第2話
扉は、跡形もなく消えていた。
麦は、昼間に自分が立っていた場所をもう一度訪れていた。
「たしかに……このへん……だったはず……」
風に揺れる草の匂い。低くうねる虫の声。
さっき踏みしめたばかりの感触が、まるで幻だったかのように、すべてが静かに整っている。
草をかき分け、周囲をじっくりと見渡した。
けれども、そこに“異空間の扉”の痕跡は一切なかった。
地面に不自然な穴が開いているわけでもなく、草が踏み倒された形跡もない。
「消えた…?…でも、そんなわけが…」
ポケットの中にある鍵を握る。
あの冷たい金属の感触だけが、現実をつなぎとめてくれる。
でも──
扉がなければ、この鍵はただの“飾り“だ。
「帰れない、のか……?」
言葉にした瞬間、喉の奥がきゅっと苦しくなった。
そのまま、麦は足元を見つめたまましばらく立ち尽くしていた。
けれど、風の気配に導かれるように、顔を上げる。
改めてその「景色」を見た時、麦の中で戸惑いにも近い感情が空気を入れたように膨れ上がった。
目の前に広がっていたのは、白い砂浜と、碧い海だった。
広がる視界いっぱいに、珊瑚礁の色が反射してキラキラと輝いている。
波は穏やかに打ち寄せ、遠くには小さな漁船の影すら見えた。
あまりにも現実味のない光景。
そして、何より──
「海、なんて……家の近くに、あるわけないのに……」
麦の住んでいた場所は、山に囲まれた典型的な田舎町だった。
最寄りの海までだって、電車とバスで3時間はかかる。
けれど今、自分の目の前にはその“非日常“的な光景が当たり前のように広がっている。
丘の上からじっと、海の全景を見下ろす。
波、音、空気、光。
どれもが現実的で、それでいて“現実じゃない”。
「……やっぱ、これって──」
言葉にするのが怖かった。
でも確信は、静かに、そして確実に麦の胸に落ちてきていた。
──ここは、“異世界”だ。
その発想は最初からあったわけじゃない。
むしろ、想像すらできなかったことだ。
けれど目の前の海をまじまじと見た瞬間、心の中で何かが“決壊”した。
「どうすんだよ、俺……」
麦はしゃがみ込み、手で草をかきながら、小さくつぶやいた。
戻れない。どこだかもわからない。
人も、村も、空気すら違う。
何より、この世界に自分ひとりだけという圧倒的な孤独が、意図しない方角からのしかかってくる。
──あの村に戻るしかないのか?
だが、さっきの反応を思い出すと、気が重かった。
人々の視線。戸惑い。異物を見る目。
自分の服装に驚いていた少女の姿。
「……はぁ」
思わず深く息を吐いた、その時だった。
ふと、風が止んだように感じた。
背後の草の揺れが、一瞬、ぴたりと止まり──
気配が、近づいてくる。
麦は、ゆっくりと振り返った。
──そこにいたのは、さっきの尖った耳の少女だった。
彼女は両手を胸の前で組むようにしながら、数メートル先で立ち尽くしていた。
目は大きく見開かれていて、けれど、怖がる様子だけではない。
おそるおそる、近づこうと一歩踏み出し──
麦と視線がぶつかると、びくっと立ち止まった。
夕日が草原に長い影を落とし、彼女の髪が風に揺れる。
麦は、何も言えなかった。
少女もまた、何も言わなかった。
ただ、その場に“ふたり”が存在している。
たったそれだけのことが、少しだけ空気をあたためていた。
風は止んでいた。
夕日が草原を茜色に染め、影が長く伸びる中。
麦は、まるで時間が止まったような静けさの中で、彼女を見つめていた。
尖った耳。灰銀の髪。
昼間、薪を抱えて逃げていった少女──
「……あ」
声が喉の奥から漏れた。
彼女は立ち止まり、足をすくめたように、じっとその場に佇んでいる。
距離は五歩ほど。すぐそばなのに、世界一遠いように感じる間合い。
麦は一歩、ゆっくりと前に出た。
「その……さっきは……ごめん、驚かせたよな?」
できるだけ優しい声で。
彼女が逃げないように。
だが、彼女は逃げなかった。
代わりに小さく息を吸い、唇を開いた。
「……?」
少女の目が、開かれたように見開かれる。
その瞳に映るのは、恐怖でも警戒でもない。
まるで――時を越えて“知っている誰か”と出会ったような驚き。
彼女の唇が、かすかに震える。
そして小さな声が、夕風に乗って響いた。
「……ラウ」
麦はきょとんとした。
「え?」
「……ラウ、なの……?」
その声には、懐かしさと願いが混じっていた。
彼女は、ゆっくりと麦に近づきながら、もう一度その名を呼ぶ。
