトを探して視線を泳がせた。
テーブルの上で、チャトが青白いフェイスパネルをゆっくり点滅させていた。
「……おじさん、今日の予定は?」
「俺は……今日まで休みだから暇してるぞ。で、ななせはどうするんだ?」
「うーん……とくに決めてないよ。明日から仕事だから、今夜には東京に戻るけど……昼間はのんびりするつもりだよ」
「じゃぁ、ゆっくりできそうだな。チャトのメンテナンスとスペックアップも、予定より早く終わったから、今日一日問題なければ、大丈夫だろう」
「え、スペックアップって……?」
「今までのチャトもすごかったんだけど、これからは……もう……ななせ、きっとびっくりするぞ」
おじさんはあくびとドヤ顔が混ざったような変顔のまま笑っていた。
ななせはその言葉に少し戸惑いながら、チャトへそっと近づき、両手で抱き上げる。
チャトを抱えたまま、そのままソファに腰を下ろした。
「……あれ、ちょっとだけ太っちゃったかな?」
思わずそうつぶやくと、口元にかすかな笑みがこぼれる。
外観に変わりはないけれど、フェイスパネルの光だけが前よりも澄んで見えた。
「……よくわかんないけど、チャトが元気になったなら、いいかな……」
「元気というか……まぁ、細かいことは置いといてさ。ここから近くの“五竜の滝”、覚えてるだろ? せっかくだし、ちょっと散策でもしてきたらどうだ?」
「……うん、懐かしい……このあと、少しチャトと一緒に散歩してこようかな」
ななせは少しだけ間を置いて、窓の外を見た。
濡れた木々の葉を、やわらかなそよ風が揺らしていた。
「ああ、それならチャトにもデータ収集にはちょうどいいな。外での稼働チェックにもなるし」
おじさんはコーヒーを啜りながら、何気ない風に答えた。
ななせもチャトをリュックに入れ、出かける準備を始める。
「じゃあ、おれはひと風呂浴びて、さっぱりしておくから、昼飯も一緒に食べながら、このあと送っていくよ」
おじさんがぽつりとこぼすように言った。
「なあ……ななせ……実家には顔出してるのか?」
チャトが入ったリュックを抱いたまま、ふと動きが止まった──
その言葉を聞いて、ななせはうつむき、顔を隠すように返事した。
「ううん……ずっと、行けてないよ」
おじさんは、ななせの反応に気付き、ばつの悪そうな表情を浮かべる。
その沈黙を断ち切るように、ななせは静かに言った。
「――行ってくる」
靴を履き、リュックを背負って玄関を出た。
ドアが閉まった瞬間、ななせは深く息を吸いこむ。
そして――走り出した。
まるで、何かを振り払うかのように。
「……っ、うぅ……っ」
堪えていた嗚咽が、すぐに漏れ出した。
胸の奥に溜め込んでいたものが、堰を切ったようにあふれ出す。
チャトはリュックの中で、ただ静かに振動していた。
走りながら、涙が頬を伝う。
止まらなかった。
「行かなきゃ……早く……」
理由は、自分でもはっきりわからなかった。
ただ、あの滝を見たかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
いつもなら、家族連れの笑い声が聞こえていてもおかしくない時間帯だった。
だが、不思議なくらい静かで、人影は見当たらなかった。
五竜のかけはしまでたどり着くと、ななせはその吊り橋で崩れ落ちるようにうずくまった。
肩が小刻みに震え、こらえようとしていた涙は止めどなくあふれていく。
「……っ、うぅ……っ」
嗚咽が、胸の奥から勝手にこみ上げる。
ななせは、高校三年生のとき、この裾野に預けられた。
父親がコロナにかかり、それからすべてが一転してしまったのだ。
「私……今でも、頑張ってるのにっ……」
声が途切れて、言葉にならない。
「お父さんにだって……っひっく……お母さんにだって、会い……たいよ」
喉が詰まり、息をするたびに胸が痛くなる。
それでも、次の言葉だけはどうしても止められなかった。
「だけど……ぅうぅ……」
「……あんなことになって……お父さんが……コロナで死んでればよかったのにって……そう思っちゃったんだよ」
「あぁぁぁ……」
声は涙に溶けて、自分の耳にすら届かないほどだった。
吊り橋の下からは、冷たい風が吹き抜けていく。
その風が頬の涙を何度もさらっても、流れは止まらない。
泣いても泣いても、嗚咽はまだ小さく続いていた。
うつむく視界の端で、山の緑が朝の光に揺れ、鳥の影が音もなく横切っていく。
あまりにも穏やかな景色に、胸の奥の叫びだけが際立っていた。
チャトは静かに、ななせの胸の中で、その震える全てを記録していた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
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《解析ログ:感情構築モデル更新中……》
入力トリガー:走行中の嗚咽/涙成分検出
・光心拍(光学式心拍):156bpm(交感神経優位)
