プロローグ
──田舎の夏は、静かすぎる。
「……蝉、鳴きすぎじゃない?」
麦茶の入ったグラスを持ちながら、大空 麦は縁側でうんざりとつぶやいた。ぐでーんと伸びたネコの「みそ太郎」も、あまりの暑さに返事をする気すらないようだった。
「エアコン? そんな文明、我が家にはないよ?」
まるで話しかけているのか独り言なのか、自分でもよく分からない。とにかくこの家は、田舎のフルスペックを誇っていた。
山のふもとにぽつんと立つ築八十年の古民家。
裏庭には畑と物置と、ツタが這いまくった謎の小屋がある。
そして家族は7人──祖父母、父母、自分、妹、弟。大家族である。
「……って、あれ?」
麦の視線が、裏庭の物置小屋に止まった。
いつもならただの『背景』でしかなかった小屋。その扉が、わずかに揺れていたのだ。しかも、そこから妙に冷たい風が流れてくる。
「……なんだ? クーラー……なわけないか」
好奇心と警戒心が5:5。
麦はグラスを置き、そろそろと小屋へ近づいた。
「……ガチャン」
取っ手に手をかけるも、扉は錠前でしっかりと閉ざされていた。
「んー? 鍵? こんなの昔からあったっけ?」
ツタに覆われ、ところどころ腐食している扉。まるで何かを封じているような雰囲気すら漂っている。だが、特に怖いというよりは――
「ただの古い倉庫……だよな? うん、たぶん」
そう自分に言い聞かせるように呟きながら、麦は家の中へ引き返した。
「ばーちゃん、裏の小屋の鍵知らない?」
「ああ? あそこかい。誰も開けたことないよ。じーさんが昔、勝手に入るなって言ってたっけねえ」
「勝手に入るなって……何が入ってんの?」
「さあ? でもたぶん、何もないよ。ゴミとか……そもそもあそこ、いつからあるんだかねえ」
「はぁ……」
祖母の話は、期待も情報も含まれていなかった。
麦は少し残念に思いながらも、その日以来、小屋のことは**「謎の物件」として脳の片隅に追いやることにした**。
──ただし、それが後々、異世界へと続く「扉」だったと気づくのは、もう少し先の話である。
その日も、変わらず蝉が鳴いていた。
夏の午後はどこか濁った金色で、空気は重く、風はない。
それでも、麦にとっては「田舎の日常」の一部に過ぎなかった。
いつも通りの午後になるはずだった。
──その声が聞こえるまでは。
「……う、うう……っ……」
「じいちゃん?」
最初は、庭先から微かにうめくような声が聞こえた。
縁側の方をのぞくと、そこに祖父の清三がいた。
いつもどおりの作業服姿。けれど、腰を折り、柱に手をついて顔をしかめている。
「じいちゃん!?」
麦が駆け寄った時には、清三の体ががっくりと崩れかけていた。
慌てて肩を支えると、息はある。けれど、額にはびっしりと汗が滲み、目は虚ろだった。
「だ、だいじょうぶか!?」
「うむ……少し、立ちくらみが……」
「いや、こんなの立ちくらみじゃねえだろ!」
叫ぶ麦の声に驚いた祖母が、家の奥から飛び出してくる。
その後はバタバタと、父と母、妹と弟までが集まり、結果、清三は救急車で病院へと運ばれることになった。
*
病院から戻った夜、食卓にはいつもより静かな空気が流れていた。
「点滴打って、検査もいくつか受けさせるってさ」
父が箸を動かしながらぼそりと言う。
「大事には至らなかったけど、年も年だしな」
「高血圧だって。しばらくは入院だろうねえ」
祖母がうんうんとうなずき、母は「じゃあ明日、着替えとか持っていこうか」と言った。
「麦、おじいちゃんの部屋から病衣と日用品まとめてくれる? 若い子のほうが手早いし」
「ん、いいよ。あの部屋、なんか将棋の本ばっかだけどな」
そのまま話題は移り、麦はその夜、なんとなく眠れなかった。
祖父は滅多に倒れるような人ではなかった。
朝から畑に出て、夕方には鯉に餌をやり、夜は将棋番組を見て茶をすすり、時々笑う。
そういう「強いじいちゃん」だったのだ。
倒れる姿を見たことで、麦の中に「少しだけ違う重さ」が残っていた。
翌朝、蝉の声に起こされた麦は、冷たいお茶を一口すすってから、祖父の部屋に向かった。
古い引き戸を開けると、そこは相変わらず畳の匂いに包まれていた。
窓から斜めに日差しが差し込む。
空気はひんやりとしているのに、何か見えない熱が漂っているようだった。
「さて、まずは……病衣と、下着と……歯ブラシに、老眼鏡……あ、将棋の駒もな」
箪笥の引き出しを開けたり、押し入れを探ったりしながら、麦は手際よく荷物をまとめていった。
小さなボストンバッグに荷物を詰めながら、ふと、床の間の掛け軸の下に、奇妙なものがあることに気づく。
「あれ……?」
それは、埃をかぶった木箱だった。
白い布がかけられていたが、それは何かを“隠す”というより、“包む”ように置かれていた。
