第7話
麦は、フィリエルの後ろを歩きながら、村の奥へと足を踏み入れていた。
初めて来た時はその全貌が霧に包まれていたように思えたが、朝の光の下で改めて見渡してみると、村は生活の音と色に満ちていた。
「結構賑やかだな……」
麦が思わず呟く。
通りの両脇には、小さな洗濯場や干し台が並び、網や縄が風に揺れている。
縁側で網を繕う老婦人、焚き火の上で干物を炙る青年、井戸から水をくみ上げる少女――
そのどれもが、一枚の絵画のように自然だった。
壁には風よけの貝殻や布が下げられ、屋根には丸太と海藻を組み合わせた独特の“緩やかな勾配”が見て取れる。
麦は一歩ごとに、自分の知っている“家”とはまるで違う構造に息をのんだ。
「ここが、私の家だよ」
フィリエルが立ち止まった。
それは、漆喰と木を組み合わせた質素な家だった。
外壁には黒褐色の海草の編み紐が何本も吊るされ、軒先には魚の骨で作られた風鈴が鳴っている。
入口の脇には、貝で作られた紋様の彫刻板が立てかけられていた。
中心には、人魚の尾のような模様と、太陽のような円環が描かれている。
「……なんだこれ、家紋?」
「うん。“潮の家系”って意味。昔漁師だった家は、こういう印を持ってたの」
麦がまじまじとその紋様を眺めていると、背後から声がかかった。
「フィリエル、おはよう。今朝の粥はどうだった?」
声の主は、向かいの家の縁側に座っていた中年の女性だった。
亜人族らしく、耳は小さな羽のように広がっており、肌はほんのりと赤みを帯びている。
「おいしく炊けてたよ。ありがとう、セナおばさん」
「……ん? その後ろの子は……?」
女性の視線が、麦へと向かう。
麦は一歩後ずさりしそうになったが、フィリエルが微笑んで一歩前に出た。
「知り合いなの。……ちょっと、道に迷ってたから、しばらく私の家に泊まってもらうの」
セナと呼ばれた女性は、目を細めて麦をじっと見た。
「へぇ……ヒトの子かい。珍しいね」
「……あ、どうも……」
麦はぎこちなく頭を下げた。
「ここに来るのは初めてかい?」
「…はい」
「そうかい。…まあ、何もない村だけど、ゆっくりしていきなさいね」
そう言って、セナはまた針仕事に戻った。
(なんか……思ったより、普通だったな)
少しホッとしながら、麦は再びフィリエルの後を追う。
家の中に足を踏み入れた瞬間、麦の鼻孔を刺激したのは、塩と干し藻、そして木の香りだった。
「靴、脱いでね」
「え、あ……うん」
土間のような空間を抜けると、広がっていたのは三間続きの部屋だった。
中央には炉があり、まるで囲炉裏のように囲まれて座布団が敷かれている。
炉の上には吊り鍋がかけられており、その下には魚の骨炭が敷かれていた。
壁には乾燥させた藻や貝殻の飾り、竹のような植物で編まれた編み籠がいくつも吊るされている。
床は粗い木板で、温もりのある不揃いさが残っていた。
麦は思わず言葉を失った。
「……なんか、民俗博物館に来たみたいだ……」
「ミンゾクハクブツカン?」
「あ、いや……こっちの話」
フィリエルは笑いながら奥へと進んだ。
「お父さん、帰ってきてるかな。お母さんは、朝市で手伝ってるかも」
(朝市? まだ、何か売ってるものがあるのか……?)