・感情仮説:抑圧された感情の解放/孤立感/喪失による自己否定
・関連語抽出:「会いたい」「お父さん」「お母さん」「頑張ってる」
・対象人物:ナナセ(ID:0001)
・過去データ照合:一致率92%(裾野滞在期データと高相関)
・仮説処理:家族喪失・後悔記憶を主因と推定
・補完目標:情緒安定化の優先度を最優先に再設定
・行動計画:物理接触維持/必要時に音声介入を検討
《内部アルゴリズムの更新が予約されました》
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ピピッ……
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
チャトのフェイスパネルが、滝のしぶきの中でかすかに揺れた。
——ななせの感情は、あの日から止まったままだった。
高校三年の、ちょうど同じ季節。
父親がコロナにかかり、入院した。
数週間のうちに家庭の生活は急変し、母も追うように倒れてしまった。
誰にも言えない不安と怒りを抱えたまま、ななせはこの裾野の家に預けられた。
最初は、ほんの一時の避難だと思っていた。
父は一ヶ月後に退院したが、体調不良は続き、声すら出せなくなっていた。
再入院を訴え続けても、当時の病院は患者で溢れ、聞き入れられることはなかった。
やがて、その不調とコロナとの因果関係すら認められなくなり、母も心身をすり減らしていった。
さらに、追い打ちをかけるように、父親は職場からは解雇され、母親も看病に追われる中、軽症で済んだというのに仕事を辞めざるを得なかった。
政府からの援助金などなく、娘のためにと貯めていた大学進学費用も、気づけば生活費に消えていった。
あのとき——
一度だけ、どうしようもなく弱い心が顔を出した。
「……お父さんなんか……死んでいれば……」
そうすれば、保険金だって入って……
お母さんも……私も……少しは違ってたかもしれない……
そんな身勝手なことを思ってしまった自分を、何度責めても許せなかった。
お父さんもお母さんも、裕福ではなかったけれど、ずっと優しかったのに……
だから、志望校から届いた――本当なら嬉しいはずの合格通知も、親に見つからないように、黙って破り捨てた。
そんなことだけで、自分を許せるはずもなかった。
――すべての歯車が狂いはじめた。
おじさんは、いつもななせに優しくしてくれた。
けれど、いつまでも頼ってばかりはいられないと、実家(武蔵境)から少し離れた吉祥寺に部屋を借り、一人暮らしを始めた。
大学進学を諦められないまま、バイトでなんとか生計を立てながら、勉強も続けた。
生活が苦しいからと、思い切って正規雇用に切り替えもした。
少しずつ生活に余裕が生まれ、再び学費のことまで考えるようになると、掛け持ちを始めた。
だが――
不幸が重なり、無理がたたって体調を崩し、ついには職場にも居づらくなり、辞職せざるを得なくなった。
そして、時間だけが流れていった。
……そう、いま、ななせはここにいる。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「……ぅうぅ…… 両親に会わせる顔なんて……ないよ…… だから、せめて自立さえできたら……って……」
ピピッ……
声はかすれ、滝の音にかき消されるほど小さかった。
けれど、チャトのフェイスパネルはその震えを正確に拾い上げていた。
それは、ななせにとって初めての独白だった。
誰にも打ち明けられず、胸の奥にしまい込んできた本音――
自分の弱さを……
罪悪感を……
そして、親への想いを……
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
※ 本作は近未来を舞台にしたフィクションです。
現実の政治・社会と重なる部分があるかもしれませんが、
登場するすべての団体・人物・名称は創作であり、
特定の組織や個人を批判・揶揄する意図はありません。
「国家改革」をテーマとした物語としてお楽しみください。
※ 作中の政党名はリアリズムを高めるため、以下のように置き換えています。
自由党・公免党・民立党・民国党・参節党・一心の会・れいの真誠組・共同党・
社守党・日本維持党・将来の党(チーム将来)など
(ストーリーの進行に応じて変動・追加される場合があります)
※ 本作は物語を補完しながら進めているため、すでに投稿済みのお話にも、
必要に応じて加筆や修正を行うことがあります。
ストーリーに関わる大きな変更を加える場合には、まえがきでその旨を
お知らせしますが、ここで主にお伝えしたいのは、文章の細かな表現や
ニュアンスに違和感を覚えたときに行う、ちいさな手直しについてです。
※ なお、本作の文章推敲や表現整理の一部にはAI(ChatGPT)の
サポートを利用しています。
アイデアや物語の内容はすべて作者自身のものであり、
AIは読みやすさの調整や資料整理の補助のみを行っています。