第9話
朝の光が、板張りの床を長く照らしていた。
フィリエルは食器の片付けをしながら、炉に火をくべ、調味草を吊るす棚に手を伸ばした。
「……これが“トユ草”。防腐作用があるから、干物や塩漬けに混ぜると長持ちするんだよ」
「へぇ……あ、なんか独特な匂いするな。しょっぱいような、薬草っぽいような……」
麦はそれをつまんでみようとしたが、フィリエルが笑って止めた。
「生だと舌がしびれるよ」
「まじで!!あぶなッ……」
「でも、味のアクセントにはなるんだよ。ほら、昨日の干し芋にも少し混ぜてたでしょ?」
麦は改めて思い出した。
確かに、あの干し芋にはどこか“野性味のある深み”があった。
その間にもフィリエルは、井戸から運んできた水を大きな陶器の水瓶に移し替え、次に網を手にして、外に干していた“海粉塩”の塊を砕いて籠に入れていった。
「それ、なんて言ったっけ?」
「“コラル塩”。珊瑚礁の間で自然に濃縮された潮の結晶。
普通の塩よりも柔らかくて、魚にも合うの」
麦は思わず見とれるように彼女の手元を眺めていた。
道具はどれも素朴で、使い古されている。
それでも、そこに流れているリズムには“慣れ”と“誇り”があった。
それが、この家の“朝の音”なのだ。
「……なんかさ。文化っていうか、生活っていうか……全部“ちゃんとしてる”んだな」
麦の言葉に、フィリエルは少しだけ目を丸くした。
「“ちゃんとしてる”?」
「あ……いや、うまく言えないけど……ちょっとびっくりしたっていうか」
「何それ(笑)なんか変なことしてる?私」
「…いやいや、そういうんじゃないって!…なんつーんだろ。意外だなっていうか、ここにも「生活」があるんだなって」
「当たり前でしょ!」
「そうなんだけどさ(笑)こっちの世界のこと、最初は何もかも“変”って思ってたんだ。
でも、だんだん“変”とかじゃなくて“違うだけ”だったんだって……わかってきたというか」
フィリエルは、麦の言葉をしばらく噛みしめるように考えていたが、やがてふわりと笑った。
「……まあ、ヒトとの生活とはちょっと違うよね」
「え?」
「私たちみたいな亜人族は、種族によって習慣だったり生活の仕方が全然違うの。食べるものだって違うし、寝る時間だって。初めて目の当たりにするヒトもいるんだよ?初めて私たちの文化や生活に触れて、驚いたような顔をするヒトがたくさんいるの。今の麦みたいにね」
「…ふーん」
「きっと……“この世界のこと”、好きになってもらえると思うんだ。私たち“海音種”は、海の音色の中に生きる種族なの。海とともに生きて、風の流れの中で静かに音を拾って生きていく。自慢じゃないけど、ここの暮らしはどんな場所よりも落ち着くの。今は大変だし海も荒れてるけど、ここは本当に綺麗なの。みんなが笑って暮らしていける“豊かな場所”だって、いつも感じてるんだ。大きな街なんかよりはずっとさ?」
「…そっか。っていうか、俺なんかがほんとに上がり込んでていいんだろうか…」
「気にしないで。お父さんはあんなふうに言ったけど、私だってちゃんとわかってる。見ず知らずの人をそんな簡単に家には上げないよ。麦だから、大丈夫だって思ったの」
「そ、そうか…??」
「それに、お父さんも気づいてくれてたみたいだし。麦が“いい人”だってこと」
その言葉に、麦は照れくさそうに視線を落とした。
すべての片付けを終えた後、フィリエルは腰布を巻き直し、麦に言った。
「じゃあ、挨拶まわり行こっか」
「そうだな。どこに行けばいいんだ?」
「まずはセナおばさんの家と、ノークじいの家。そのあと、ヤナさんのとこ」
「……名前、覚えられるかな……」
「大丈夫。みんな、ちょっと怖そうに見えるけど、慣れれば平気だから」
そう言って、彼女は玄関を開けた。
朝の光が、外の世界へと続いていた。
家を出ると、朝の風が頬を撫でた。
海の匂いがふわりと鼻をかすめる。
通りはまだ静かだったが、炊き火の煙や網を干す音、桶を運ぶ足音が、あちこちから聞こえていた。
麦はそのひとつひとつを新鮮に感じながら、フィリエルの後について歩いた。
最初に訪れたのは、向かいの家に住む“セナおばさん”のところだった。
「あら、また来たの?」
縁側で網の目を編んでいたセナは、笑いながら立ち上がった。
彼女は藍色の腰巻に貝殻のイヤリングをつけ、突然の訪問者に軽く会釈しながら2人を迎え入れた。
「むぎを、ちゃんと紹介したくて。今朝は急だったから」
フィリエルがそう言うと、麦は頭を下げた。
「さっきは失礼しました。……あらためて、大空 麦といいます。
ご迷惑をかけないようにしますので、よろしくお願いします」
セナは、しばらく麦を見つめてから、小さく笑った。
「ふふ、まじめな子だね。そんなに肩に力入れなくてもいいのに。
“ヒト”って、みんなそんなに緊張しいなのかい?」
「え、いや……まあ、人によると思いますけど……」
「冗談よ。……でも、あんたの目は悪くない。見たものをちゃんと受け止めようとする目だ」
その言葉に、麦は少しだけ頬を緩めた。
次に向かったのは、村の小径を少し下ったところにある“ノークじい”の家だった。
古びた石の塀に囲まれたその家は、海音種の中でもとくに“深海種”に近い血筋を持つ者の家だとフィリエルは説明してくれた。
「耳を見れば、たぶんびっくりするかも」
