39 流れの中にそびえたつもの
日頃よりご愛読いただき、心から感謝しております。
当面のあいだ更新が不定期となりますこと、何卒ご容赦ください。
今後ともよろしくお願い申し上げます。
第6章 浮かび上がる輪郭 第39話 流れの中にそびえたつもの
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
蒸し暑さがまとわりつく中、
遠くから蝉の声が途切れることなく響いていた。
自らに与えられた、短い生を懸け、
ただ存在していることだけを、世界に刻み付けようとするその営みは、
いったい何を世界にもたらしているのだろうか。
耳を澄ませてみても、返ってくるのは同じ鳴き声だけだった。
空は低く、厚い雲に覆われていた。
ときおり裂け目から淡い青が覗く。
だがそれもすぐに塞がれ、
いつ雨が降り出してもおかしくない、どんよりとした空だった。
いや――
この空は、「何も起きない」ほうが例外なのだと告げているようだった。
2027年8月6日の朝は、
そんな朧げな気配を抱えたまま、静かに始まった。
この日は、日本にとって決して忘れることのできない日である。
広島平和記念日。
だが、その意味は、もはや過去だけを指してはいなかった。
昨今の海上をめぐる混乱は、
もはや遠い対岸の火事ではなかった。
その火の粉は、確実に日本の生活圏へと降りかかり始めていた。
物流コストの上昇が、
即座に国内の物価高騰へと転化するわけではない。
だが、それが遅れて、必ず生活を圧迫することだけは、
もはや疑いようのない事実だった。
この時間差は、猶予ではない。
現実が入り込む前に残された、わずかな「間」にすぎなかった。
そして、日本のすぐ隣に位置する台湾もまた、
同じ構造に置かれていた。
より直接的で、
より苛烈な圧力の下に、
すでに晒されていると考えるほうが、現実に近いのかもしれない。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
式典の開始が迫る中、
指定された取材エリアの一角に、彼は立っていた。
記者証は首から下げたまま。
カメラも、まだ構えていない。
西日本通信社の記者、比嘉世幸。
岡山県倉敷の出身だが、
その家系を辿れば、沖縄へと行き着く。
祖父は戦死し、
家族は疎開の末に、本土へと移った。
その経緯を、
彼自身が語ることはほとんどない。
写真や話でしか知らない出来事だからだ。
それでも、戦争に関わる取材に向き合うたび、
何も感じずにいられるほど、
彼は器用ではなかった。
――広島平和記念公園。
温暖化の影響のだろうか。
日差しがない。
それでも蒸し暑さだけが、まとわりつく。
遠目に、原爆ドームが見える。
鉄骨だけを残した半球の骨格。
剥き出しの、欠けた煉瓦壁。
今なお崩れ落ちず、
静かにそびえたつその姿は、
ただそこに在り続けている。
何も語らず、時間だけが、その周囲を流れていく。
式典特有の静けさが満ちている。
時折揺れる枝葉、
係員の足音、
遠くで調整されるマイクの微かなノイズ。
すべてが、過不足なく整えられている。
進行表。
警備動線。
座席配置。
どれも、非の打ちどころはない。
例年と変わらぬ空気。
そう思おうとすれば、そう思える。
だが、視線を巡らせたとき、
比嘉は違和感に気づいた。
例年なら埋まっているはずの席に、
わずかな空白がある。
欠席の理由は示されない。
だがその空間が、
式典の静けさをわずかに歪ませていた。
比嘉は、疑問を覚えながらも、
それ以上は追わなかった。
そして、その一列後ろへと、視線を落としたとき、
彼は、もう一つの存在に気づく。
被団協の人々だろう。
確か、ノーベル平和賞の授賞式で、
演説を行っていた人物も、その中にいたはずだ。
比嘉が視線を戻したとき、
式典は始まろうとしていた。
――広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「戦後82年を迎える今日、
私たちは、平和が自明の前提であった時代を
すでに過去のものとしつつあります。
国際社会においては、
軍事力の誇示、既成事実の積み重ね、
そして責任の所在を曖昧にする振る舞いが、
もはや抽象的な懸念ではなく、
具体的な現実として進行しています。
その現実から目を逸らすこと。
あるいは、静かに後退すること。
それが、あたかも賢明な選択であるかのように
語られる場面も増えてきました。
しかし、いかなる国であっても、
