表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/10

第7話



麦は、フィリエルの後ろを歩きながら、村の奥へと足を踏み入れていた。


初めて来た時はその全貌が霧に包まれていたように思えたが、朝の光の下で改めて見渡してみると、村は生活の音と色に満ちていた。


「結構賑やかだな……」


麦が思わず呟く。


通りの両脇には、小さな洗濯場や干し台が並び、網や縄が風に揺れている。

縁側で網を繕う老婦人、焚き火の上で干物を炙る青年、井戸から水をくみ上げる少女――

そのどれもが、一枚の絵画のように自然だった。


壁には風よけの貝殻や布が下げられ、屋根には丸太と海藻を組み合わせた独特の“緩やかな勾配”が見て取れる。

麦は一歩ごとに、自分の知っている“家”とはまるで違う構造に息をのんだ。


「ここが、私の家だよ」


フィリエルが立ち止まった。


それは、漆喰と木を組み合わせた質素な家だった。

外壁には黒褐色の海草の編み紐が何本も吊るされ、軒先には魚の骨で作られた風鈴が鳴っている。


入口の脇には、貝で作られた紋様の彫刻板が立てかけられていた。

中心には、人魚の尾のような模様と、太陽のような円環が描かれている。


「……なんだこれ、家紋?」


「うん。“潮の家系”って意味。昔漁師だった家は、こういう印を持ってたの」


麦がまじまじとその紋様を眺めていると、背後から声がかかった。


「フィリエル、おはよう。今朝の粥はどうだった?」


声の主は、向かいの家の縁側に座っていた中年の女性だった。

亜人族らしく、耳は小さな羽のように広がっており、肌はほんのりと赤みを帯びている。


「おいしく炊けてたよ。ありがとう、セナおばさん」


「……ん? その後ろの子は……?」


女性の視線が、麦へと向かう。


麦は一歩後ずさりしそうになったが、フィリエルが微笑んで一歩前に出た。


「知り合いなの。……ちょっと、道に迷ってたから、しばらく私の家に泊まってもらうの」


セナと呼ばれた女性は、目を細めて麦をじっと見た。


「へぇ……ヒトの子かい。珍しいね」


「……あ、どうも……」


麦はぎこちなく頭を下げた。


「ここに来るのは初めてかい?」


「…はい」


「そうかい。…まあ、何もない村だけど、ゆっくりしていきなさいね」


そう言って、セナはまた針仕事に戻った。


(なんか……思ったより、普通だったな)


少しホッとしながら、麦は再びフィリエルの後を追う。



家の中に足を踏み入れた瞬間、麦の鼻孔を刺激したのは、塩と干し藻、そして木の香りだった。


「靴、脱いでね」


「え、あ……うん」


土間のような空間を抜けると、広がっていたのは三間続きの部屋だった。


中央には炉があり、まるで囲炉裏のように囲まれて座布団が敷かれている。

炉の上には吊り鍋がかけられており、その下には魚の骨炭が敷かれていた。


壁には乾燥させた藻や貝殻の飾り、竹のような植物で編まれた編み籠がいくつも吊るされている。

床は粗い木板で、温もりのある不揃いさが残っていた。


麦は思わず言葉を失った。


「……なんか、民俗博物館に来たみたいだ……」


「ミンゾクハクブツカン?」


「あ、いや……こっちの話」


フィリエルは笑いながら奥へと進んだ。


「お父さん、帰ってきてるかな。お母さんは、朝市で手伝ってるかも」


(朝市? まだ、何か売ってるものがあるのか……?)


