第4話
夜は、静かに深まっていた。
小屋の外では草むらの虫が細く、かすかに鳴いている。
フィリエルの持ってきた小さなランプが、揺らぐ光を木の壁に映し出し、麦の影と彼女の影が重なったり離れたりを繰り返していた。
ふと、麦は口を開いた。
「さっき……“ラウ”って、言ってたよね」
フィリエルは、瞬き一つぶんの間、時が止まったように見えた。
それから、あのときと同じ、どこか遠くを見つめるような目になった。
「うん……言ったね」
「その子のこと……聞いても、いい?」
フィリエルは少しだけ間を置いてから、頷いた。
「ラウは……昔、都市で一緒に暮らしてた子。ヒトだった」
そう言った彼女の声は、どこかにやわらかさと、ほんの少しの寂しさを含んでいた。
「私が小さい頃、父の仕事の都合で、海沿いの都市──アシェン・ルオに住んでたの。そこには、いろんな種族がいた。
龍人族も、亜人族も、ヒトも……ごちゃごちゃだったけど、でも、あの頃はそれが“普通”だった」
「……龍人族と、…亜人族?」
「うん。戦争が今みたいに強くなる前は、もっと“混ざれる”世界だった。
ラウとは、よく市場の石段で遊んだり、一緒に草笛を吹いたりしてた。
彼の笑い方は、空の音みたいに透き通ってた。よく転んで、よく走って、よく泣いて、でもすぐに笑った」
麦は、黙って彼女の言葉に耳を傾けていた。
虫の声が、少しだけ遠のいていく。
「私、耳が尖ってるでしょ? ヒトと接する時はいつも、ちょっとだけ避けられてた。亜人族はみんなそうだよ。肌の色も見た目も、ヒトとは少しだけ違う。
でもラウは、全然気にしなかった。“耳がかっこいい”って、言ってくれたの。……麦と、同じ」
その言葉に、麦の胸がほんのりと熱くなる。
「ラウは、よく絵を描いてた。紙じゃなくて、壁とか、木の板とか、どこでも描いた。
魚の絵、鳥の絵、月と太陽の顔……そして、ある日、私の耳の絵を描いてくれたの。
“世界で一番きれいな形だ”って、真面目な顔で言って。あれは……ずるいよね」
フィリエルの目が細くなり、肩が小さく震えた。
それは笑いだった。けれどその奥には、言葉にできない何かが滲んでいた。
「でも、都市の暮らしは、あんまり長く続かなかった。
戦争が……ひどくなってきて、“種”ごとに隔離されるようになって。
混ざることが“危険”って言われるようになって、ラウは別の区域に移されて……そのまま、会えなくなった」
風が、ふっとランプの火を揺らす。
「ラウの家は、北の国に引っ越すって言ってた。戦争を避けて、もっと静かな場所に行くって。
最後に見たとき、彼は窓から手を振ってた。……だけど、私はうまく笑えなかった。
あれが、最後だったんだと思う」
静かだった。
麦は、何も言えなかった。言葉が追いつかなかった。
「それからずっと……“ヒト”に会うことはなかった。
でもあの子のことは、いつも心の奥に残ってた。
だから、麦を見たとき……思い出したの。声も、雰囲気も……とても、似てたから」
フィリエルは小さな声で、確かに言った。
「……いつかまた会えたらなって、そう思ってたんだ」
その目に涙はなかった。
けれどその言葉には、たしかに“祈り”のような響きがあった。
麦はそっと拳を握ったまま、うつむいた。
彼女の話す言葉の端々は柔らかく、繊細だ。
自分が置かれている状況を整理しようとする傍ら、彼女の話す言葉の一つ一つを必死に追いかける。
“ヒト”という響き。
聞き慣れない言葉たち。
自分の日常にはないその内容を理解しようと努めていたが、うまく理解できないことばかりだった。
ただ、彼女の気持ちだけはなんとなくわかった気がしていた。
「ラウ」という人がどんな人なのかはわからない。
本当に自分に似ているのかもしれない。
どこか寂しそうな表情を見せる彼女を見て、申し訳なくなる自分がいた。
不意の感情だった。
目の前にいるのは初対面の相手だ。
名前の綴りだってまだよくわからない。
偶然ここに来て、訳もわからずこの小屋で夜を過ごしている。
それなのになんだろう…
自分でもよくわからなかった。
彼女の目を見て、ほんの少しだけ寂しくなってしまう自分が。
「……俺で、よかったのかな」
それは自問のような問いだった。
けれど、フィリエルは、まっすぐに言った。
「何が?」
「…いや、ほら、…似てるって言っても、全くの別人だし。変に期待させちゃったって言うか…」
その言葉にフィリエルは軽く首を振った。