いかなる大義を掲げようとも、
力によって正しさを証明しようとすることは、
力による現状変更と本質的に変わりません。
もしもそれが、
国際秩序の土台を揺るがすのであれば、
私たちは、これからの国際秩序の在り方そのものを、
改めて見つめ直す必要があります。
我が国は、対立を望むものではありません。
しかし同時に、
最悪の事態を回避する努力を、
言葉だけに留めることはできません。
国民の命と暮らしを守ること。
それは政府に課された、最も重い責務です。
その責務から目を背けるとき、
私たちは平和を語る資格を失います。
私たちは、外交と対話を尽くします。
しかし同時に、
あらゆる選択肢を排除することなく、
冷静かつ現実的に備え続けなければなりません。
対話とは、迎合ではありません。
相互に責任を負い、
行動の結果から逃げないという
国際社会の原則を、
粘り強く問い続ける営みです。
歴史は、備えなき願望が、
いかに多くの尊い命を失わせてきたかを、
私たちに教えています。
その教訓を、再び忘れてはなりません。
我が国は、いかなる圧力の下にあっても、
国民の命と暮らしを守る責務から退きません。
そのために、
最悪の事態を回避する努力を尽くし、
同時に、
平穏な社会を支える基盤を守るため、
あらゆる選択肢を排除することなく、
冷静に、しかし断固として備え続けます。
引かない。
だが、争わない。
それが、
戦後82年を経た
この国が選び取る道です」
これまで鷹内首相は、
この局面に至ってなお、同じ言葉を繰り返していた。
日米安保条約の重要性。
新世界動脈の必要性。
アメリカの行動に呼応すること。
それが同盟国としての日本の役割であり、
ひいては日本の利益につながる――
首相は、その構図を幾度となく示してきた。
それらは、間違いではなかった。
少なくとも、過去の延長線上においては。
しかし、この式典での言葉は違っていた。
守るべきものを明確に示し、
抗う意志を強く打ち出していた。
だが——
その先に何があるのか。
日本が、どの地点に立とうとしているのか。
どこにも描かれていなかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
戦没者遺族の方々だろうか。
スマートフォンを掲げる人々がいた。
木陰に腰を下ろし、画面越しに首相の姿を見つめている。
遠くで行き交う車のエンジン音。
照り返しに震える蝉の声。
時折混じる話し声。
静寂というよりも、夏の街の音だった。
だが、その視線は、
祈りと同時に、どこか現実を測っているようでもあった。
帽子を取る者。
立ち止まる者。
それでも街は、完全には止まらない。
警備強化の発令から、
時間は確かに経っていた。
過剰な緊張は、表面上は収まりつつある。
市場の反応は早い。
そして、対応もまた早い。
船は止まっても、
金融の流れは止まらない。
迂回ルートはすでに再構成され、
マラッカ海峡を経て、
南シナ海を避ける航路が、
選択肢として現実に組み込まれ始めていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
※ 本作は近未来を舞台にしたフィクションです。
現実の政治・社会と重なる部分があるかもしれませんが、
登場する団体・人物・名称はすべて創作であり、
特定の組織や個人を批判する意図はありません。
本作は『国家再編計画書』の理念と制度設計を参照し、
国家構造の再構成をめぐる可能性を探る仮想的シナリオとして
構成されています。
※ 作中の政党名はリアリズムを高めるため、以下のように置き換えています。
自由党・公免党・民立党・民国党・参節党・一心の会・れいの真誠組・共同党・
社守党・日本維持党・チーム将来・中革連 など
(ストーリーの進行に応じて変動・追加される場合があります)
※ 本作は物語を補完しながら進めているため、すでに投稿済みのお話にも、
必要に応じて加筆や修正を行うことがあります。
ストーリーに関わる大きな変更を加える場合には、まえがきでその旨を
お知らせしますが、ここで主にお伝えしたいのは、文章の細かな表現や
ニュアンスに違和感を覚えたときに行う、ちいさな手直しについてです。
※ なお、本作の文章推敲や表現整理の一部にはAI(ChatGPT)の
サポートを利用しています。
アイデアや物語の内容はすべて作者自身のものであり、
AIは読みやすさの調整や資料整理の補助のみを行っています。