そんな考えが浮かぶが、すぐに打ち消す。


今は、とにかくこの家に“挨拶”することが大事だ。


麦は息を整えながら、家の中に響く静かな足音を聞いていた。



「ここで、ちょっと待っててね」


フィリエルの案内で通されたのは、家の中央にある広間――いわば“リビング”のような空間だった。


麦は畳のような編み込み床に座ると、背中をそっと伸ばし、深く息をついた。

ここに来てからずっと気を張っていたせいか、背骨のひとつひとつが重たくなっているのを感じる。


壁の隙間から差し込む朝の日差しが、炉の端に置かれた壺の表面を淡く照らしていた。


「お茶……みたいなものだけど、どうぞ」


そう言って差し出されたのは、浅くて縁が広がった陶器のカップ。

中には、淡い緑褐色の液体が揺れていた。


「……ありがとう」


麦はそっと口をつけた。


少し酸味と渋みがあり、後からかすかに甘みが追いかけてくる。

不思議な味だが、悪くない。


「これ、“ホルサの葉”を干して蒸したやつ。胃に優しいんだよ」


「ホルサ……?」


「森の端に自生してる。乾燥させると、お茶になるの。冬でも飲めるから重宝されてるよ」


麦は湯気のたちのぼるカップを両手で包みながら、視線を窓の方へと向けた。


窓辺には木の格子があり、外の景色が優しく切り取られている。

遥か遠くには、海が見えた。


白い砂浜と、波打ち際に立つ干し網。

海鳥の声が、時折風に乗って部屋の中まで届く。


――平和だった。


ほんの数日前まで、自分はアスファルトの町にいた。

家の裏庭から突然“ここ”に来た。


それでも今、こうして茶をすすり、海の見える部屋で座っている。


「ねえ、さっき“朝市”って言ってたけど、市場か何か?」


麦がふと口にした問いに、フィリエルは頷いた。


「正確には“市”ってほどじゃないかな。村の人たちが、余ったものや拾ったもの、作ったものを持ち寄って、交換する場所みたいな感じ」


「交換?」


「うん。お金っていうか、“刻札”もあるけど、最近は“物々交換”のほうが多いよ。

木の実、貝、修理道具、薬草、古布、火種……なんでもね」


「なるほど……」


麦はその景色を想像しながら、手元のカップを回した。

この世界の“経済”が、音もなく、でも確かに機能していることを初めて意識した。


そのときだった。


「ただいま」


玄関のほうから、低く、落ち着いた男の声がした。


麦は反射的に背筋を正した。


フィリエルが立ち上がり、玄関へ駆け寄る。


「お父さん、おかえり。ちょうど今ね、麦っていう子が……」


声が聞こえた直後、ゆっくりとした足音が部屋に近づいてくる。


そして、現れたのは一人の亜人族の男性だった。


顔は鋭いが、どこか優しさを含んだ輪郭。

髪は灰色がかった青で、肩まで自然に流れている。

耳は背後に向かって伸び、表面にうっすらとした鱗のような模様があった。


背は高く、陽に焼けた肌と、手や首筋に残る古い傷跡が、“海で生きてきた男”の証を語っていた。

腰には短い鉈のような刃物、肩には網と帆布の束を背負っていた。


「……ヒトの子か」


男は、麦を一瞥すると、目を細めた。


その視線には、警戒と、ほんのわずかな敵意が混じっていた。


「この周辺にヒトの集落はないはずだが。どこから来た?」


麦は立ち上がり、しっかりと頭を下げた。


「はじめまして。大空 麦といいます。……実は、ちょっと、道に迷ってしまって……」


その言葉を聞いた瞬間、男の表情がわずかに変わった。


“慇懃で、逃げない”。


そう理解したのか、警戒の色が薄れていく。


「おまえが昨日、フィリエルと一緒に裏手を歩いていた子か」


「……あ、はい」


「この村に異質な姿があれば、誰かの目に入る。とくに“ヒト”はな。……だが、おまえの話し方を見る限り、敵意はなさそうだ」


男は荷を下ろすと、火床の横に腰を下ろした。

やがて、ふっと息を吐いた。


「俺はカレド。フィリエルの父親だ」


「……よろしくお願いします」


麦は、頭を下げたままもう一度名乗る。


カレドはしばらく無言で見つめた後、少しだけ口元を緩めた。


「……少なくとも礼儀はあるな。なら、話くらいは聞こう。どこから来て、なぜここにいるのか」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