第1話
ギィィィィィ……ッ
音は、まるで風を切る刃物のようだった。
木製の扉がゆっくりと開いたその隙間から、空気が変わった。
「……え?」
それは、物置きの中ではなかった。
ほんの一歩先には、確かに何かが“ある”。
けれど、そこには床も、壁も、天井もなかった。
扉の向こうは、どこまでも深い、青と金の渦巻く空間だった。
霧のような光の粒子がふわふわと漂い、視界の奥には輪郭のはっきりしない構造体がいくつも浮かんでいる。
いくつもの“歪み”が揺らめき、空間がゆっくりと鼓動しているように感じられる。
──空でもない、海でもない、でも確かに“奥行き”がある。
「これ……なに……?」
麦の声が自分の鼓膜に跳ね返る。
周囲の音は吸い込まれるように静まり、代わりに耳鳴りにも似た低音のうねりが背中を押す。
扉の枠は、まるで異空間と現実世界の「境界」を押さえ込む“結界”のように感じられた。
その向こうには、現実とは異なる重力と空気が、波のようにたゆたっていた。
──これは、夢じゃない。匂いが、違う。
現実と異世界の違い。それを最初に麦が感じたのは、「空気のにおい」だった。
乾いた草の香り。塩気。鉄のような匂い。
夕立のあと、畑に立ちのぼる土の香りにも似ている。
だけどそれらが一度に襲ってくるような、濃厚で複雑な匂いだった。
身体の奥がざわつく。
足が一歩、勝手に前に出た。
「……行くのか、俺?」
こんなわけのわからない空間に、どうして足が向くんだ?
だが、好奇心が恐怖をわずかに上回っていた。
むしろ、“なぜか懐かしいような感じ”すらしていた。
麦は一度だけ振り返り、家の屋根を見た。
遠くの山。夕闇の空。虫の声。
すべてが、ほんの少し、色褪せて見えた。
「じーちゃん……なんで、こんな扉を黙ってたんだよ」
答えのない問いを空に投げ、麦はギュッと拳を握った。
そして──
右足を、一歩、異空間に踏み出した。
その瞬間、空間が震えた。
光が瞬き、風が巻き、扉の内側からゆるやかな重力の流れが発生する。
麦の身体が、ふわりと宙に浮いた。
「わわっ、ちょ、待っ──」
言葉は終わる前にかき消され、視界は一瞬で反転した。
──そして、着地した。
だが、足元は“地面”ではなかった。
草だった。柔らかく、濡れていた。
それはどこか、海辺の湿地帯を思わせる感触だった。
麦はそろそろと立ち上がり、目を開けた。
「……ここ、どこだ……?」
そこには、風にそよぐススキのような草原が広がっていた。
視界の端には、海がきらめいている。
木製の桟橋が波打ち際に突き出していて、小舟が数隻、干された網とともに揺れていた。
海の香り。潮風。遠くから、鳥の鳴く声。
そして、向こうには──木と石と粘土でできた、小さな村があった。
家々は低く、壁はひび割れ、屋根は茅葺き。
煙突から上る細い煙が、夕焼けの空に溶けていた。
「……えっと」
麦は、自分の足元を見た。靴には土がついている。
その土は、確かに“現実じゃない土”だった。
空気は重く、でもどこか懐かしくて、胸の奥にざらっとした感触を残す。
「行って……みるか」
扉はもう背後にない。音もなく、消えていた。
麦はそっと、最初の一歩を草むらに踏み出した。
見たことのない風景が、夕日に染まって広がっていた。
周囲には背丈の高い草が風に揺れ、潮の匂いが微かに混じっている。
脳が混乱していた。
裏庭の扉を開けたはずなのに、気づけばここにいる。
異空間のあの“ねじれた景色”は一瞬の幻だったのか、それとも夢でも見ているのか。
「っていうか、扉、どこいった……?」
振り返ったが、やはり背後には草原しかなかった。
物置のはずの扉も、枠も、建物すら消えている。
「……マジかよ」
一気に喉が渇く。手には、あの鍵だけが残っていた。
