第3話
フィリエルの背中を追いながら、麦は丘を下っていった。
草原を抜けると、地形は緩やかな下り坂へと変わり、やがて砂と小石が混じる獣道のような細い通りに入る。
足元は不安定で、乾いた枝がパキパキと折れる音が、やけに大きく響く。
空はすでに紫から藍へと変わり始め、最初の星がちらりと瞬きはじめていた。
「……この道、さっきとは違うな。村の正面のほうじゃない」
そう思った麦は、前を歩くフィリエルに問いかけた。
「ねえ、なんでこっち? 正面から入らないの?」
フィリエルは少し振り返り、小さな声で言った。
「……村の裏口から行くの。夜だから、表はもう閉まってるし……それに、表から入ると、いろいろ面倒なことになるかもしれないから」
「面倒?」
麦が眉をひそめると、フィリエルは歩きながら、言葉を探すように間を置いてから続けた。
「……この村には、“ヒト”のこと、あまりよく思ってない人が多いの。……ごめんね」
その言葉に、麦の足がふと止まった。
「ヒト……って、人間のこと?」
「うん……」
フィリエルは素直にうなずいたが、少し寂しそうに見えた。
「どうして……?」
そう聞き返したかったが、麦は言葉を飲み込んだ。
いまこの世界の“事情”をろくに知らない自分が、問い詰めることでもない。
それに、フィリエルは自分に対して敵意がない。
それだけで、十分だった。
「そっか……。じゃあ、こっそり入ろう」
そう言って笑ってみせると、フィリエルの表情がほんの少しだけ和らいだ。
やがて、道は木々に囲まれた裏山の麓へと入り、村の背後の“影”のような場所に出た。
正面の道には灯籠がいくつも並んでいたが、ここは違う。
灯りは一つきり。木に吊るされたランタンが、かすかに揺れていた。
そこには、苔むした木製の柵と、低い石垣が組まれており、小さな門が見えた。
「ここが……裏口?」
麦が呟くと、フィリエルはコクリと頷いた。
「村の人でも、こっちはあまり使わない。たぶん、誰にも見られないと思う」
門は開いており、その奥には踏み固められた細い通路が続いていた。
通路の両脇には古い納屋や畑の倉庫が立ち並び、作物を干す網がかかっている。
風に揺れる布や縄が、夜の中で静かに軋んでいた。
──少しだけ、廃墟を思わせる雰囲気。
村の中心地の活気がどれだけあるかは知らないが、この裏手は“生活の終わりかけた端”のようだった。
「……こっち」
フィリエルはさらに進み、やがて、一つの小屋の前で立ち止まった。
小屋は木と土で作られた、背の低い建物だった。
屋根は葺き替えたばかりのようでまだ新しく、壁の一部には日干し煉瓦が使われている。
入口には布のれんが下がっており、中の様子は見えない。
「しばらく……ここで待ってて。すぐ戻るから」
フィリエルはそう言い残し、小屋の扉をそっと開けた。
麦が中を覗くと、そこには簡素な寝台と、木箱が一つ。
藁が敷き詰められた床からは、土と草の混じったような匂いが立ち上っていた。
「……秘密基地、みたいだな」
ぽつりと呟きながら、麦は鍵をポケットで握ったまま、そっと中へ足を踏み入れた。
扉の向こう、村の裏手では、風がまたゆっくりと吹き始めていた。
虫の声が戻り、遠くで夜鳥が一度だけ啼いた。
世界は確実に、自分が知っていたものとは違うリズムで動いていた。
麦は寝台の端に腰を下ろし、ぼんやりと窓の外を見つめた。
──彼女は、戻ってくるだろうか。
知らない場所。知らない人たち。
だけど、あの少女の目だけは、確かに自分を見てくれていた。
麦は息を吐き、背をもたれさせると、天井を見上げた。
木の梁に、月の光がうっすらと射し込んでいた。
小屋の中は、驚くほど静かだった。
壁も天井も、わずかにきしむ音さえしない。
虫の声が遠くで揺れているだけで、時間が止まったようだった。
麦は寝台の端に腰かけたまま、指を組み、膝に置いた手の平をじっと見つめていた。
──ここに来て、まだ半日も経っていない。
それなのに、現実感はとうに薄れていた。
物置の扉。あの空間。消えた出口。尖った耳の少女。
「……ほんとに、夢じゃないんだな」
小さく呟くが、自分の声ですら他人のように感じる。
ポケットの中の鍵を、指先で転がす。冷たい金属が手のひらに重さを残す。
「裏庭の小屋を開けたら、異世界に来てました、か……」
口にしてみても、なんの冗談にもならなかった。
現代の感覚と、目の前の現実が、まだ頭の中で接続されていない。
“ここ”は、まったく違う場所だった。
地名も知らない。空気の流れも違う。帰る術も、道もない。
麦はふと、寝台に背をもたれさせて、天井の梁を見上げた。
「……俺、どうしたらいいんだろ」
自分に問いかけるその声が、少し震えていた。
“ここにいていいのか”。
それが、思考の隙間からじわじわと湧き上がる。
フィリエルは優しくしてくれた。けれど──
この村の人々は、「ヒト」に対して距離を置いている…らしい。
“外の者”として、ここに存在し続ける資格なんて本当にあるのだろうか。
…っていうか、そもそもここにいること自体、不法侵入とかにならないか?
