もう二度と騙されません
「────離婚して欲しい」
いつもと変わらぬ、慌ただしい朝────トースト片手に新聞を読む夫、高田真守は突然離婚を申し出た。
まるで、『今日の晩飯はハンバーグにしてほしい』とでも言うように。
あまりにも自然に言うものだから、最初は『冗談か?』と思ったものの……新聞の向こうから見える夫の顔を見て、本気だと悟る。
ニコリともしない無表情でこちらを見つめる夫に、私は戸惑う。
だって、結婚してから今日まで離婚なんて考えたこともなかったから。
私からすれば、まさに青天の霹靂だ。
「えっ?ど、どうして……?」
困惑を隠し切れない私は手に持った夫のネクタイを握り締め、何とか声を振り絞る。
すると、彼は下を向いた。
「……奈美に魅力を感じなくなった。なんていうか……一緒に居すぎて、新鮮さが足りなくなっちゃったんだよね」
平坦な声で言葉を紡ぐ夫は、台本を読んでいるようにしか見えなかった。
違和感を覚える彼の態度に、私は更に混乱する。
「し、新鮮さって……そりゃあ、確かに恋人時代のようなドキドキ感はないかもしれないけど、夫婦ってそんなもんじゃない?」
「じゃあ、僕は結婚に向いてなかったんだと思う。だから、離婚して」
「いや、いきなり離婚って言われても……こっちだって、色々考えたいし……」
即断を避けるように言い淀むと、彼はおもむろに顔を上げた。
「なら、なるべく早く答えを出してよ。それまで一旦別居しよう」
「ちょ、ちょっと待ってよ!そんな勝手に……!」
取り付く島もない夫の態度に、私は思わず泣きそうになった。
だって、それなりにいい結婚生活を送ってきたつもりだから。
そりゃあ、もちろん価値観の違いでぶつかることもあったけど、その度に話し合って解決してきた筈だ。
おしどり夫婦とまではいかずとも、ある程度仲良くやってきたと思う。
少なくとも、私は安村奈美から高田奈美になって後悔したことなど一度もない。
強いて言うなら……夫からの要望で寿退社し、専業主婦をやっていることくらい。
本当はもっと働きたかったから……でも、高給取りの夫に『養う』と言われたら、強く言えなかった。
私の収入なんて、たかが知れているし……何より、早めに子供が欲しかったから。
新婚生活を数年楽しんだら妊活へ入ろうと、夫とも話し合っていた。
なのに、突然離婚だの別居だの……訳が分からない。
『そんな兆候、一切なかったのに……』と、私は顔を歪める。
沈んでいく気分に押されるまま俯くと、胸あたりまである自分の黒髪が目に入った。
『もしかして、外見も理由の一つかな?』と考えつつ、自分の地味な容姿を思い浮かべる。
────と、ここで夫がテーブルに新聞紙を置いた。
「とりあえず、僕はしばらくビジネスホテルに泊まるから。決心が固まったら、連絡して。じゃ」
混乱する私を置いて、早々に話を切り上げた夫は立ち上がる。
そして、私の手からネクタイを取り上げると、自身の書斎に入った。
かと思えば、出張用のキャリーバッグを持って玄関へ向かう。
『いつの間に荷造りなんて……』と絶句する中、夫はさっさと家を出ていった。
────それから、夫は帰って来なかった。
一度『再構築したい』と連絡したものの、離婚以外の選択肢は有り得ないのか、まさかの返信なし……。
なので、別居から二ヶ月経つ頃には私も離婚を考えるようになった。
たとえ、再構築できたとしても話し合いを放棄するような人とはやっていけないと思ったから。
そのため、離婚後の生活を見据えて就職活動に励んだ。
結婚期間三年で、財産らしいものは特にないし……たとえ、貯金を全額貰っても引っ越し費用やらなんやらで直ぐに無くなるだろう。
だから、何としてでも再就職先を見つけなければならなかった。
幸い、私は資格持ちで実務経験もそこそこあるから、選り好みしなければ直ぐに決まる筈。
そうして、何とか再就職先を決めた私はいよいよ夫に連絡した────離婚を受け入れる、と。
その後はトントン拍子に話が進み、貯金は私・家財道具は夫に分配することで決着した。
無事引っ越し作業も終わり、先日離婚届を提出したため私達はもう他人である。
自分の中でケジメを付けようと住み慣れた土地から離れたからか、思ったよりダメージは少なかった。
別居期間を除けば、随分とスピーディーな離婚劇だったなぁ……。
夫は……いや、真守くんは事前に色々決めていたのかなぁ。
あまりの手際の良さに少しモヤモヤする私は、『結局最後まで真守くんの本心は見えなかったな』と考える。
────が、全部今更だと気づいた。
だって、真守くんと私は既に離婚していて……何の関係もないから。
もう過去のことは忘れて、未来を向いて歩いていった方がいいだろう。
『別れた夫に未練タラタラっていうのもダサいし』と思い、私はここぞとばかりに独身生活を謳歌した。
高級ビュッフェに映画鑑賞!好きなアーティストのコンサートまで、やりたい放題!