ポケットに入れていたのを、そのまま握りしめていたのだ。
ごつごつと冷たい鉄の感触。これだけが、現実の証拠だった。
「……とにかく、あの家のあるとこ、行ってみるしかないか」
「……やっぱ、村……だよな、あれ」
麦は丘を下りながら、遠くの集落を見つめていた。
夕焼けに染まる空の下、木と土で作られた家々が斜面に寄り添うように並んでいる。
家々の間をぬうように細い道が走り、小さな市場跡のような広場も見える。
だが、活気はなかった。
人の声がしない。笑い声も、道具の音も。
風に乗って聞こえるのは、海の波音と鳥の鳴き声だけ。
「……静かすぎる」
麦は慎重に足を進め、村の入口へと向かった。
道端の草は伸び放題で、踏みしめるたびにくしゃっと音を立てる。
よく見ると、道の両脇にあるはずの畑は、ほとんどが荒れていた。
刈り取られたまま放置された作物。土はひび割れ、肥料の匂いすらない。
集落は、近づくにつれ“昔話の中”のような光景に見えてきた。
木と粘土で作られた低い家。茅葺きの屋根。
井戸や、干された網、素焼きの壺。
どれもまるで、時代劇のセットか何かのようだった。
「……テーマパークとかじゃ、ないよな?」
民俗村か、映画の撮影所か。
そう思っても不思議じゃない。けれど、細部の“生活感”がリアルすぎた。
空気が湿っていて、畑の土の匂いが鼻をくすぐる。
麦が戸口の一つに近づこうとしたとき──その家の裏から、一人の人影が現れた。
「……え?」
それは、麦とそう年齢の変わらなそうな女の子だった。
薄い灰色のチュニックのような服をまとい、片手に薪を抱えている。
麦は慌てて声をかけようとしたが──
「……えっ?」
彼女を見た瞬間、思考が止まった。
耳が、尖っていた。
まるでエルフか、フィクションの中の種族のように、顔の横から鋭く長い耳が突き出ている。
だが、彼女は紛れもなく“人間”の顔をしていた。
「…………」
「…………」
お互い、言葉も出ない。
目を見開いたまま、数秒間、沈黙が流れた。
先に動いたのは、彼女だった。
彼女は薪を落としそうになりながらも、数歩後ずさった。
「……ヒト?」
絞り出すような声。その言葉に、麦の背中に寒気が走る。
「え……?」
すると、彼女は突然、村の奥へ向かって走り出した。
「ちょ、待って、待って待って!? え、俺なにした!?」
麦は慌てて追おうとするが、草の根に足を取られそうになる。
その隙に、村の数軒から人影が顔を出し始めていた。
「あれは……」「見慣れん服だぞ」「外の者か?」
「う、うわ、こっち見てる……」
麦は思わず後ずさった。
だが彼らもまた、一様に驚いたような表情をしていた。
それもそのはずだ。
麦は現代日本のTシャツにジーンズ、スニーカー姿。
この村の服装とはあまりに異なる異質な格好だった。
「こんな村、家の近くにあったか……?」
すれ違う子どもが麦の姿を見て、目を丸くしたまま母親の後ろに隠れる。
完全に“異物”として見られているのがわかった。
「ええと……その……こんにちは?」
麦がようやく口にした挨拶は、誰の耳にも届かなかったようだった。
言葉が通じているのかさえ、よくわからない。
ただ、誰も武器を持ち出したり、追い払ったりする様子はない。
彼らはただ、“困惑していた”。
麦も、同じだった。
──ここは、本当にどこなんだ?
──うちの裏山の向こう側……じゃないよな……?
ふと手元の鍵を見下ろす。
今のところ、それだけが“入口”であり“帰る道”でもある。
が、それも扉がなければ、ただの鉄塊だ。
(…どういうことだよ)
麦は、村の入り口のあたりに腰を下ろした。
日が少しずつ傾き始め、風が冷たくなる。
──今日、帰れるのか?
──ていうか、夢じゃないよな?
そうして麦の「異世界生活」は、疑問符だけを積み上げながら、静かに幕を開けた。