ヒーローは遅れない
ヒーローは遅れて登場するというけれど、できれば遅れないほうが良くないか?
(いやいや、私もよく遅れて登場させるけどね!)
という思いから生まれた作品。
ご意見、ご感想お待ちしております。
★NEW★ 10/13ヒーロー視点も投稿しました。
https://ncode.syosetu.com/n5317il/
こちらを読み終わった方は是非!
ヒーローは遅れて登場するってよく言うでしょう?
でもそれってどうなのかしらって私は思うの。
最初にそう思ったのは10年以上前だったかしら。
とあるお屋敷で開かれた、子供のためのパーティーで起きた事件。
賑わいをみせていた会場に、いきなり賊が侵入し子供たちを攫った。身代金目的の誘拐だったと聞いている。
その時攫われた子供というのが、私――アンナ・バローズとライアン・フォルスターだった。
あの時のことは今でも忘れることはできない。
どこからともなく火炎瓶が投げ入れられ、それと同時に凶暴な犬が放たれた。
子供とそれを見守る親たちの笑い声で溢れていた空間は、一転して悲鳴や泣き喚く声が響く場に姿を変えた。
そしてその混乱に乗じて賊が侵入し、逃げ遅れて人だかりから一人外れてしまった私は賊の標的となった。
賊の男の目がにやりと弧を描いた。
「よお。嬢ちゃんの親はいくら出してくれんだろうな」
顔の下半分を布で隠した男のゴツゴツとした大きな手に左腕を掴まれ容赦なく引っ張られ、あまりの怖さに声を出すこともできなかった。
自分はこのまま連れ去られてしまうのかと恐怖に目を瞑った私の右手を、柔らかく温かな何かが掴んだ。
何が起きているのかわからない状況の中、その温かさに縋るように目を開けると、視界に映ったのは必死の形相で私の手を握ったライアンだった。
賊の男はライアンを振り払おうと私たちの小さな身体を振り回したり、ライアンを殴ったりもしたが、それでも彼はその小さな手を離さなかった。
ライアンを振り払う時間が惜しいと感じた賊は、結局私とライアンの二人をまとめて連れ去った。
その後どういうやりとりがあって私たちが助けだされたのかはわからないが、解放されるまでの間、ライアンはずっと私を励ましてくれた。
私の手を離しさえすれば、殴られて傷を負うことも一緒に誘拐されることもなかったはずなのに、それでもライアンは私を一切責めることなくずっと「大丈夫だよ」「絶対助けが来るよ」と希望を持たせてくれた。
この時からライアンは私のヒーローになった。
でも物語の中でのヒーローとは少し違う。物語のヒーローは、ヒロインが絶体絶命の窮地に陥るとギリギリのところで登場することが多い。
けれど私のヒーローはもっと前に助けてくれた。窮地に陥る前に助けようとしてくれたのだ。
それだけで十分だった。けれどライアンはその後も私を救ってくれた。
誘拐事件の後、私は人々の悪意ある視線に晒されるだろうと思われた。
いくら何もなかったとはいえ、数時間も見知らぬ悪党のもとに監禁されていた令嬢に貴族の世界は優しくはしてくれない。
両親や兄は気にするなと言ってくれたけれど、いわゆる傷物として扱われるであろうことは目に見えていた。
貴族の娘として生まれたのに、まともな結婚もできず家のお荷物になってしまう可能性の高い自分が情けなかった。
そんな私を救ってくれたのはやっぱりライアンだった。
傷物である私と婚約したいと申し出てくれたのだ。これには私だけでなく家族も皆驚いた。
というのも、女の私と違いライアンは、身を挺して賊に立ち向かった勇敢な少年として評価が上がっていた。
元々端正な顔立ちをしていたライアンは人気があったのだけれど、誘拐事件のことで余計に少女たちの心をときめかせた。
だからこそ、今後いろいろな家から婚約の打診が来るだろうと思われていた。言い方は悪いが選び放題だ。