離婚前は専業主婦だったから、真守くんに色々遠慮していたんだよね!
どうしても、自分のお金じゃないって意識があったから……でも、今はそんなの気にしなくていいし!
案外、離婚して良かったかもしれない!
『職場の人達もみんな気さくで優しいし』と浮かれながら、私は定時で退社する。
そして、友人の桜田桃子が待つ居酒屋へと急いだ。
スイスイとすり抜けるように人混みの中を進み、私は目当ての店の前で立ち止まる。
ここに来るのも、本当に久しぶりだなぁ。
などと思いながら素早く中へ入ると、先に入店していた桃子がこちらに気づいて手を振った。
『こっち、こっち!』と叫ぶ彼女に一つ頷き、私はそちらへ足を向ける。
座席案内のためやってきた店員さんに一言断りを入れてから歩き出し、桃子の居るテーブルへ辿り着いた。
「久しぶり、奈美!てか、髪切ったの!?短いのも結構可愛いじゃん!」
「ありがとう。自分の気持ちに踏ん切りをつけるために切ったんだ。そういう桃子は相変わらず、派手だね〜。まあ、似合っているけど!」
元気よく話し掛けてきた桃子に笑顔で応対し、私は向かい側の席へ腰を下ろす。
と同時に、近くの店員さんを捕まえ、色々注文した。
その後、運ばれてきた料理と共に乾杯し、話に花を咲かせる。
会社の愚痴や人間関係の相談など……今まで会えなかった時間を埋めるように、私達は話し続けた。
そして、ちょうど私の離婚話に差し掛かった時────
「あのさ〜!これ言おうか、ずっと迷ってたんだけど────高田くん、他の女ともう再婚しているみたいだよ〜!」
いい感じにお酒が入り、口が軽くなったのか、桃子は唐突に爆弾を投下した。
『再婚』という言葉の威力に、私はただただ呆然とする。
「えっ?再婚……?」
「うん!さすがに結婚式はまだみたいだけど、入籍だけ済ませたみたい────四ヶ月前に!」
「はっ……?」
四ヶ月前……?それって、ちょうど────私と離婚した時期じゃない!
じゃあ、真守くんは離婚後すぐに再婚したってこと?何で……?
衝撃のあまりグラスを持つ手が震える私は、嫌な予感を覚えた。
ダラダラと変な汗を掻きながら、どんどん思考を加速していく。
それに比例して酔いも醒めていき、私は否が応でも現実を目の当たりにするしかなかった。
今までずっと分からなかった離婚理由……いや、真守くんの本心。
それが今、ようやく分かった。
真守くんは────意中の女性と再婚するため、私を捨てたかったんだ。
と自覚した瞬間、私は一気に血の気が引いた。
裏切られていたショックや怒りで、今にもどうにかなってしまいそうで……頭を抱える。
仮にも夫だった人が、自分を騙していたなんて……信じたくもなかった。
『最悪の気分だわ……』と呟く私は、やけ酒を煽る気にもなれず……桃子に謝って、直ぐに帰宅した。
────その翌日。
一晩中考えてみたけど、やっぱり納得出来ない!
だって、もし桃子の言っていたことが事実なら────真守くんは浮気していたってことになるから!
離婚後、直ぐに恋人が出来るならまだしも即行で再婚なんて、明らかに怪しい!
離婚前から関係があったと見て、間違いないだろう!