そう言われていた通り、ノークと呼ばれる老人は貝殻のような扇形の耳をもち、肌はうっすらと緑灰色に光っていた。
だが、麦が驚くより先に、彼のほうが先に口を開いた。
「……ヒトの子か。珍しいが、嫌いではない。昔、交易港で一緒に酒を飲んだこともある」
「……そ、そうなんですか?」
「うむ。あやつらは歌がうまかった。体は弱いが、心はしなやかだったな」
ノークじいは杖をつきながら、ゆっくりと笑った。
その背中には、年輪のような静かな重みがあった。
「この村では、しばらく居場所を探すのに苦労するかもしれん。だが、焦らずに歩け。
波は、焦った舟から順にひっくり返る」
「……ありがとうございます」
最後に訪れたのは、“ヤナさん”と呼ばれる中年の女性の家だった。
家の前には干した布と薬草がずらりと並び、足元にはまだ若い二匹の動物――尻尾が魚のようにぴくぴく動く猫のような生き物が昼寝していた。
「むぎ。ヤナさんはちょっと怖く見えるけど、いい人だから」
そう言われたが、麦はやや緊張していた。
ヤナは、目つきこそ鋭かったが、フィリエルが事情を話すとすぐに表情を緩めた。
「……なるほど。あんたが“例”の」
「えっ」
「村の中ってのは狭いからね。あんたの話は、もうそこそこ広がってるわよ。
でもまあ、私としては気にしない。みんな噂好きでね。それに、この村にヒトが訪れるなんて珍しいのさ。みんな色めきたっちゃいるが、ただの“賑やかし”さ。ゆっくりしていくといいよ」
そう言って、ヤナは手ぬぐいで手を拭きながら言葉を継いだ。
「ただ、下手なことはしないほうがいい。ヒトは、誰でも“外”から来るもんだ。最初はだれもが見知らぬ者。
この村がそれを受け入れるかどうかは、あんたの足と、目と、口次第。ま、この村に限らずだけどね」
麦は深く、深く頷いた。
「……はい」
家々を回り終えた帰り道。
海からの風が吹き、麦はふと空を見上げた。
「……俺、思ってたより……“拒絶されてない”気がするんだけど、気のせいじゃないよな?!」
「うん。そうだよ」
フィリエルは歩きながら答えた。
「みんなわかってるんだ」
「…え?」
「私たち村の一族は、他の種族やヒトよりもずっと「耳」がいい。悪いヒトや魔物が来たら、風が教えてくれるの」
「風…って、この風が??」
麦は不思議そうに目を丸めながら、手のひらで掬うように周りの空気を掴むような素振りを見せた。
それを見て、フィリエルはクスッと笑みを溢す。
「ふふっ。そんな大袈裟にジェスチャーしなくてもわかるよ。…言葉で言うのは難しいんだけど、私たちには“聴こえる”の」
「風が喋るとか、まさかそういうんじゃ…」
「…うーん、喋りはしないけど、なんとなく近いかもね」
「まじかよ…。じゃあ、今何か喋ってるとか??」
「あはは。そうだね。今日はいい天気だなぁとか、そんな感じ?」
「……いい天気だなぁ……って。……………まさかとは思うが、俺のことからかってたりしないよな?」
「違う違う。からかってないよ!そういうんじゃなくてね、…まあ、ようするに“言葉”じゃないってこと」
「??」
「いろんなことを教えてくれるの。言葉だけじゃ伝わらない何かも、今日がどんな1日になるのかも」
「…へぇ」
「音は色んな表情を持ってるんだ。耳を澄ませれば、指で触れられないような微かな振動だって、はっきりとした色を運んでくる。私たちはその一つ一つの音色を拾って、海や空気や光と会話してる。ちょっと大袈裟かもしれないけどね?昨日なんかは、ほら…」
「昨日…?」
「何か新しいことが始まるかもって、波の音を聞きながら思ったの。そしたら、麦が血相を変えて道のど真ん中を歩いててさ(笑)」
麦はその言葉を聞きながらハッとなる。
昨日この世界にやって来て、赴くままにこの村にきたことを思い出し、ぽりぽりと頭を掻いた。
そんなふうに見えてたんだと、今更ながらに気づいて恥ずかしがった。
フィリエルは赤らめた彼の横顔を見ながら、ほんの少し照れたように手を後ろで組む。
同じ歩幅で歩く2人。
まるで昔馴染みのように、互いの息遣いは穏やかな時間を運んでいた。
「みんなびっくりしてたもんな…」
「そうそう。思わず薪を落としちゃったよ」
「はは。そういえばそうだったな」
「笑い事じゃない!本当にびっくりしたんだから」
「めっちゃ怖がってたもんな。そんな驚かせるつもりはなかったんだけど」
「怖がったっていうか、純粋に驚いたんだよ」
「みんな結構変な目で見てた気もするしなぁ…」
「…まぁ、最初はね」
「さっきヤナさんも言ってたけど、やっぱ時間かかるよな?」
「何が?」
「俺がここに滞在すること」
「それは大丈夫だよ。さっきも言ったでしょ?私たちは「耳」がいいって」
「え?」
「麦がもしも悪いヒトなら、風がそれを教えてくれる。今頃大騒ぎだと思うよ?近所のおばさんたちだって、あんなふうに優しくは接しないだろうし」
「そう…か」
「…ただ、ただね。今はちょっと敏感なんだ。昔はもっと穏やかだったけど、今のこの村は、麦が思ってるほど優しくはない。でも、閉じてばかりでもない。
ちょっとだけ時間がかかるだけ。……それってきっと、ヒトの住む街も同じじゃない?」
「……ああ。うん。たぶん、どこも似たようなもんだとは思うんだが…」
二人は並んで歩きながら、家へと戻っていった。
背中には、小さな波の音が、ずっとついてきていた。