それなのに、ライアンは私が良いと言ってくれたのだ。「あの状況で、巻き込んでごめんなさいと他者を気遣えるバローズ伯爵令嬢がいいんだ」と、そう言ってくれた。
嬉しかった。
私に対して人々がいろいろと言う前に婚約を結んだことで、『固い絆で結ばれた二人』と表面上は好意的に見てもらえることとなり、私が傷つくことはなかった。
正式に婚約を結んでしばらくしてから二人で参加したガーデンパーティーでも、ライアンは私を守ってくれた。
前述したように、ライアンの顔はとても整っていて、しかも侯爵家の嫡男ということもあり、同年代の少女たちからの人気は高かった。
それは私という婚約者が決まってからも変わらず、中には私に婚約者を辞退するようにと詰める人までいた。
当時の私は今よりもぼんやりとしていて、どちらかというと人の悪意に鈍感だった。
だから同年代のあまり話したことのない華やかな少女たちからにこやかに声をかけられた時、新しいお友達ができると信じて疑わず、ライアンに断りを入れて傍を離れた。
彼は最後まで私が離れることを心配してくれていたけれど、大丈夫だと押し切った。
それはパーティーに来ていたライアンのお友達と、私のことを気にせずゆっくりお話してほしいという気持ちもあったのだけれど。
とにかく、その少女たちについてパーティーの休憩場所として用意されていた屋敷内の一室に行った。
初めのうちは本当にただただ楽しいお喋りをしていた。
それぞれの好きな花に始まり、最近はこんな物語が流行っているとか、婚約者はもう決まったのかとか、そんな話をしていた。
けれど最初は四人いた少女たちが一人、また一人と徐々に退室していった。婚約者を待たせているからと言って出て行った少女たちを、直前までそれぞれの婚約者の話をしていたこともあって初めは何も不思議に思わなかった。
けれど三人目もいなくなった時、これはさすがに……と思い、最後に残った一人を見ると、それまでは朗らかな笑顔であった表情が一変し、こちらを嘲笑うかのような笑みを向けられた。
「本当に馬鹿な子。あなたみたいな子がライアン様の婚約者だなんて信じられないわ。ねえあなた、悪いことは言わないから辞退しなさいな」
「……え?」
私が聞き返すと、それすら癇に障ったようで最後まで残った少女は眉を顰めた。
「まあ、愚図だこと。あなたじゃライアン様に釣り合わないと言っているの。ライアン様だってあのような事件がなければあなたなんかと婚約を結んだりしなかったはずよ。あの方はお優しいからまともな婚姻が難しくなったあなたに同情したに違いないわ。本来ならお断りするべきところよ」
「そ、れは……伯爵家である我が家が侯爵家の申し入れをお断りすることなんて……」
できるわけがない。そう言ったけれど、本当は私にもわかっていた。他にもそうやって言ってくる人たちはいたから。
婚約を申し込まれた時はとても嬉しかったけれど、ライアンは責任感からそう言ってくれたのだと本当はわかっていたのだ。
彼はあの時たまたま私の近くにいて、とっさに手を伸ばしてくれたから巻き込まれただけで何の責任も感じる必要はなかったのに。
本当は私なんかよりももっと素敵な人を傍に置くことだってできるのに。
わかっていた。けれど手放したくなかったのだ。
あの時から変わらず私を支えてくれるあの温かな手を、自分から放すことなんて私にはできない。
だからこそ、もっともらしい言い訳を口にした。
「まあ、それもそうよね。すばらしい言い訳だわ。だから私、あなたが自分からお断りしやすいようにして差し上げようと思うの」
そう言って目の前の少女は口の端を上げた。
その顔はとても恐ろしく、自分はこれから何をされるのだろうという恐怖が沸き上がった。
「あの、何を……」