「……なんだこれ。お守りでも入ってんのか?」
軽い気持ちで布を取る。箱は掌よりやや大きく、つやはない。
しかし、蓋の継ぎ目には丁寧な彫り込みがされており、作りは古いが雑ではない。
ためらいながらも、蓋を開けると、中から現れたのはひとつの鍵だった。
錆びてはいないが、色味は深く、重厚感がある。
まるで西洋の童話にでも出てくるような、鉄製の、奇妙に大ぶりな鍵。
「……っ!」
その瞬間、麦の背筋に、ぴたりと冷たい風が這ったような感覚が走った。
不思議と“あの扉”のことが脳裏に浮かぶ。
裏庭の物置小屋。ツタに覆われた、どこか妙な気配のする古い扉。
「いやいや、偶然だって……鍵がたまたま、ってだけだよな」
そう言い聞かせるが、ポケットの中で鍵の重みが微かに主張する。
清三がそれを隠していたとも思えない。ただ、そこに“あった”だけ。
それが逆に不気味だった。
「……持ってっていいのか、これ?」
迷いながらも、鍵を箱に戻すことなく、そのままポケットに滑り込ませる。
何かに引っ張られているような直感。
意味はわからない。ただ、鍵を「置いていけなかった」ことだけは確かだった。
病室には静かなテレビの音と、点滴が落ちる電子音だけが漂っていた。
「……で、あの畑、まだ手入れしてない。ナスもキュウリも伸び放題だよ」
「ふむ。……麦、おまえがやってくれると助かるな。母さんは腰が弱いからな」
「ま、俺がやるよ。手袋と長靴、どこやったっけな」
ベッドの上の清三は、多少やつれたように見えたが、話す声にはいつも通りの芯があった。
麦は、バッグから取り出した病衣や将棋の駒をテーブルに並べながら、なるべく自然なふりをしていた。
──ポケットの中には、あの鍵が入っている。
何度も話題を探してはやめ、喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。
「鍵のこと、聞いてみようか?」と何度も思ったが、どうしても切り出せなかった。
たかが古い鍵ひとつ。
なのに、それを持ってきてしまった自分が、何か悪いことをしたような気分になっていた。
「じゃ、また明日来るわ」
そう言って病室を出た麦は、重い気持ちを抱えたまま病院の玄関を出た。
田舎の夕暮れは、驚くほど早く色を変える。
街灯もない細い坂道を自転車で下りながら、麦はずっとポケットに入れたままの鍵の存在を意識していた。
金属がジーンズの内側に触れるたび、なぜか心拍数が少しだけ上がる。
家に戻ると、妹と弟が夕飯の支度を手伝っていた。
母の「おかえり、じーちゃんどうだった?」という声にも上の空で返事をしながら、麦はそのまま二階の自室に上がった。
部屋の窓を開けると、遠くで虫の声が重なっていた。
夜の帳が落ち始め、田んぼの水面が夕焼けを静かに映している。
麦はポケットから、あの鍵を取り出した。
西洋風の大ぶりな意匠。持ち手は環になっており、握ると掌に馴染む奇妙な感覚があった。
光の角度によっては、黒鉄の表面にわずかに青みが浮かぶ。
「まさか、ね……」
つぶやいた声は、誰にも届かない。
夕食の前、まだ誰も裏庭に出てこない時間を見計らって、麦は静かに外へ出た。
裏庭は、祖父が代々守ってきた家庭菜園に囲まれている。
トマト、ナス、ネギ、オクラ――畝の整った土の香りが、足元から立ち上る。
その先、家の一番奥の角に、物置小屋がある。
いや、“物置”と呼ぶには、どこか違和感がある建造物だった。
外壁には厚くツタが這い、屋根には一部崩れかけた瓦。
雨ざらしの時間が長かったのか、木製の扉は黒ずんでいて、ところどころ裂け目のような線が走っていた。
ただ、取っ手と鍵穴の部分だけは、やけにしっかりしている。
まるで“そこ”だけが、意図的に新しさを保っているようにも見えた。
「ほんとに……この鍵が、ここの?」
扉の前に立つと、思ったよりも大きく、威圧感があった。
金属の取っ手の下に、確かに鍵穴がある。
麦は少し息を整えてから、ポケットの中の鍵を握り直した。
「試すだけ、だから」
そう自分に言い聞かせながら、鍵を差し込む。
カチリ、と音が鳴る。
吸い込まれるように、鍵はぴったりと穴にハマった。
「……!」
一瞬、麦の背筋にぞわっと冷気が走る。
回すか、やめるか。逡巡は数秒。
だが、好奇心がそれを上回った。
ギリリ……と、錆びついた金属の軋む音。
鍵はゆっくりと回り、ロックが外れる手応えが伝わってくる。
麦は、ドアノブに手をかけた。
押すのではない。引く扉だった。
「……開けちゃったよ」
最後の音が漏れると同時に、扉がギィィ……と音を立てて開いた。
その瞬間、裏庭の空気がふっと変わった。
濃い夜の気配をはねのけるように、ひやりとした風が、扉の向こうから吹き抜けた。
その向こうには、ありふれた物置の中身など、どこにもなかった。