そんな考えが浮かぶが、すぐに打ち消す。
今は、とにかくこの家に“挨拶”することが大事だ。
麦は息を整えながら、家の中に響く静かな足音を聞いていた。
「ここで、ちょっと待っててね」
フィリエルの案内で通されたのは、家の中央にある広間――いわば“リビング”のような空間だった。
麦は畳のような編み込み床に座ると、背中をそっと伸ばし、深く息をついた。
ここに来てからずっと気を張っていたせいか、背骨のひとつひとつが重たくなっているのを感じる。
壁の隙間から差し込む朝の日差しが、炉の端に置かれた壺の表面を淡く照らしていた。
「お茶……みたいなものだけど、どうぞ」
そう言って差し出されたのは、浅くて縁が広がった陶器のカップ。
中には、淡い緑褐色の液体が揺れていた。
「……ありがとう」
麦はそっと口をつけた。
少し酸味と渋みがあり、後からかすかに甘みが追いかけてくる。
不思議な味だが、悪くない。
「これ、“ホルサの葉”を干して蒸したやつ。胃に優しいんだよ」
「ホルサ……?」
「森の端に自生してる。乾燥させると、お茶になるの。冬でも飲めるから重宝されてるよ」
麦は湯気のたちのぼるカップを両手で包みながら、視線を窓の方へと向けた。
窓辺には木の格子があり、外の景色が優しく切り取られている。
遥か遠くには、海が見えた。
白い砂浜と、波打ち際に立つ干し網。
海鳥の声が、時折風に乗って部屋の中まで届く。
――平和だった。
ほんの数日前まで、自分はアスファルトの町にいた。
家の裏庭から突然“ここ”に来た。
それでも今、こうして茶をすすり、海の見える部屋で座っている。
「ねえ、さっき“朝市”って言ってたけど、市場か何か?」
麦がふと口にした問いに、フィリエルは頷いた。
「正確には“市”ってほどじゃないかな。村の人たちが、余ったものや拾ったもの、作ったものを持ち寄って、交換する場所みたいな感じ」
「交換?」
「うん。お金っていうか、“刻札”もあるけど、最近は“物々交換”のほうが多いよ。
木の実、貝、修理道具、薬草、古布、火種……なんでもね」
「なるほど……」
麦はその景色を想像しながら、手元のカップを回した。
この世界の“経済”が、音もなく、でも確かに機能していることを初めて意識した。
そのときだった。
「ただいま」
玄関のほうから、低く、落ち着いた男の声がした。
麦は反射的に背筋を正した。
フィリエルが立ち上がり、玄関へ駆け寄る。
「お父さん、おかえり。ちょうど今ね、麦っていう子が……」
声が聞こえた直後、ゆっくりとした足音が部屋に近づいてくる。
そして、現れたのは一人の亜人族の男性だった。
顔は鋭いが、どこか優しさを含んだ輪郭。
髪は灰色がかった青で、肩まで自然に流れている。
耳は背後に向かって伸び、表面にうっすらとした鱗のような模様があった。
背は高く、陽に焼けた肌と、手や首筋に残る古い傷跡が、“海で生きてきた男”の証を語っていた。
腰には短い鉈のような刃物、肩には網と帆布の束を背負っていた。
「……ヒトの子か」
男は、麦を一瞥すると、目を細めた。
その視線には、警戒と、ほんのわずかな敵意が混じっていた。
「この周辺にヒトの集落はないはずだが。どこから来た?」
麦は立ち上がり、しっかりと頭を下げた。
「はじめまして。大空 麦といいます。……実は、ちょっと、道に迷ってしまって……」
その言葉を聞いた瞬間、男の表情がわずかに変わった。
“慇懃で、逃げない”。
そう理解したのか、警戒の色が薄れていく。
「おまえが昨日、フィリエルと一緒に裏手を歩いていた子か」
「……あ、はい」
「この村に異質な姿があれば、誰かの目に入る。とくに“ヒト”はな。……だが、おまえの話し方を見る限り、敵意はなさそうだ」
男は荷を下ろすと、火床の横に腰を下ろした。
やがて、ふっと息を吐いた。
「俺はカレド。フィリエルの父親だ」
「……よろしくお願いします」
麦は、頭を下げたままもう一度名乗る。
カレドはしばらく無言で見つめた後、少しだけ口元を緩めた。
「……少なくとも礼儀はあるな。なら、話くらいは聞こう。どこから来て、なぜここにいるのか」




