19 幻惑の夢 4
アデルとラフィンスはようやく洞窟から出て、虚空を見上げた。
鳥が空を飛んでいる。そう思ったら、人が空を飛んでいる。しかも、ものすごいスピードで。ぎょっとした。よく見るとその人物は_______
「ロザリン、ロザリンじゃないか……!どうしたんだ、いったい……!」
呼びかけても、何も応えない。単に聞こえなかったからというわけでもなさそうだ。またたく間に通り過ぎて行った。何かがおかしいと感じる。
「今の、あの女だったよな?」
傍らにいたラフィンスも気付き、訝しむ。
「空なんか飛べたんだ……」
「いつものあの女の雰囲気とは違う。きつい顔をしていたな」
それにはアデルも頷く。
「様子がおかしかった。どうしよう」
明らかにロザリンの身になにかが起こった。
予期せぬ事態に、どうすることもできず、愕然としていた。
陽が傾きかけたそのとき。サンクティルガの王城が、森が、業火に彩られていた。
つよい風に煽られ、火の海に包まれる。ゆらり、と炎がゆらめく。
何も視えていない。虚ろな眼で、眼下の様子を見降ろす。
城の塔の天辺、かなり高い位置からその身を宙に浮かせたまま。
手をかざし、ロザリンはサンクディルガの城を襲撃する。火の粉を撒き散らし、赤みがかった長い髪が爆風に煽られ、なびく。
_______燃やせ、何もかも、燃やし尽くしてしまえ。
周囲は騒然となる。城に放たれた火から逃れようと悲鳴まじりで、逃げ惑う城の者たち。
城の中に取り残されたものはいたのだろうか。
外で人だかりができていた。その中にはアデルとラフィンスの姿もあった。突然のロザリンの行動に動揺を隠せない。
「ロザリン、やめろ!いますぐやめてくれ!」
アデルの叫び声は黙殺される。
魔法の力はアデルを追ってサンクティルガに来たときに、覚醒した。でもあのときとは
わけが違う。今は故意に、悪意を以ってその行為を行っているのだから。
「うわぁぁ、バケモノ__________!」
さながら魔女のように人々に畏怖を与えている。人々は恐れ慄き、忌々しげに吐き捨てる。
たくさんの人々が騒ぎ立てるが、誰の声も聞こえない。ただ何かが自分の裡で激しく喚いている。
「頼む……聞いてくれ!」
アデルが懇願する
「矢を射て……!」
混乱の最中で、ロザリンを敵とみなし、軍が弓をつがえ、号令のもとにいっせいに矢が放たれる、ロザリンめがけて。
「やめろ!ロザリンを傷つけるな」
バッと両手を拡げ、彼女の前に立ちはだかり、盾になる。
傍らにいるラフィンスが制すのもきかず、アデルは声を張り上げる。
「待て、この子はこんなことをする子じゃあないんだ。何かの間違いだ」
「何か、そうせざるを得なかった理由があるんだろう?」
「ちがう……間違い、なんか、じゃない」
ロザリンの唇から呟きが漏れる。
「どうして、こんなことをしたんだ?」
かすかに残されていた自我があったのか、アデルの声に耳を傾け、ぐっと、唇を噛みしめる。痛みを堪えるように辛そうな表情を浮かべる。
___________……アデル。
「あなたが悪いんだ。すべて。……くるしい、もう終わりにしてしまいたい」
云った後、ロザリンが逡巡する。
「違う、こんなことがしたいんじゃない」
自分の手を見つめながら声を震わせる。どこか様子がおかしい。
もとより、城を攻撃するまでに至った経緯がおかしいといってよかった。
彼女の中で一体何が起こったのだろうか。
単に、嫉妬に狂って攻撃すべきは、彼だけでよかったはず……向けられるべきは大勢の罪なき人々ではない。
「……私は見失ってしまった」
明らかに、彼女の口から語られるのは彼女であって、彼女ではない者の声。
では、何者だと訝る。
___________どうして、こうなってしまったのか、もしかして、私は悔いているのだろうか?
ロザリンの心のうちで葛藤が生まれる。ロザリンいや、ロザリンのうちにいる何者かのものだろう。
ふたりの想いが混ざって混乱をきたす。
わなわなと震える唇は、なにか別の言葉を紡ぐべきか、やめるべきかと躊躇っているようにも見える。
苦しみ、すさんだロザリンの葛藤を見透かしたように
「今すぐ下りてこい」
つよい口調で発したアデルの言葉にロザリンが顔を上げる。
「何が気に入らないのか、何がそうさせたのか、云ってくれ、全部聞いてやる!」
頭ごなしに全部決めつけようとせずに、正面から向き合おうとするアデルに胸が熱くなり、ロザリンは声を詰まらせる。
「…………だって、くやしかったの、かなしかったの……。だって、だって、あなたがわるい」
アデルとラフィンスが口づけをしているのを見たとき。すごく嫌で、どこかに置いて行かれるような、悲しい気持ちになった。
「どうして、一緒にいられないの?ずっとずっと一緒にいたいのに。……私から、離れていかないで」
「どこにも行かない、ずっとロザリンの傍にいる。__________仲直りをしよう」