「っ……!そんなの絶対に許せる訳ない!」
『私のことをなんだと思っているの!』と憤慨しながら、ベッドを降りる。
もうすっかり見慣れてしまった1LDKの部屋を見回し、『よし!』と叫んだ。
「ちょうど今日は休みだし、直接確認しに行こう!」
『百聞は一見にしかず』という諺に習い、私は突撃を画策する。
『この目で真実を見極めてやるんだから』と意気込みながら身支度を済ませると、早速出発した。
と言っても、私が知っているのは離婚前の住所と真守くんの職場くらいだが……。
もし、引っ越しや転職をされていたら一発アウトだよなぁ……。
連絡先はもう消しちゃったし……。
『元夫の連絡先をいつまでも知っているなんて未練がましい』と、判断した過去の自分を少し恨む。
────が、過ぎたことをあれこれ言ってもしょうがないので気持ちを切り替えた。
『離婚前の住所にまだ居ることを祈ろう』と思いつつ、電車やバスに揺られること二時間……ようやく、目的地に辿り着く。
数ヶ月前と変わらぬ景色に目を細める私は、少しだけ懐かしい気持ちなった。
────でも、とある光景を目の当たりにして一瞬固まる。
……桃子の言っていたことは本当だったみたい。
だって、マンション前に────真守くんと知らない女の人が居るから。
それも、夫婦みたいな距離感で……スーパーのレジ袋を手に持ちながら。
『買い物帰りなのかな……』とどうでもいいことを考えつつ、私は酷くショックを受けた。
再婚していた事実もそうだが、あんな幸せそうに笑っている真守くんは初めて見たから。
しかも、一緒に食品の買い出しなんて……私は一度もしたことないのに────と悲しくなる。
『この差は何なんだ……?』と一人で絶望していると、不意に真守くんが目が合った。
その途端、彼はギョッとしたように目を見開き、狼狽える。
「な、奈美……どうして、ここに……」
困惑の入り交じった声色でそう呟き、真守くんは顔色を曇らせた。
明らかに『迷惑です』という態度を取る彼の前で、私は怒りが再燃する。
別に歓迎されるとは思ってなかったが、こうもあからさまに嫌がられるとイライラした。
浮気を疑っている分、余計に。
『迷惑しているのはこっちだってば!』と思いつつ、彼らの前までツカツカと歩み寄る。
「貴方に話があって、来たの。家に上げてくれる?」
「えっ?いや、それは……」
案の定とでも言うべきか、真守くんは訪問を渋った。
ただ、近所の目もあるため強く断れないのか、困ったような表情を浮かべる。
『頼むから帰ってくれ』と視線だけで訴えかけてくる彼を前に、私は眉を顰めた。
「何?ダメなの?やましい事でもある訳?」
「そういう訳じゃないけど、でも……」
「まあまあ!あなた、いいじゃない!せっかく来てくれたんだし、話だけでも聞いてあげましょう?」
そう言って、私達の間に入ってきたのは────真守くんの新しい妻と思しき女性だった。
直接対決しても問題ないと判断したのか、それとも何も考えてないのか……彼女は私の肩を持つ。
当然真守くんの猛抗議に遭ったものの、彼女は笑顔で全て受け流した。
『物腰は柔らかいのに強いな、この人』と驚く中、私は部屋へ通される。
当たり前だけど、もう私の知っている“家”じゃないのね。
家具はもちろん、キッチンの設備や壁紙も変わっていて、昔の面影など一切感じない。
彼女の趣味なのか随分とガーリーな内装に、私は虚しさを覚えた。
『こんな風に色々いじっても、真守くんに文句を言われないのか』と思うと、羨ましいような……妬ましいような……複雑な気持ちになる。
なんだか落ち着かない私は下を向きながら、案内された席に座った。
真守くんや女性も冷蔵庫に食材を入れると、急いで椅子に座る。