「ふふふ、大丈夫。何も心配することないわ。本来あるべき形に戻るだけよ。ライアン様はあなたから解放されて自由になる。あなたは一人になって受けるべき視線に晒される。ただそれだけ」
「何を、何を言って」
「今まで本来得られないはずの幸せを享受してきたのでしょう? 余分に得過ぎたものがその身から零れるだけ」
そう言って笑みを浮かべながら少女は立ち上がった。
このままここに座っていてはいけないと、私の中の本能がそう告げた。しかし立ち上がろうとした私の肩を、爪が食い込むほどの力で少女は上から押さえ付けた。
「あなたはまだ駄目よ。もっと後から戻ってきなさい。私の後をすぐにでも追おうものなら私――何をしてしまうかわからなくてよ?」
「っ!」
蛇に睨まれた蛙というのはこういうことをいうのだろうか。
にやりと弧を描く少女の目を見たとき、かつての賊の記憶がよみがえり、立ち上がることができなかった。
情けなくて涙が溢れそうだった。
少女が部屋を出て行った後、ふっと身体の緊張が解けた。 震える手を握りしめ、数回ゆっくりと深い呼吸を繰り返す。
すぐにこの部屋から出るべきだと心ではわかっていた。
けれど今会場に戻れば自分の身にいったい何が起こるのか、少女が何をするのかを考えてしまい足がすくんだ。
私をこの部屋に連れてきた少女たちは子爵家から侯爵家までのご令嬢で、最後まで残ったのはそのリーダー格と思われる少女だった。
もし何かされたとしても、伯爵家の娘の立場では弱い。私の味方になってくれる人はいったいどれだけいるだろうか。
そんな不安ばかりが心を支配しそうになるが、それでも私にはライアンがついていてくれると気持ちを持ち直した。
きっと今だって少女たちは戻っているのにひとり戻らない私を心配して探してくれているに違いない。
少女たちが正直にここにいることを話すとは思えないが、それでもライアンならばと信じられた。
「大丈夫、大丈夫よ。私は何も悪いことはしていないのだから。堂々と胸を張って進めばいい」
以前ライアンから言われた言葉を呟く。そうして自分の頬を両手でパチンと軽く叩けば足にぐっと力が戻った。
一つ大きく息を吐き、退室するために扉に向かおうと立ち上がった時、ノックの音もせず急に扉がバンと開いた。
見れば、見知らぬ男性がひとり。驚きに目を丸くした私を見てにやりと笑った。
「へえ、思ってたより悪くないな」
その言葉に私は瞬時に事態を理解し、状況のまずさを悟った。
『あなたが自分からお断りしやすいようにして差し上げようと思うの』
あの少女が言っていたことはこれだったのだ。
誰もいない部屋に男女二人きりの状況を作る。貴族の娘として、これは十分な醜聞となりえる。
たとえ何も起きていなくても、人々は好き勝手面白おかしく噂をするだろう。
そして率先してその噂を流すのは先ほどまでこの部屋で楽しく談笑していたあの少女たちに違いない。
いくら私が反論したところで、華やかで自信に溢れる彼女たちの話と、自分のせいではなくとも過去に難のある私の話、どちらを信じてくれるかなんてわかりきっている。
そんなことになったらライアンとの婚約は白紙に戻るだろう。
いくら彼が良いと言っても、そんな問題のある娘を彼の家族は望まないはずだ。
彼女たちの目的は初めからこれだったのだとわかった時、自分の愚かさと情けなさに泣きたくなった。そして――怒りが込み上げた。
私はなんて愚かなのだろう。
自分の立場をもっと認識するべきだった。
ライアンがどれだけ魅力的な人かなんて、私が一番知っていたはずなのに。彼を狙うご令嬢が多くいることをわかっていたはずなのに。
付け入る隙を与えてはいけなかった。
少しにこやかに声をかけられたからといって、付き合いのないご令嬢にのこのこと付いて行くべきではなかった。
