第8話
火床にくべられた炭の熱が、じわじわと広間に広がっていた。
カレドは、火箸で灰を寄せながら、時折麦の方をちらりと見た。
その仕草には威圧感こそなかったが、まるで「家の中で動く火の流れを、絶えず監視しているような」静かな力があった。
「お父さん、麦は変な人じゃないよ」
フィリエルの声が、やや強く響いた。
「見ればわかる」
カレドは火箸を炉の縁に立てかけ、ため息のような呼吸を吐いた。
「……だからといって、軽々しく家に連れてくるのは感心せん」
怒鳴るでもなく、あしらうでもなく、ただじっと遠くを見据えたような力強い声色が、部屋の中にピンと立ち上がった。
緊張が走る。
その空気の“重さ”は麦も感じ取っていた。
自分が警戒されていること。
そのことに対する視線の鋭さが、肌を刺すように徐々に膨らんでいた。
優しく接してくれたフィリエルとは対照的に、彼女の父親にはれっきとした距離感があった。
それもそのはずだ。
会って間もない人の家に上がり込んでいるんだ。
逆の立場だったらきっと警戒するだろうし、せめて名前くらいは聞く。
ましてや自分はフィリエルとは違う“人種”。
そういう「言い方」をすること自体非日常的だが、彼の言い分や気持ちがわかる気がしていた。
「…軽々しくじゃないよ。ちょっと立ち寄ってもらっただけ」
「知り合ったばかりなんだろう?」
「そうだけど…」
フィリエルは言葉が詰まったように口を噤む。
彼女なりに思うことがあったのだろう。
ただ、父親を説得するだけの言い分は持ち合わせていなかった。
「たとえその子が悪い「人」ではなかったとしても、家族を危険に晒すような真似はするな」
「でも、じゃあ誰が助けるの? 道に迷って、知り合いもいなくて、困ってるのに……!」
麦は2人のやりとりをじっと聞きながら、少し肩をすくめた。
朝の光が障子越しに差し込んでいたが、その温もりの裏で、家全体がどこか緊張しているようだった。
「フィリエル」
カレドの声は静かだったが、芯があった。
「おまえが“誰かを助けたい”と思う気持ちは否定しない。
だが――この村がどういう状況か、おまえも分かってるはずだ」
言葉の端に、疲労がにじむ。
「食糧は底を突きかけている。塩の備蓄も、道具も、全部が限界だ。
そんな中で、“正体の分からん者”を家に通せば、どんな波紋が広がるか……わかるな?」
フィリエルは唇を噛んだまま、下を向いた。
その横で、麦は静かに立ち上がった。
「すみません、俺のせいで……」
カレドは麦を見やった。
「……いや、おまえが悪いとは言っていない。ただ――どういう立場の人間なのか、何をしにこの村に来たのか、それを知りたいだけだ」
麦は一瞬迷ったが、深く息を吸って言った。
「……あの、変な話に聞こえるかもしれないですけど、俺、本当に……どこから来たのか、説明が難しくて。
山を越えたとか、谷を抜けたとかじゃなくて――“気づいたら、来てた”っていうか」
カレドの眉がわずかに動く。
「つまり、記憶が曖昧だということか?」
「違います。記憶はちゃんとあるんです。でも、俺がいた場所は――たぶん…」
麦は言葉に詰まった。
その先の言葉を、うまく見つけられずにいたからだ。
それを察したフィリエルは、父の顔を覗き込むように言葉を添えた。
「お父さん。変に聞こえるかもしれないけど、信じてあげて?麦はおかしなことを言ってるつもりじゃないんだよ。
“空間の裂け目”みたいなものを通って、ここに来たって……そう話してくれて」
カレドは顎に手を当て、しばらく考え込むような仕草を見せた。
そして、低く呟く。
「裂け目……か」
沈黙が落ちた。
麦は、それがどんな意味なのかを読みきれずにいたが、ふと思いついたように、ポケットから“あの鍵”を取り出した。
「……これ、俺がこっちに来る前に、家の部屋で見つけたものです。
この鍵で裏庭の物置小屋を開けたら……こっちに来てたんです」
鍵は、陽光の中で鈍く光った。
カレドの視線が、ぐっと鋭くなる。
「見せてくれ」
麦は素直に鍵を渡した。
カレドはそれを手に取ると、親指で表面をなぞりながら、まるで何かを探るようにじっと見つめた。