ダイニングテーブルを挟んだ状態で向かい合っているからか、真守くんがやけに遠く感じた。
「あっ、自己紹介がまだでしたね!私はまーくんの妻の綾瀬……じゃなくて、高田風夏と言います!」
慌てるあまり旧姓を名乗りそうになった風夏さんは、『てへ☆』と舌を出す。
容姿に恵まれているため嫌悪感はないものの、やはり不快感を覚えた。
真守くんの新しい妻というのが、自分的に受け入れられないようだ。
『はぁ……我ながら幼稚すぎる』と呆れつつ、私は口を開く。
「私は真守くんの元妻の安田奈美です。今日は真守くんに話があって、来ました」
じっと真守くんの顔を見つめる私は、『突然来たことに関しては謝罪します』と付け足した。
そして、申し訳程度に小さく頭を下げると、コホンッと一回咳払いする。
居心地悪そうに俯く真守くんと終始笑顔の風夏さんを交互に見やり、私は背筋を伸ばした。
少しでも、自分を大きく見せるために。
絶対に隙を見せてはいけない。ここは相手のテリトリーで、人数差もあるから。
一気に自分のペースへ引き込むのよ。
『冷静且つ強気に行こう』と決意し、私は口を開く。
「ねぇ、真守くん────何でもう再婚なんてしているの?私と別れてから、まだ半年も経ってないよね?もしかして、浮気していたんじゃないの?」
いつもと変わらぬ声色で問い掛ける私は、じっと相手の反応を窺った。
『一挙一動も見逃さぬように』と気を張る私の前で、真守くんはあからさまに動揺する。
クーラーの効いた室内だというのにダラダラと冷や汗を流し、小刻みに震えていた。
「し、してない……!離婚後、出会って直ぐに結婚したんだ!変な言い掛かりをつけるのは、やめてくれ!」
「いや、『出会って直ぐに結婚』とか信じられる訳ないでしょう」
「う、運命を感じたんだ!」
「運命って……ふざけているの?」
苦し紛れに吐き出した真守くんの言い分に、私は思わず声を荒らげる。
だって、あまりにも馬鹿馬鹿しかったから。
『今時の小学生でも、そんなこと言わないわよ』と嘆息しつつ、小さく頭を振った。
「仮にそうだとして、何でいきなり結婚ってなるのよ?普通、交際からスタートするよね?」
「それは……その……」
「ほら、答えられない。やっぱり、浮気じゃないの?」
「……」
返す言葉が見つからないのか、真守くんは下を向いて押し黙る。
情けない姿を晒す彼の前で、私はやれやれと肩を竦めた。
「無言は肯定と同じよ。という訳で、慰謝料請求するから」
「は、はぁ……!?そんなの出来る訳ないだろ……!僕達はもう離婚しているんだぞ!?」
『慰謝料』という言葉に驚いたのか、真守くんは弾かれたように顔を上げる。
焦りと不安の入り交じった表情を浮かべ、僅かに身を乗り出した。
今にも掴み掛かってきそうな勢いの彼に、私はニヤリと笑う。
「残念。離婚後でも慰謝料請求は出来るのよ」
「なっ……!?」
付け焼き刃同然の法律知識を披露する私に対し、真守くんは目を白黒させた。
『嘘だろ……!?』と驚愕する彼を前に、私は勝利を確信する。
────が、それはまだ早かったようだ。何故なら……
「あの〜!一ついいですか?奈美さんは勝手に浮気だって、決めつけていますけど────証拠ありませんよね?」
「っ……!」
ずっと沈黙を守ってきた風夏さんに痛いところを突かれ、私は何も言い返せなかった。
証拠なんて、ある筈ない……だって、真守くんの浮気疑惑が持ち上がったのは昨日だから。
今から証拠を取ろうにも赤の他人になった以上、私物やスマホのチェックは出来ないし……。
自白の録音でも撮れれば良かったんだけど、真守くんがボロを出す前に横槍を入れられてしまった……。
どうしよう?『証拠ならもうある』って、嘘をつく?