いくら家族やライアンが守ってくれると言っても、自分の脚で立たなくていいわけではない。
いつまでもただ守られているだけでなく、私自身も変わらなければならなかったのだと急速に理解した。
けれど理解したところでこの状況は変わらない。
今できる最善を考えた。
「私はもう出て行きますので、こちらどうぞ」
精一杯の虚勢を張って笑みを浮かべる。
「面白い冗談だ。俺がここを通すと思っているのか?」
そう言って男性は入り口を塞ぐように立つと、私を上から下まで舐めるように見て「タイプとは違うけど、なかなかの上モノじゃないか。ふふ、女性の嫉妬って怖いねぇ」と笑った。
その視線の意味を感じ取り、身体が恐怖で震えるが俯くわけにはいかなかった。
私は男性を睨みつけ覚悟を決めた。叫ぶ覚悟だ。
叫んで、人が駆け付ければ間違いなく醜聞になる。けれど身の貞操は守られる。
(……ライアンとは、もう一緒にいられなくなってしまうけれど)
けれど、実際に手を付けられるという最悪の事態だけは避けなければならない。
これは今まで守られることに慣れ、甘えてきた報いなのだ。
「……入ってこないで。これ以上近づいたら叫ぶわよ」
「ははっ、毛を逆立てた子猫のようで可愛いじゃないか。できるものならやってみればいいさ。その結果が自分にとってどんなことになるかわからないわけじゃないだろう?」
そう言って男性は扉をゆっくりと閉めにかかり、私は息を思い切り吸った。
そうして扉が閉まりきる前に、私が声を出そうとした時、バンッと大きな音とともに扉が押され、寄り掛かりながら後ろ手に扉を閉めていた男性は勢いよく弾かれた。
「……いた」
声とともに部屋に入ってきたのは額に汗を光らせたライアンだった。
叫ぶために大きく開けた口をそのままに、ぽかんとライアンを見る私に気づいた彼は扉を閉めるとゆっくりとこちらにやってきた。
「アニーの姿が見えなくて心配したよ。遅くなってごめんね。大丈夫だった?」
私の手をそっと握るライアンの手はあの時と同じでとても温かかった。
(ほら、やっぱり私のヒーローは遅れたりしない。だって私はまだ指一本触れられていないもの)
張り詰めていた気持ちが解れたことで溢れそうになる涙をぐっと堪え、笑顔でライアンと向き合った。
「ええ、大丈夫。遅くなんかないわ。まだ何もされていないもの」
「……何かされていたら僕は――ひとりにしてごめん」
ライアンは私をぎゅっと抱きしめてくれた。
握りあった私の手が震えていたことに気づいたのだろう。
「ううん、私が迂闊だったのよ。来てくれてありがとう」
ライアンは私を優しく見つめるともう一度私をきつく抱きしめた。
そして扉に吹き飛ばされて床で痛がる男性に、今まで見たことのない冷たい視線を送ると「良かったね、君」と言った。
「もし僕のアニーに指一本でも触れていたら、そんなもんじゃ済まなかったよ」
口は弧を描いているのに目がまったく笑っていなかった。
ライアンは私を椅子に座らせると男性のもとまでゆっくりと行き、床に転がる男性に視線を合わせるようにしゃがんだ。
「君、コルドー家の分家の人だよね?」
「……」
「あれ? だんまり? まあ、いいけどね」
コルドー家といえば侯爵家だ。そして、先ほど私を脅していった少女―—ヘンリエッタがコルドー侯爵令嬢だった。
やはり、間違いなくそういうことなのだろう。
こんなことまでして私にライアンの婚約者を辞退させたかったということは、彼女はライアンのことが好きなのだろうか。
たとえそうだとしても、仮に私がライアンの婚約者でなくなったとしても、あんな子に優しいライアンの横にいてほしくない。
「……おいっ! 何をする!」
私が考え事をしている間にライアンは男性の手首と足首を紐のようなもので縛り、「しばらくそこで転がってなよ」と言って私の隣に戻ってきた。