「……この形状……」
その顔に浮かんだのは、驚きと困惑、そして――警戒ではなく、“記憶”だった。
やがて彼は、ゆっくりと麦に鍵を返した。
「その鍵……昔、似たものを見たことがある。……この村ではなく、戦の焼け跡でな」
「……え?」
「私がまだ若かった頃だ。龍人族と亜人族の前哨戦の頃、北方の廃墟で一度だけ……“黒い裂け目”のようなものと、そこに置かれていた金属片を見たことがある。
それと、形が似ている」
麦は無意識にその鍵を強く握った。
(それって……どういう…)
「お父さん……ちょっと考えてたんだけど、長老様なら何か知ってるかも」
フィリエルがぽつりと呟いた。
カレドはゆっくりと頷いた。
「そうだな。あの方なら、“古い扉”や“狭間”の話に何か心当たりがあるかもしれない。
だが、生憎今日は会えないとは思うが…」
「明日は?」
「…そうだな、明日ならきっと会えるだろう。明日の朝、村の北にある『言葉の庵』に行くといい。
長老は、朝日が差す時刻に祈りを捧げているはずだ」
「…言葉の庵」
「村の神様が祀られているところだ。長老の家はその近くにあってな。ここからだと少し歩くが、そう遠くはない」
麦はしっかりと頷いた。
そして、心の中でそっと思った。
(…とにかく、行ってみるしかないか)
炭がパチパチと音を立ててはぜる音だけが、部屋を満たしていた。
フィリエルは、父カレドの前で火を焚べる手伝いをしながら、静かな時間を過ごしていた。
カレドは基本無口だったが、一つ一つの行動には芯があって、隙がなかった。
整然としたその佇まいは、彼がこの家の主人なのだということを伝えるように確かな“重み”を運んでいた。
フィリエルの目はまっすぐだった。
まっすぐで、迷いがなかった。
彼女もこの家の一員として、確かな面持ちの中で暮らしていた。
自分のするべきことや、朝の仕事。
それがわかっていないと、こんなふうにテキパキとは動けない。
フィリエルは作業を粛々とこなしながら、チラッと呟くように父親に尋ねた。
「……麦が帰り道を見つけるまで、この家にいさせてあげて?」
カレドは組んだ腕を崩さず、ただ視線だけで彼女を見据えていた。
長い沈黙が落ちる。
炉の炎がゆらりと揺れ、煙が天井の丸窓へと登っていく。
麦は傍らで固唾を飲み、視線を床へと落としていた。
「……構わないが、あまり軽々しく誰かを“家族の内”に迎えるものではない」
低く、重たい声だった。
「それがどれだけ、他の者に波紋を呼ぶか。フィリエル、おまえもわかっているな?」
フィリエルはうなずいた。
「わかってる。…わかってるけど」
「もし、この家に何かあったらどうするつもりだ?」
「…何か、あったら?」
「世の中の人は、誰も彼もが“いい人”ばかりではない。我ら一族でもそうだ。あの子が悪いと言っているわけではない。そういうわけではないが、例え彼が本当に困っている少年だとしても、お前は少し他人に優しすぎるところがある。言いたいことはわかるな?」
「うん」
「わかっているなら尚更だ。手を差し伸べるのは簡単だが、差し伸べた後の行動や結果には、それ相応の責任が伴わなければならない」
「…言いたいことはわかるけど」
「けど?」
「…だからって、困ってる人を見て見ぬ振りはできないよ」
その言葉を聞き、カレドはしばらく黙っていた。
が――その目が、ふと少しだけ緩んだ。
「……母親にそっくりだな。その言い方は」
フィリエルが一瞬驚いた顔をした。
「お母さんに……?」
「ああ。強情で、でも誠実で……人を引き受けることに、躊躇がなかった」
カレドは腕を解いた。
「滞在を許す。ただし、条件がある」
麦が顔を上げた。
「この家の者として扱う以上、最低限の節は通してもらう。
村の者たちは“ヒト”に敵意を持っていないが、知らぬ顔を見れば戸惑いもする。
まずはこの周辺の住人に、挨拶だけはちゃんとしておきなさい。いいね?」
「……ありがとう、お父さん」
フィリエルはカレドの顔を見て、少しだけ微笑んだように表情が柔らかくなった。
麦は反射的に立ち上がった後、彼女に続くようにお礼を言った。
カレドはそれを見て、軽く頷いた。