でも、それで相手が白旗を揚げなかったら……不利になるのはこっち。
『最悪、脅迫扱いで通報されるかも……』と考え、私は二の足を踏んでしまった……躊躇ってしまった。
その一瞬の隙が、間が、迷いが────状況を覆す鍵になるとも知らずに。
「ここまで啖呵切っといて、証拠なしかよ。まあ、僕達はそんな関係じゃないから無くて当然なんだけど」
私の反応を見て優勢と悟ったのか、真守くんは急に平静を取り戻す。
先程までの慌てようが嘘のように余裕をひけらかし、偉そうにふんぞり返っていた。
「で、でも……状況的に浮気の線が濃厚で……」
「状況証拠だけじゃ、慰謝料は請求出来ないぞ。確固たる証拠がないなら、大人しくしておけ」
『話にならん!』と言わんばかりにヒラヒラと手を振り、真守くんは腕を組んだ。
そして、どうにか反論しようとする私を制し、こう告げる。
「あんまりしつこく言うようなら、名誉毀損で訴えるからな。いい加減にしろ」
事実上の最終通告に、私は引き下がるしかなかった。
正直悔しくて堪らないが、人生を賭けるほどの熱意はない。
社会的信用を失うくらいなら、泣き寝入りした方がマシだった。
真実をこの目で見極められただけでも、良しとしよう。
真守くんの反応から浮気を確信していた私は、『ここら辺で妥協するべきだろう』と判断する。
と同時に、席を立った。
「……ごめんなさい。私の勘違いだったみたい」
『お騒がせしました』と口先だけの謝罪を述べ、私は玄関へ向かった。
早くここから逃げ出したくて歩調を早める中、後ろから誰かが追いかけてくる。
でも、今は放っておいてほしくて……玄関へ直行した。
込み上げてくる想いを抑えながら急いで靴を履いていると、不意に肩を叩かれる。
「あの、奈美さん。最後にちょっとだけ、いいですか?」
そう言って、帰ろうとする私を引き止めたのは────他の誰でもない、風夏さんだった。
きっと、真守くんに代わって見送りに来てくれたんだろうが……本音を言うと、顔を合わせたくない。
でも、突然押し掛けてしまった負い目もあり、無視出来なかった。
「……なんでしょうか?」
『別に話すことなんてないと思いますけど』と零しつつ、私は後ろを振り返る。
嫌々ながらも対話に応じる私に、風夏さんはニッコリと微笑んだ。
「ずっと言いたかったんですけど────まーくんをタダで譲ってくれて、ありがとうございます♪」
「えっ……?」
明るい声で告げられた感謝の言葉に、私は思わず固まった。
風夏さんの真意が読み取れず……ただただ目を見開く。
そんな私を前に、彼女は悪びれる様子もなく言葉を続けた。
「高収入エンジニアなんて、超優良物件じゃないですか〜?だから、前から欲しいなって思ってたんです♪でも、貴方という邪魔者が居て『正直詰んだかな〜?』って思ってたんですけど、あっさり手を引いてくれて助かりました!」
「なっ……!」
核心の一言は避けつつも浮気を仄めかす風夏さんに、私は苛立ちを覚えた。
『これ、明らかに煽っているでしょ!』と思い、目を吊り上げるものの……何とか平静を保つ。
怒りに任せて行動なんてしたら、それこそ相手の思う壷だから。
今にも切れそうな理性の糸を何とか繋ぎ止める中、風夏さんはまじまじとこちらを見つめた。
「へぇ〜?案外、我慢強いんですね〜?なんか、意外です〜。浮気を確かめるために突撃してくるくらいだから、もっと感情的なのかと思ってました〜」
『お利口さんですね〜』と馬鹿にしたように言い、こちらの怒りを煽る。
わざとらしい挑発に、私はこれでもかというほど理性を削られるものの……何とか堪えた。
────が、さすがにこれ以上は我慢出来そうにもないので、玄関の扉と向き直る。
「すみません。帰りの電車がなくなってしまうので、そろそろ失礼します」
感情を押し殺した声で別れの挨拶を済ませると、風夏さんがクスッと笑った。
「はい、さようなら〜!道中お気をつけて〜!」
無邪気とも能天気とも言えるテンションで送り出され、私はこの場を後にした。
来た道を引き返しながら、真守くんや風夏さんの発言を思い返す。
『やっぱ、嵌められたってことだよね』と考える中、私は無事帰宅した。
誰も居ない真っ暗な部屋で、ベッドに倒れ込む私は────緊張の糸が切れたように大粒の涙を流す。
「悔しい……悔しいよ!どうして、よりによって不倫なの……!?離婚理由を誤魔化してまで、風夏さんと結婚したかったの!?私より、美人だから!?」
如何にも今風で可愛らしかった風夏さんを思い浮かべ、私はシーツを握り締めた。