「ライアン、あの、あれ……」
「ああ、逃げられても困るからね。え? あの紐? いざという時のためにいつも持ち歩いているんだけど、役に立って良かったよ」
「いつも?」
「うん。あ、他にもあるよ?」
ライアンは私の耳に顔を寄せると「武器になるようなものも一つ持ってるんだ。他の人には秘密だよ」と言った。
「どうして、そんなものを?」
「アニーを守るため」
「……私?」
「うん。僕あの時から少しずつ鍛えてるんだ」
今度あんなことがあっても攫わせたりしないとライアンは真剣な顔で言った。
「まあ未然に防ぐのが一番なんだけどね」
それが一番難しいと苦笑した。
私は感動とともに恥ずかしくなった。私がのほほんとぬるま湯に浸かっている間も彼は私のために動いていてくれた。
「……」
「アニー?」
「……ライアン、好き」
ライアンは目を見開いてから笑顔になった。
「ふふ、珍しいね。アニーがはっきり言葉にしてくれるなんて。うれしいな、僕も好きだよ」
手を繋いで笑い合う。
この温かくて優しい手を離すなんてできない。絶対に手放したくない。
私は決意をもってライアンを見つめた。
「ライアン」
「ん?」
「私、頑張るから。ライアンが守ってくれるのはとても嬉しい。でもそれに甘えているだけでは駄目なの。私が弱いと思われているからこんなことが起きるんだわ。変わりたい。変わらなくちゃいけないの」
いきなり変なことを言っている自覚はあった。けれど、この決意が揺らぐ前に伝えるべきだとこの時の私は思ったのだ。
ライアンは目を細めて私の頬に手を寄せた。
「アニーは昔から強いよ。決して弱くなんかない。周りが気づいていないだけさ。今のままで十分魅力的だよ……でも、そうだね。君が変わりたいっていうなら応援する。でも、わかって。君が弱いから守っているんじゃないんだ。君が好きだから守りたいんだよ。だから、僕が甘やかすのは許してくれる?」
「もちろんよ。ありがとう」
ライアンの胸に頬を寄せると優しく抱きしめられた。
同情なんかじゃない。たしかにライアンは私を想ってくれていると、言われなくても今ならわかる。
ライアンの鼓動を聞きながら幸せを噛み締めていると、手足を縛られた男性が「おい! 俺がいることを忘れてるんじゃないだろうな! いい加減解放しろ!」と喚いていた。
「うるさいな。君、自分の立場わかってるの? 口も塞いでおこうか」
ライアンがそう言った時、部屋の外から話し声と足音が聞こえてきた。
「――あちらです。バロ――伯――嬢が具合――いと――」
「ああ、やっと来たみたいだね」
「ライアン?」
「あれ、きっとコルドー侯爵令嬢たちでしょ? きっとああやって誰かを連れてきて、アニーがそこの彼と一緒にいるところを目撃させようとしたんだろうね。それであることないこと吹聴しようとしていたんじゃない?」
「やっぱり……」
「ごめん、きっと僕のせいだ」
ライアンの話によると私と婚約しているにもかかわらずコルドー家から婚約者変更の打診を受けていたという。
「いくら娘可愛さとはいえ、非常識にもほどがある。今もきっと僕をここに連れてきたかったんだろうけど」
ライアンはコルドー侯爵令嬢以外の3人が会場に戻って来た時に、私の身を案じてこっそり会場から抜けたそうだ。
本当はライアン自身に私が他の男性と二人きりでいるところを目撃させ、非難するつもりだったのだろう。
けれど最後に会場に戻ったコルドー侯爵令嬢は、ライアンを探しても見つけられなかったから他の人を連れてきたのだろうとライアンは言った。
「先に見つけられて良かったよ。ふふ、反応が楽しみだなあ」
ライアンは悪い顔をして笑った。
そのタイミングで扉が開く。
一番初めに飛び込んできたのはコルドー侯爵令嬢だった。