勝手に勘違いしただけから。
そんな素振りを見せるかのように、気にしないでと視線を促す。
「昔のことだから」
そう言って、彼女はランプの芯を少しだけ調整した。
柔らかな光が、二人の間に小さな輪を描いていた。
静かだった。
ランプの光が小さく揺れていた。
外は相変わらずだった。
虫の声だけが、草むらから波打つように低く届いてくる。
天井の木の梁を見上げながら、麦はゆっくりと言葉を紡いだ。
「……ってかさっき、……“戦争”って言ってなかった?…それって、どういう…」
フィリエルは、少しだけ視線を揺らした。
「戦争……?」
「うん。龍人族とか、亜人族とか……そういう言葉も、よくわかんなくて」
麦は正直にそう言った。
テレビやゲーム、教科書では聞いたことがある。けれど、実際にその渦中にいる人間の声を、彼は一度も聞いたことがなかった。
「戦争なんて……俺の世界じゃテレビのニュースとか、授業の中だけの話なんだ。遠い国とか、昔の時代の出来事。
あり得ないっつーか、、…なんて言うか」
フィリエルは膝の上で両手を組んだまま、言葉を探すように小さく息を吸った。
「……本当に、知らないの?」
その声には驚きと、戸惑いが混ざっていた。
「うん。知らない。少なくとも俺の“日常”には、戦争なんてなかった」
フィリエルは数秒黙ってから、静かに語り出した。
「戦争は……ずっと前から続いてる。私が生まれるより、もっと前から。
最初は、東の龍人族と、西の亜人族の間だけだった。でも、だんだんと周りを巻き込むようになって……
人間も、混血種も、小さな村や都市も、全部、どちらかの支配下に置かれようとしてる」
麦の頭には、それがまるで現実味のない物語のように聞こえた。
けれどフィリエルの目は真っ直ぐで、それが“本当の出来事“であることを強く物語っていた。
「龍人族は、火や空の力を持つ種族。帝国的で、階級が厳しい。
亜人族は、私たちみたいに自然と共に生きる種族。森や水、風の声を大事にしてる」
「はっきり分かれてるんだ……」
「うん。でも、昔は、もっと混ざってた。ラウと私が一緒にいられたように。
でも今は、“混ざること”そのものが、“危険”って言われてる」
その言葉は、麦の胸に重く響いた。
「この村でも、少しずつ変わってきた。前は魚がたくさん獲れて、祭りもあって、交易もできたのに……
龍人族の軍艦が近くの海域を封鎖して、船を出すのも怖くなった。
塩も、保存食も、道具も、町から届かなくなって……
“戦争が始まるかもしれない”っていう空気が、だんだん村の中に染み込んでくるの。
誰も、口には出さないけど……わかるの。みんな、何かを恐れてるって」
麦は、返す言葉を見つけられなかった。
自分の生きていた場所では、ニュースで“紛争”や“緊張状態”といった言葉は見聞きしていた。
でも、それはどこか別の国で起きている“現実感の薄い出来事”だった。
ここでは違う。
フィリエルの言葉は、まるで“毎日食べるパンの硬さ”のように、生活に根ざしていた。
「……じゃあつまり、それが”日常”ってこと?」
「そうだね……少なくとも、ここでは。
“明日はどうなるかわからない”ってことが、普通になってる。
誰かが急に村からいなくなるとか、家が焼かれるとか、仲間が他の種族に連れて行かれるとか……そういうのが、“いつ起きてもおかしくないこと”になってる」
「……そう…なんだ…」
麦は、その言葉を心の中で何度も反芻した。
“いつ起きてもおかしくないこと”。
それが、彼女の生きてきた世界の日常だった。
「……ごめん、変なこと聞いて」
「……謝らなくていいよ。だって、むぎは“遠いところ”から来たんでしょ?」
「そうなんだけど……」
その言葉に、フィリエルは一瞬だけ目を伏せた。
けれど次の瞬間、そっと微笑んでこう言った。
「でも、むぎが“知らない”って言ったことで、少しだけ救われたかもしれない」
「え?」
「だって……“知らない世界”が、ちゃんとあるってことは、
まだ全部が戦争で染まってないってことだから。
そんな世界があるなら、まだ……この世界も変えられるかもしれないって、思えるから」
麦は、その言葉をしっかりと受け止めた。
それはまるで明かりを灯したように淡く、“希望”のような響きだった。
外では、虫の声が一段と強くなった。
夜が深くなっていた。
けれどその夜の静けさの中で、麦はようやくほんの少し、この世界に“触れた”気がしていた。