麦は今の自分の状況に対して、掴みどころのない不安に駆られながら考え込む。
──そのとき。
「……むぎ?」
扉が軋む音とともに、フィリエルの声が聞こえた。
麦が顔を上げると、ランプの灯りがふわりと室内に差し込む。
その手には、何かを抱えていた。
「遅くなって、ごめん。……これしか、用意できなかったけど」
フィリエルはそう言って、小さな木盆を麦の前にそっと置いた。
その上には、薄い青色の陶器のような容器と、布で包まれた小さな皿。
麦は、おそるおそる陶器の蓋を開けた。
中には、淡い銀色に輝く水が入っていた。
表面にはかすかな泡が浮かび、月光を吸い込むように光っている。
「これ……水?」
「うん。“星泉”っていうの。村の北の泉から汲んできてる水だよ。ちょっと……甘い味がするかも」
麦はそっと口をつけた。
──柔らかい。
喉を潤す水とは、まるで違った。
舌に触れた瞬間に、まろやかな冷たさとわずかな甘みが広がる。
一口、二口、ゆっくりと飲むうちに、胸の奥のこわばりがほんの少しほどけていくのがわかった。
「うまい……。なんか……優しい味がする」
そう言うと、フィリエルは少しだけ微笑んだ。
次に、彼女は布を解いて、食べ物の皿を差し出した。
そこには、小さな丸い団子のようなものが五つ並んでいた。
表面には薄く焼き色がついていて、香ばしい匂いがふんわりと立ち上がる。
「“パノル芋”っていう根菜をすりつぶして、石板で焼いたの。塩は、ちょっとだけあるから……」
麦は一つ、恐る恐る口に運んだ。
もちもちとした食感に、甘くないサツマイモのような風味。
味は素朴だったが、身体にすっと入ってくるような優しさがあった。
「……ありがとう。ほんとに……ありがとう」
フィリエルは少しだけ視線をそらしながら、小さく言った。
「ここなら……誰も来ないと思う。だから、今夜はここにいて」
麦は頷き、食べ物を見下ろしたまま、ぽつりと呟いた。
「ほんとに……いいのか?」
フィリエルは、灯りを少し傾けながら、静かに言った。
「むぎは、どこから来たの?」
麦はしばらく黙ってから、苦笑いを浮かべた。
「それが……どう説明したらいいか、わかんなくて。
日本って国で、田舎に住んでて………うーん、説明してもわかんないよな」
フィリエルは、麦の話を黙って聞いていた。
けれど表情はどこか穏やかで、焦らすことも遮ることもしなかった。
「……でも、多分だけど、きっとすごく遠いところから来たんだと思う。たぶん、別の世界から」
その言葉を受けて、フィリエルは小さく頷いた。
「別の世界…?」
ランプの明かりが、二人の影を壁に落とす。
窓の外では、星が静かにまたたいていた。
言葉は、まだ足りない。
でも、この夜の静けさの中では、それでも十分だった。