彼女は部屋に入るやいなや、「きゃあー!! バローズ伯爵令嬢、あなたそこで何をしてらっしゃるの!」と叫んだ。
けれどその声に答えたのは私ではなくライアンだった。
「おや、皆さんお揃いでどうかしたんですか?」
「……え? え? なぜライアン様がここに……? だってその子の隣にいるのは」
「そこの彼のはずでしたか?」
ライアンの視線の先には開いた扉によって頭を打ち気絶している手足を縛られた男性だった。
「ルイス!」
思わずといった様子で男性の名を叫んだコルドー侯爵令嬢はハッとして手で口を塞いだ。
「へえ? そこの彼はルイスという名でしたか。コルドー侯爵令嬢はよくご存じのようだ」
「……っ! いえ、それは、その」
「これはいったいどういうことじゃろうかな?」
ライアンの代わりに連れて来られたのはお医者様だった。その彼が呆れを滲ませて口を開いた。
病人がいるとでも言われて連れてこられたであろうお医者様には納得がいかない状況だろう。
「僕の婚約者がいるこの部屋に、そこで転がっている男が侵入しようとしていました。ちょうど扉が閉まるタイミングで僕が駆け付けたから良かったものの、一歩遅かったらと思うとゾッとしますね」
「ほうほう。お嬢さん方、詳しく話を聞く必要がありそうじゃなあ」
お医者様の目がスッと細められる。お医者様はガーデンパーティーを主催した公爵夫人がお連れになった方だという。
そもそも本日のこのパーティーは、まだ夜会に出ることのできない若い子女の経験の場として開催してくださったもの。
その善意により開かれたパーティーで悪意を持って人を陥れようとするなんて許されることではない。
陥れられた本人はもちろん、主催した側も安全管理に問題があったと叩かれる可能性もあるのだ。
「わ、私たちは何も知らないわ! バローズ伯爵令嬢がその男性を呼び込んだのよ!」
「そうよ、そうよ! それをライアン様に見つかってしまったから嘘で誤魔化しているに違いないわ!」
コルドー侯爵令嬢たちの主張にライアンは眉を顰めて鼻で笑った。
「ではお聞きします。貴女たちがここにお医者様を連れてきたのはなぜですか?」
ライアンの問いにお医者様が答える。
「わしはこのお嬢さん方に、具合の悪くなったご令嬢がいると聞いてやってきたんじゃよ」
「そうよ!」
「おや、それはおかしいですね」
「何がおかしいの? 私たちは善意で――」
ライアンはわざとらしく頭を横に振る。
「おかしいですよ。貴女たちは一緒にいたアニーが具合が悪くなったからとお医者様を呼びに行ったわけですよね? 普通に考えれば、その場合お医者様を連れ立って戻ってくることは誰にでも想像できる。それなのに、そこに男性を呼び込む馬鹿がどこにいます?」
「そ、それは……」
ライアンの追及に、コルドー侯爵令嬢たちは言い返すこともできず視線をソワソワと彷徨わせた。
そしてその視線の先に私を映すとハッとしたように目を見開いた。
「勘違い、そう、勘違いよ! この部屋にいないはずの男性がいたから驚いてしまっただけよ。ごめんなさいね、ライアン様の婚約者であるあなたが他の男性を呼び込むわけないわ」
「そ、そうだわ。そこで転がっている男性が勝手にこの部屋に入ってきただけよね」
「本当に恐ろしいわ。怖かったでしょう?」
「具合の悪いあなたを一人残していくべきではなかった。誰か一人でもこの部屋に残るべきだったわ。愚かな私達を許してちょうだい」
呆れた。
ある意味見事な連携プレーだけれど。
直前で言っていたことと正反対の言い訳を並べる。許してと言いながら、視線は自分たちの話に合わせるようにと言っていた。
あくまでも私が具合が悪くなったから自分たちはお医者様を呼びに行ったのだと主張するようだ。
なぜ私がその命令に従うと思うのだろう。