女性としても負けている事実に気がつき、より一層惨めな気持ちになる。
『このまま消えてしまいたい』と思うほどの不幸を味わう私は、全てに絶望した。
「どうして、被害者の私がこんな想いをしないといけないの……!?悪いのは、浮気した二人でしょ!?こんなの不公平じゃない!」
感情の赴くままに叫びまくり、私はグニャリと顔を歪める。
理不尽な現実が許せなくて……何も出来ない自分が情けなくて……怒りのやり場がなくて、ひたすら苦しかった。
「あんな屈辱を受けながら、二人の不幸を願うことしか出来ないなんて……!最悪の気分だわ!もし、時間が巻き戻ったら絶対に復讐してやるのに!」
ギシッと奥歯を噛み締める私は、『離婚前に戻りたい』と切実に願う。
────と、ここでスマホの通知音が鳴った。
『なんだろう?』と思いつつ、スマホを手に取ると、新着メールの文字が目に入る。
「見覚えのないアドレスね」
『詐欺メールか、何か?』と首を傾げながらも、とりあえずメール画面を開いた。
すると────『逆行して、人生をやり直してみませんか?』という文章が目に飛び込んでくる。
「いや、なんとタイムリーな……」
あまりのタイミングの良さに、私は苦笑を漏らした。
いつもなら、直ぐにメールを閉じて削除しているところだが……状況が状況なだけに最後まで文章を読んでしまう。
なるほど……西暦何年の何月何日に戻りたいのか、メールで返信すればいいだけか。
案外簡単だな。というか、珍しいパターンかも。
だって、この手のメールは大抵URLを踏ませたがるから。
まじまじとメール画面を眺める私は、少し考えてから────返信ボタンを押した。
十中八九、詐欺だってのは分かっている。
でも、少しでも可能性があるなら……それに縋りたかった。
泣きすぎて頭がおかしくなったのか、普段なら考えられない行動に出る。
一応、自暴自棄になっている自覚はあった。
それでも、自分自身を止められなかった。
「戻る日にちは、そうだな……真守くんに離婚を告げられた、あの日にしようかな」
誰に言うでもなくそう呟くと、私は返信画面に『○○○○年二月四日』と打ち込む。
そして、送信ボタンを押した。
刹那────視界が歪み、目眩を覚える。
方向感覚も失い、パニックになる私は必死に目を凝らした。
────と、ここで急に視界がクリアになり、目眩も収まる。
『今のは一体……?』と困惑気味に顔を上げると────新聞紙をテーブルの上に置く真守くんの姿が目に入った。
「とりあえず、僕はしばらくビジネスホテルに泊まるから。決心が固まったら、連絡して。じゃ」
聞き覚えのあるセリフを吐いた彼は、おもむろに立ち上がる。
呆然としている私の手からネクタイを取り上げ、自身の書斎に入ると、キャリーバッグを持ってきた。
真守くんはそのまま玄関へ向かい、さっさと家を出ていく。
パタンと閉まる扉の音を他所に、私は数秒ほど固まった。
だって、この光景は明らかにあの日のことで……。
「私は夢でも見ているの……?それとも────本当に逆行したの?」
一人ポツンと取り残された室内で、私は何度も瞬きを繰り返した。
今、目にしているものが現実なのか分からず、戸惑いを覚える。
夢……にしては、ちょっとリアル過ぎるよね。
部屋の内装から朝食のメニューまで一緒なんて、どう考えてもおかしいし……。
完全一致と言って差し支えない状況を前に、私は『逆行した可能性が高い』と判断した。
いや、その可能性に賭けたと言った方がいいかもしれない。
結局のところ、逆行した証拠なんてどこにもないから。
「それなら、信じたい方を信じよう」
自分に言い聞かせるようにそう呟き、私はふと目に入った長い髪を結い上げる。
『こうやって、髪をいじるのも久々だな』と思いながら。
「さてと────せっかく逆行したんだから、きっちり復讐しないとね」
長い髪をお団子にし、キャスケットを被った私は玄関へ直行。
そして、歩きやすいスニーカーを履くと、外へ出た。
家事……は別にいいか。
どうせ、真守くんは帰ってこないし。
なら、少しくらいサボったってバレないでしょ。
そう考えると、別居してもらってラッキーだったかも。
『時間を気にせず行動出来る』と浮かれながら、私はまず銀行へ行く。
そこで独身時代の貯金を下ろし、ビデオカメラを購入した。
きちんと操作手順をマスターしてから真守くんの職場へ向かい、近くの喫茶店で待機する。
まずは真守くんの行動を監視して、バッチリ証拠を押さえる。
以前のような失敗は、二度としない。
今度こそ、浮気を認めさせてガッポリ慰謝料をもぎ取ってやるんだから……!