アデルが手を差し伸べる。でも、もう無理だ、自分は……手遅れだろう。
嫉妬に駆られてどうしようもなくなって、わけがわからなくなってしまった。
「どうすればいいの……?」
眼に溜まった涙が頬を伝う。
う、う、わ、と涙声で、声にならない声で、必死に堪えながら、嗚咽する。
せき止められていた感情が、せきを切って溢れ出す。
その応えは……アデルがふわり、と微笑む。
「簡単だ。手を、離せばいいんだ」
「覚えているか?子供の頃、木に登っていて降りられなくなったことがあったよな。
こわくて降りられなくなったんだろう。あのときと同じように__________全部受け止めるから」
すべてを手放して解放すればいい。
まっすぐに下にいるアデルの懐めがけて、ロザリンは飛び下りた。
思いに応えるように、ロザリンを自分の胸へとしっかりと受け止めた。
なにものにも代えがたい信頼。幼い頃からずっとそうだ。
どんなことがあっても見捨てず、手を差し伸べてくれる存在がずっとあった。
よかった……。固く抱きしめ、喜んだのも束の間。四方から矢が放たれる。
「やめて!」
手を延ばして叫んだ瞬間、とっさにアデルを庇おうとする。
矢のつぶてが、ふたりめがけて迫り来る。もはや避けることもできない。
三日三晩、眠りつづけて、ようやくアデルが眼を覚ました。あっ、と気付くなり、声を上げる。
ロザリンとラフィンスが寝台の傍らに佇んでいた。
「あ、よかった、やっと眼を覚ました……」
「……ロザリン、ラフィンス……?」
ぼんやりと視界にふたりの姿を捉える。
「ごめんなさい!ごめんなさい!」
わっ、とロザリンがアデルの元へしがみつくように泣き崩れる。
「ああ、……私、いったい何てことを……!みんなにたくさん迷惑をかけて……!」
どっと後悔が押し寄せた。枕元でいっこうに止まない謝罪に、もういいんだよ。とアデルが宥める。
「無事だったんだから、よかったんだ……」
眼を細め、安堵したように吐息を洩らした。
躰に包帯が幾重にも巻かれ、痛々しい。負傷が激しいがとりあえずは生命をとりとめた。
矢が襲ってきたとき、とっさにロザリンに覆いかぶさり、彼女を護った。
おかげでロザリンはかすり傷ひとつない。
アデルが無事だったと、安堵したことで、また涙腺がゆるむ。
「うぅ……、うわ……ん」
「ロザリン、ごめん。俺が悪かったんだ。傷つけてごめん、ひどいことをしてごめん。__________俺を赦してほしい」
「なぜ謝るの?アデルは何も悪くないわ。悪いのはわたしの方なの、に」
「そう思わせてしまった俺が悪かったんだ」
「いいえ、わたしが……」
「_____いいから。仲直りしたんだろう。ふたりとも」
必死に謝罪を繰り返すふたり、このままでは収集がつかなくなるのではと思い、珍しく殊勝なことをラフィンスが云う。
「そうだ、奇跡的にお前以外の負傷者はこの城にはいなかったぞ」
「そうか……それは……すごいことだな!て、どんな奇跡だよ……!」
「この娘も相当反省しているようだ。城の修理費はだいぶ嵩むことになるが」
そう云って頭を抱えるラフィンス。
「でも、よかったじゃないか。ほんとうに…………」
どちらからともなく手を延ばし、言葉にして伝えきれない想いを交わすようにかたく抱き合った。幼馴染であり、従兄妹同士のふたり。
わだかまりが解け、和解した、ようだ。
間違っていた。自分の醜い心が肥大化して、かけがえのないひとびとを傷つけた。
ネフェルフィートも、あのときアデルのような存在がいてくれたら、また違った未来に結びついたかもしれない。
空が黄昏に沈む頃。
ロザリンは城の中庭の草の上で飛び起きた。うたた寝をしていた。びっしょりといやな寝汗をかいていた。
全身に鉛を流し込んだのではないのかと思うくらい倦怠感が酷い。
なんだ、よかった……。と、目覚めたことに安堵する。
さっきまでラフィンスの臣下と剣を交えていたはずだった。
それが、その後、夢を見たのだ。
三人で森の奥の洞窟に行ったこと。この手から魔法で王城を火の海にして、人々を攻撃したこと。アデルが自分を受け止めてくれたこと。生々しさが残る。なにもかもが。
まるで走馬灯のように押し寄せてきて、とっさに気持ちの処理ができない。
これが全部夢だった。なんて不吉な夢だったんだろう。そして、なんてリアルな夢。
いまだに夢と現実との区別がつかないほどだ。
それにしても、最悪すぎる悪夢だった。
罪のないひとたちを無作為に攻撃する。憂さ晴らしや腹いせで。
……たかだか、想い人が自分以外の誰かと口づけしたところで、あんな激しい嫉妬に狂うなんて、なんて愚かなことだろう。_____と、他人は云うだろう。だが、自分にとっては耐え難い出来事だった。夢の中でもあんな思いはもう御免だ。
嫌な予感は止まらない。
もし、これが正夢や予知夢だったとしたら……?
……いや、考えるのはやめよう。
足跡が近づく。
アデルが迎えに来た。ようやく。
「帰ろうか、ロザリン」