第5話
硬い床と藁の感触に、背中がきしむようだった。
ごつごつとした板の上に薄く敷かれただけの藁の寝台で、麦は寝返りを打つたびに身体中の節々が音を立てるような気がしていた。
夢と現実の境界が曖昧な夜が過ぎ、ようやく“朝”が来た。
麦はゆっくりと目を開け、木の天井をぼんやりと見つめる。
一枚板の隙間から差し込む光が、時間の経過を知らせていた。
「……うわ、首いてぇ……」
ぼそっと呟いた声が、静かな小屋の中に反響する。
枕も毛布もない。
風がどこからか入り、朝露の湿気が肌にまとわりつく。
ごしごしと目をこすりながら、麦は身体を起こす。
手足を伸ばすと、思わず肩がバキッと鳴った。
「……マジで、夢じゃないのかよ」
そう呟きながら、小屋の小さな窓へと歩み寄る。
木の格子越しに外の様子をそっと覗いた。
朝の光は、昨日までと違って優しく村を包んでいた。
遠くで聞こえる笑い声。
誰かが鍋をかき混ぜる音。
木桶を運ぶ足音。
薪を割る乾いた音が、リズムを刻む。
まるで、知らないリズムで動く“別の世界の朝”だった。
細く延びた小道を、布をかぶった女の子たちが通りすぎる。
見上げた空は、雲ひとつない青だった。
その光景に、麦はふと自分の手を見つめ、ギュッと握った。
もう一度、ほっぺたをつねる。――痛い。
「……ほんとに、現実なんだな」
ポケットに手を入れ、鍵を取り出す。
それは、どこか禍々しさと神聖さが混ざったような、無骨で古びた金属だった。
磨かれているわけでもないのに、光を受けてわずかに輝いて見える。
これが――“あの扉”を開けた鍵。
その重みが、実際の重さ以上にずっしりと麦の手のひらに乗っかっていた。
(帰れるのか? そもそも、あれは一体何だったんだ?)
そんな考えが頭の中を駆け巡る。
──そのとき。
「おはよう、むぎ」
優しい声が扉の向こうから響いた。
ゆっくりと扉が開き、朝の光と一緒に、フィリエルが現れた。
「昨日は……ちゃんと眠れた?」
彼女の声は柔らかく、どこか風の音に似ていた。
麦は、思わず目を見張った。
昨日の夕暮れの中で見たときとは、まるで違っていた。
フィリエルの髪は、月の光をそのまま染めたような銀灰色で、朝の光を浴びるとそれが淡く透けて見えた。
細く揺れる髪の間からは、尖った耳がのぞいている。
肌は陶器のように滑らかで、どこか青みを帯びた清廉な色をしている。
目元は涼しげで、光を受けたときだけ深い藍に変わるような印象があった。
麦は思わず見とれてしまい、すぐに目を逸らした。
「……ああ、いや、まあ、なんとか……。ちょっと、体バキバキだけど」
「だよね。ここ、ふかふかじゃないから」
フィリエルは、口元をふわりと笑わせた。
その笑顔に、麦の胸のあたりが少しだけあたたかくなった。
「……あ、昨日の水、美味しかった。ありがとう。あと、団子? みたいなのも」
「よかった……。お腹空いてると思って」
彼女は籠を片手に持っていて、そこから何やら布に包まれたものを取り出す。
「朝ごはん、少しだけど……これ、芋の粥。冷めてるけど、食べて?」
麦は受け取った包みを開き、湯気の立たない粥を見下ろした。
見慣れない葉の実が浮かび、少しだけ塩気のある匂いが鼻をくすぐった。
「ありがとう、ほんとに……」
麦は座り込み、スプーン代わりの木のへらで粥をすくった。
口に含むと、芋の甘みと木の実の渋さが、不思議と相性が良かった。
朝の空気と彼女の声と、体にしみ込むような粥の味が、すべて“今ここにいる”という実感を強めてくる。
「……ねえ、むぎ。あとで、うちに来ない?」
「え?」
「お父さんと、お母さんに紹介したいなって思って」
彼女は、朝の日差しの中で、麦をまっすぐに見つめていた。
「じゃあ、いこうか。……村の中、案内するよ」
朝の光に包まれて、フィリエルが軽く手を差し出す。
麦は少し戸惑いながらも頷き、立ち上がった。
小屋の扉を開けると、光と音と匂いが一気に押し寄せた。
朝露に濡れた地面の匂い、焼き粥の香り、濡れた木の香り――
見たことのない世界が、目の前に広がっていた。
村は、まるで迷路のように入り組んでいた。
木造の平屋、石を積んだ屋根、獣の骨や貝殻で飾られた軒先、どこからともなく聞こえるハンマーの音。
空を遮るものはなく、どこまでも広がる蒼天の下、大小さまざまな家々がひしめき合うように建っていた。
「……おお……」
思わず声が漏れた。
だが、それ以上に麦の目を奪ったのは、村に住まう“人々”だった。
魚の鱗のような光沢を持つ肌をした男。
猫のような長い耳を持つ少女。
頭に枝のような角を生やした老婆。
細長い尻尾が揺れる背の高い青年。
羽のような耳飾りを持つ老婆と、耳がまるで渦を巻くようにねじれた少年。
「……まじで、いろんな種族がいるんだな……」
初めて村に来たときは混乱と驚きで気づけなかった。
だが、こうしてゆっくり歩いてみると、この村には亜人族が数多く、かつ混在して暮らしていることがはっきりとわかる。
フィリエルが言った。
「この村には200人か、もう少し多いくらいの人がいるよ」
「そんなに……」
「うん。もともとは漁と農耕で生きてきた村だから。今は苦しいけど……それでも、まだ皆で生きてる」
その間も、村の人々が二人の通り過ぎる様子をちらちらと見ていた。
とくに麦の服装や髪型に対して、何かを囁くような気配もあった。
麦は思わずフィリエルの袖を引いた。
「……なあ、こんな堂々と歩いてて、大丈夫なのか? なんか……めっちゃ見られてるんだけど」
フィリエルは、やわらかく笑った。
「平気だよ。少しだけ珍しいだけ。
“ヒト”がこの村にいるのは、あまり見ないから……でも、それだけ」
「敵対とか、そういうのは?」
「ないよ。
都市や町では、ヒトと亜人が一緒に住んでる場所も多いし、商人も旅人もいる。
私も都市で暮らしてたから、ヒトのことは全然怖くないし、仲良しの友達もいたから」
「……ラウ、か」
「うん」
麦の心に、少しだけ安心が広がった。
「ただね」
フィリエルは少しだけ声をひそめた。
「昨日も言ったけど、この村にはヒトは住んでないの。だから……むぎのこと、“私の知り合い”ってことにしておいた方が、やっぱりいいかも」
「……ああ。なるほど」
麦は頷いた。
そういう配慮が必要なのだと、あらためて理解する。
視線は多いが、敵意はなかった。
それが、麦にとっては何よりの救いだった。
フィリエルと並んで歩いていると、時折、年配の女性が手を止めて頭を下げてくれたり、子どもが遠くから興味津々に見つめていたりする。
警戒はあっても、拒絶はされていない。
麦の心が、少しずつこの土地の空気に馴染んでいくのを感じていた。
「ねえ、こっちが市場跡だよ。今は使ってないけど、昔はすごく賑わってたんだって」
フィリエルが指さした先には、石畳の広場と壊れかけた屋台の骨組みが残っていた。
ここもまた、かつての日常の残響なのだろう。
麦はふと、もう一度空を見上げた。
そこには、何も変わらず――太陽があった。