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新・私のエッセイ:1号館(No.1~100)

新・私のエッセイ~ 第47弾 ~ 小説とは・・・究極かつ不滅の『だましの芸術』なり❤️

 ・・・小説家とは、ある意味、


 一種の『詐欺師』『大嘘つき』だと思う。


 これらの単語に語弊ごへいがあるようにお感じになるならば、こう言い換えてもよい。


 小説家とは、『魔術師』『催眠術師』である・・・と。


 小説は、


 「私小説」や「自伝」を除けば・・・


 基本、『虚構』『作り話』である。


 単刀直入に云ってしまえば、『ウソ』『出まかせ』。


 なのに、ぼくたちがこれほどまでに、小説にハマり、没頭できるのは、いったいどうしたことなのか!?


 なぜに、ここまできつけられてしまうのか・・・?


 私見しけんだが・・・


 ぼくは、世の中の人間は、大きく分けて、2種類に分類できるのではないかと思っている。


 『リアリスト』


 ・・・そして、


 『ロマンティスト』である。


 「リアリスト」とは、空想や白昼夢・・・あるいは幻想といった、はかない夢に溺れることを嫌い、リアルな現実をしっかりと見つめて生きている人たちのこと。


 「ロマンティスト」は、その正反対の性質の人物。


 その名の通り、夢と空想をこよなく愛し・・・常に「ロマン」を追い求める人のことを指す。


 これも私見で恐縮だが・・・


 いわゆる『評論家』『評論文の大家たいか』というものは、ベタベタの「リアリスト」のような気がする。


 一方、プロ・アマ問わず、ぼくたち小説の書き手は、基本、「ロマンティスト」ではないか、と。


 評論文という分野は、これも私見だが、


 「数学」のようなものだと思う。


 矛盾やほころびが、わずかでもあってはならぬ。


 これは、いうなれば、『理詰めの芸術』。


 ・・・律儀に、精緻に積み重ねられた、厳密なる「論理」「証明」の上に成り立ち、ひとつの集大成としての作品になっている。


 真実と、論理的裏づけ・現実的な証拠品があって、はじめて読み手に認められ、「評論」として成立する。


 小説に「証拠品」はいらない。


 作者によって作られた世界が、『現実』『本物』であることを、わざわざ証明する必要など、どこにもない。


 だって・・・


 最初から「作り物」なんだから。


 ここに小説の魅力・真髄がある。


 作者の力量次第で、


 いかなる人物でも、どんな世界でもつくりだすことができる。


 現実にはまず存在しない、『夢とファンタジーの世界』をも、いともたやすく生みだすことができる。


 さまざまな、魅力的な世界や、ときには恐ろしい悪夢のような世界にさえ、読者を招待することができるのだ。


 そして読者もまた、


 作家のつくりあげた世界に入り込み、足を踏み入れ・・・


 いつしか、物語の世界に迷い込み、現実世界の自分を忘れ、登場人物に自分を重ね合わせ、ときには人物そのものになりきって、ゆっくり旅を楽しむことができる。


 リアリストの方でも、


 夏目漱石先生の不朽の名作『こころ』や、


 三島由紀夫先生の遺作・・・『豊饒ほうじょうの海』


 などを、虚構だからという理由で、一蹴することはないであろう。


 ☆  ☆  ☆  ☆  ☆


 ・・・小説にはまた、


 小説しか持ちえない魅力がある。


 それは、『映画化された作品』を観ればわかる。


 ぼくは、漱石先生の『こころ』のモノクロ映画を観たことがあるが・・・


 感じたのはただ、『違和感』のみ。


 (・・・悪いけどコレは、ぼくの思い描いていた『こころ』の世界じゃない。これこそが『作り物』『虚構』。ちがうちがうちがう・・・これじゃないんだよ、これじゃあ・・・。)


 これが、映画や映像の能力の限界である。


 ぼくたちは、たったひと通りの世界にのみ固定され、限定され・・・


 与えられた世界にのみ生きることしかできない。


 映像を観た人すべてが、『まったく同一の世界』しか体験できないのだ。 


 ・・・その点、小説はちがう。


 文章で書かれている物語なので、個人個人で、


 『見る世界』


 『見える世界』


 『感じる世界』


 までもがちがってくる。


 果ては・・・


 『感じるにおい』


 『感じる味』


 といった、そこにあるはずのない感覚までもが、


 映像を超えた「ナマの感覚」として、実際に感じられる人さえいるはずだ。


 物語の主人公や脇役、エキストラの心情を生々しく描き、ときには容赦なくエグり出し・・・


 彼らの人生を、自分に一番適合したカタチで『追体験』することもできてしまう。


 映像はまた、


 視聴者の意思に関係なく、どんどん先を急いで流れていってしまい、


 なかなか立ち止まってじっくりと考える時間・いとまを与えてはくれない。


 小説は、いつまでも「待ってくれる」。


 紙の本であれ、デジタル媒体の物語であれ、目の前にいつまでも存在し、


 ぼくたちが読み進めるのを、せかすことなく、ゆっくりと、いつまでも優しく待ってくれる。


 その場に立ち止まってもいいし、前に戻って読んでも、小説は読み手のぼくたちにいじわるな文句を言ったり、責めたりはしない。


 ・・・とてもおだやかで静かで控えめな、心ある『紳士』『淑女』でもあるのだ。


 だから小説は、CGやAIが発達した現代社会においても、


 消滅することはけっしてないのである❤️


 m(_ _)m

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