「ラウ……? そう、なの?」
足取りはおそるおそるだった。
草を踏む音さえ消えるように、慎重で、でも止まらなかった。
麦は、心の奥にざわめきを感じた。
知らない名前。知らない少女。
けれどその声には、どこか胸をつかまれるような“重さ”があった。
「……ごめん、ラウって……俺、じゃないと思う。俺は、“大空麦”」
そう名乗ると、少女は立ち止まり、目を伏せた。
「……そう、か」
ほんの一瞬、肩が落ちた。
けれどその直後、彼女の表情に再び光が戻った。
「でも……とても、似てるの。声も、目も、風の感じも」
その言葉に麦は戸惑いながらも、彼女の顔をじっと見た。
この距離まで来ても、彼女の姿にはやっぱり現実感がなかった。
尖った耳。透き通るような瞳。海の光をそのまま映したような髪の揺れ。
そしてその後ろには、ゆっくりと沈みゆく赤い太陽と、金色に輝くサンゴの海が広がっていた。
草原は色づき、風は柔らかく、世界がまるで二人だけを包んでいるようだった。
「……その人、ラウっていうの? 昔の友達?」
麦がそっと聞くと、少女は頷いた。
「都市に住んでいた頃……一緒に遊んでた。たくさん話して、笑って……
でも、いつか別れるって、知ってた」
「そっか……」
「それでも、また会えたらいいなって……そう、思ってた」
風が、彼女の髪を優しく揺らした。
遠くの波音が、時間の層を静かに重ねていく。
麦はポケットに手を差し込み、鍵を握った。
自分がここに来た理由なんてわからない。
でも、今目の前にいる彼女は、自分に何かを見てくれている。
「君は?」
「……フィリエル」
そう名乗った彼女の声は、少しだけ震えていた。
麦は、その名を心に刻むように繰り返した。
「フィリエル……」
その瞬間、二人の間を渡る風が、またそっと動いた。
世界は確かに動き出していた。
ひとつの名と、ひとつの記憶が、麦の足元に微かに広がっていた。
「……なあ、ここって、どこなんだ?」
日が落ち始め、空の端がゆっくりと紫に染まり始める頃。
草原の中、麦はフィリエルに向かってそう尋ねた。
声には、ほんの少し焦りが混じっていた。
言葉にしてみれば単純な問いだ。けれど、自分が立っている場所を知らないというのは、想像以上に心細い。
しかし、返ってきたのは意外な反応だった。
「どこ……?」
フィリエルは首をかしげ、小さく目を瞬いた。
「あなたこそ……どこから来たの?」
「えっ……えっと、それが……」
麦は一瞬言葉を選びかけたが、思い切って言った。
「家の裏庭にある物置きの扉を開けたら……光の空間みたいなのがあって、気づいたらここにいたんだよ。
そこにはドアがあって、鍵を差し込んだら――」
「……え?」
フィリエルの顔が、ぽかんとしたまま固まる。
「えっと、だから……ドア、裏庭、えーと、鉄の鍵と……電気とか、うーん……」
言葉が、まるで空中で砕けていくようだった。
フィリエルは困ったように微笑んで、そっと首を振った。
「……わからない」
「だよなあ……」
肩を落とした麦に、夕風がそっと吹き抜ける。
その沈黙を破ったのは、フィリエルの小さな声だった。
「もう……夜になる。魔物が、出るかもしれない」
「……魔物!?」
麦は反射的に声を上げた。
“魔物”という単語が、フィクションのものではなく、目の前の少女の口から“日常”として語られたことに、背筋がぞわっとした。
「この辺りは安全な場所じゃないの。……丘の上だし、火もないから」
フィリエルは辺りを見回しながら、落ち着いた口調で言う。
その様子に、麦は「これは本当にまずいやつかもしれない」と感じた。
「……魔物って、どんな……?」
「森から来るの。目が光ってて、牙があるの。大きなやつも、小さなやつも」
ひとつずつ、静かに列挙される特徴。
まるで“日常的に出くわすかもしれない野生動物”のような語り方だった。
「……やば」
ごく自然に口から漏れた言葉に、フィリエルが少しだけ眉をひそめる。
「むぎ?」
「いや、なんでもない……。とにかく、その……」
麦は一度、丘の上の風景を振り返った。
夕日はもうほとんど地平線に沈みかけており、草の影がぐんと伸びている。
知らない土地。知らない空。戻れない道。
そして、“魔物が来るかもしれない夜”。
「……わかった。いこう、村まで。君の後、ついてくよ」
麦がそう言うと、フィリエルは安心したように小さくうなずいた。
その目には、ほんの少しだけ心の霧が晴れたような光が差していた。