ライアンが来てくれなければ私はこの身を汚されてしまったかもしれないし、そんなことになれば彼の婚約者でいられなくなっていたかもしれないのに。
こんな仕打ちをされてなお反抗できないほど弱い人間だと思われているのだ。
馬鹿げている。
大人しくしているからといって、すべてに無抵抗なわけではない。
私はにっこりと笑顔を浮かべてコルドー侯爵令嬢を見据え、何を言われているのかわからないというふうに首を傾げた。
「私、具合が悪くなどありませんよ? もしそう見えたのなら、それはコルドー侯爵令嬢に脅されたからではないでしょうか」
「脅された? 何を言われたの?」
「ライアンとの婚約を、私のほうから断りやすいようにしてあげるって。あとは、この部屋からすぐに出て行ったら何をしてしまうかわからないって言われたわ」
「へえ」
すべて本当のことだからかスルスルと言葉が出てきた。
それに比べてコルドー侯爵令嬢たちは私がそんなことを言うと本気で思っていなかったようで、口の端をひくひくと引きつらせ、顔に浮かべる笑みもぎこちないものに変わっていた。
「い、嫌だわバローズ伯爵令嬢ったら。きっとあなたは気が動転していて記憶が曖昧なのよ」
「私はいたって冷静ですよ。動揺しているのはコルドー侯爵令嬢のほうではありませんか?」
「動揺なんてしていないわ。やましいことなど何もないもの。私たちはあなたを心配してお医者様まで連れてきたというのに……それなのに脅されただなんて、あんまりだわ」
そう言ってコルドー侯爵令嬢は目を伏せた。
すごい。この状況で自分のほうが被害者だとでもいうように振る舞えるなんて。この精神力の強さだけは見習いたい。
「ヘンリエッタ様……。バローズ伯爵令嬢、なんてことを仰るの?」
「ヘンリエッタ様がそんなことするわけないでしょう?」
「あなたが体調が悪いと言ったからお医者様を呼びに行ったのに……私たちは皆それを見ているのよ? どうしてそんな嘘を吐くの?」
「……嘘など吐いておりませんわ」
たしかに私の証言以外、彼女たちの悪意を示す証拠はどこにもない。状況から想像することはできるだろうが4対1の証言では彼女たちに分がある。
「たしかに、コルドー侯爵令嬢たちがアニーを陥れようとしたという確かな証拠はまだないね。貴女たちの言うことを信じる者も多いでしょう」
「……!」
ライアンのこの言葉にコルドー侯爵令嬢たちの顔に笑みが浮かぶ。
「まあ! そうですわ、ライアン様。わかってくださいまして?」
「けれどバローズ伯爵令嬢を責めないであげてくださいませ。きっとどうにかしてライアン様の気をひこうと――」
「だからといって僕が信じるのはアニーだけという事実は変わらない」
自分たちのほうを信じてもらえたと思った彼女たちは勢いを取り戻しかけたが、ライアンの冷え切った眼差しを真正面から受け、ひゅっと息を飲んだ。
「まあそこのルイスでしたか。コルドー侯爵令嬢がよくご存じの彼が都合よくこの場にやってきたことにも疑問はありますがね」
どうせ私たちが何を言ったところでコルドー侯爵令嬢たちは認めないのだから、この場でこれ以上話を続ける意味はないだろうとライアンは言った。
「あとは公爵夫人の判断にお任せいたしましょう」
「えっ? こ、公爵夫人に……?」
「ええ。少なくとも公爵夫人が開いてくださったこのパーティーで、女性に無体を働こうとした者がいたという事実はありますから」
ライアンが未だ気絶したままの男性を一瞥すると、コルドー侯爵令嬢たちの顔色が悪くなった。
「では夫人への報告はわしが引き受けようかのう」
お医者様が任せなさいと手を挙げた。
「良いのですか?」
「よいよい。第三者として抜かりなく報告させていただこう。何か処罰がある場合は連絡がいくじゃろうて」
お医者様はそう言って私たちにもう帰っても良いと言ってくれたので、お礼を言い、お言葉に甘えて帰らせてもらった。
その場に残されたコルドー侯爵令嬢たちの顔色はひどく悪いものだったけれど、自業自得なので同情することはなかった。
その数日後、なんと公爵夫人からお手紙が届いた。
今回の件について私たちに非はなく、自分の開いたパーティーで怖い思いをさせたことに対する謝辞と、これに懲りずにもし良かったらまた参加してねというようなことが書かれていた。
これをきっかけに公爵夫人にしっかりと名前と顔を覚えていただけたのでむしろなんだか得をした気分だ。
あちらの方たちはといえば、第三者の新たな証言が出なかったのを良いことに、あの後も知らぬ存ぜぬをつき通したらしい。
結果としてあのルイスという男性だけが全てを押し付けられ処罰を受けたそうだ。
納得できはしないが、証拠もなければ仕方がないかと思っていたある日、ライアンとお茶をしている時にコルドー侯爵令嬢たちが謹慎させられており、しばらくはパーティーなどに出てくることもなさそうだという話を聞いた。
どうやらあの件のことが皆の知るところとなり、特に同じ女性から男性に襲わせようとするなんて信じられないと非難を浴びているらしい。
「そうだったの。しばらく会わなくすむというなら気が楽だわ」
「まあ、最低限それくらいの罰は受けてもらわないとね」
ライアンは当然だと頷きながら紅茶を口に運んだ。
「……ライアン、あなた何かした?」
「何も? ただお喋り好きな友人の母親の前で、こんなことがあって僕は怒っているんですよってお話しただけだよ」
「してるじゃない!」
やっぱりしていた。さすがライアン。
私がくすくすと笑うと、ライアンもにんまりと笑った。
「まだ婚約者が決まっていないご令嬢もいるみたいだから、これから大変だろうね。僕だったらあんなことをする女性なんて絶対に嫌だよ。まあ、そもそも僕はアニー以外はお断りだけどね」
ライアンが気障ったらしくウィンクを決めたので、私はまた笑ってしまった。
「とにかく、そっちが忙しくて悪だくみをする余裕もしばらくはないんじゃないかな」
「ありがとう、ライアン」
「ふふ、僕は自分のやりたいようにやっているだけだから気にしないで」
そう言って微笑みながら私の手に重ねられたライアンの手は昔に比べると男らしく大きくなっていたけれど、やはり温かかった。
私のヒーローはこんなにも素敵だと、もう何度目かわからないけれどまた惚れ直した。
その後も、ライアンは一度も遅れたりしなかった。
それどころかこちらが気づく前にすべてを片付けてしまっていたりするものだから、私の周りは年々穏やかに平和になっていくばかりだ。
私のあの時の決意は何だったのかと思ったりもするけれど。
「アニー? 何か楽しいことでもあった?」
思い出し笑いをしている私の顔をライアンが覗き込む。
あれから数年が経ち、ライアンはより素敵な男性になった。
「ううん、ヒーローの登場を必要とする場面にすら出くわさなくなったと思って」
「何それ? あ、そこ段差あるから気をつけて」
ライアンは不思議そうな顔をしながらもバランスを崩さないように私を支えてくれる。
「ありがとう」
今では私の身に起こる危ないことといったらこれくらいのものだ。
まあ、それですら今のようにライアンが先回りしてくれるのだけれど。
「本当に、私のヒーローは遅れないわね」
くすくすと笑いながら呟くと、私の手を引くライアンが振り返った。
「ん? 何か言った?」
「何でもないわ」
笑いながら腕に抱きつく私をライアンも笑顔で受け止めてくれる。
今この瞬間も、そしてこれから先も、きっと私のヒーローは遅れたりしないのだ。
「これからもずっと大好きよ。私のヒーローさん」
そう言って私は彼の頬にキスをした――。
連載中のものが行き詰まるとなぜか短編が思い浮かぶ。
不思議ですな...( = =)