憤怒の炎に燃える私は、真守くんや風夏さんに言われたことを思い出しながら、監視に力を入れる。
気分はさながら、張り込み中の刑事だ。
『今日のお昼はあんパンと牛乳にしようかな?』と考える中、職場の前に見知った女性が現れる。
スーツを着用しているため一目では分からなかったが、あれは間違いなく─────風夏さんだった。
えっ?真守くんと同じ職場だったの!?
離婚した後に出会った、みたいな言い草だったのに!?
いや、まあ……以前から知り合いだったのは何となく分かっていたけど、職場関係者だとは思わなかった!
「でも、そう考えれば色々腑に落ちる……!」
躊躇いもなく職場へ入っていった風夏さんを見届け、私は僅かに頬を緩めた。
これなら探す手間が省ける、と。
風夏さんの居場所については探偵を雇って調べるしかないと思っていたから、助かったわ。
『なけなしの貯金を叩かずに済む』と安堵する私は、引き続き張り込みに精を出した。
────が、二人は仕事中なので特に収穫を得られず……夜になる。
『さすがにちょっと疲れた……』と脱力していると、ようやく真守くんが姿を現した。それも、風夏さんと一緒に。
まるで恋人同士のように身を寄せ合う二人の姿に、私は心の中で『よし……!』と叫んだ。
そして、素早くビデオカメラを回すと、二人の様子を撮影する。
『これ、傍から見ればカップルだよなぁ……』と苦笑を零す中、二人は真守くんの車へ乗り込んだ。
かと思えば、ラブホ街のある方向へ走り去る。
『これ、確定演出じゃん……』と半ば呆れる私は直ぐに喫茶店を出て、タクシーを捕まえた。
妻に離婚を言い渡したその日に、浮気相手とホテルって……罪悪感はないのかな?
いや、むしろその背徳感がいいのか?
などと思いつつ、ラブホ街で降ろしてもらい、私は駐車場を一つ一つ探し回る。
『女一人で動くのは目立つから早く済ませよう』と心掛ける中、やっと真守くんの車を見つけた。
『やった!』と言いそうになるのを必死に堪えながら、私はキョロキョロと辺りを見回す。
どこで待機してようかな?
出来れば、ラブホから出てくる様子を撮影したいから、出入り口の見えるところがいいんだけど……。
『いい隠れ場所がないか』と探しつつ、私は車体へ身を寄せる。
忘れ物を取りに来た体を装えば、怪しまれないと思ったからだ。
でも、長時間は持たない。
『一旦、車の中に入ろうか?』と思い悩んでいると────車内に取り付けられたドライブレコーダーが、ふと目に入った。
もし……もし、二人のラブホ通いが常習的ならドライブレコーダーの映像を証拠に出来るかも。
ホテルに入っていく様子とか映っていたら、最高なんだけど。
「とりあえず、確認だけしてみよう」
『どうせ、まだ戻ってこないだろうし』と考え、私はスペアキーで車内に侵入した。
運転手側の席からドライブレコーダーを見上げ、ポケットからスマホを取り出す。
確か、ウチのドライブレコーダーはWiFi対応機種だから、アプリで映像の確認とバックアップ保存出来る筈……。
ディーラーさんの言っていた説明を懸命に思い出しながら、私はスマホを操作した。
そして、何とかドライブレコーダーの映像のバックアップ保存を済ませると、外に出る。
────と、ここで真守くんと風夏さんが手を繋いでホテルから出てきた。
慌てて車にロックを掛ける私は後ろの植え込みに隠れ、ビデオカメラを回す。
よし……車の間からだけど、何とかホテルに居る二人をカメラに収められた。
高性能のビデオカメラを購入して、正解だった。
遠目かつ真っ暗なのに高画質で撮影出来たため、私は大満足である。
『やっぱり、こういう買い物はケチっちゃダメね』と痛感する中、真守くんと風夏さんはこちらへやって来た。
私が息を殺して潜んでいるとも知らずに。
「まーくん、今日は一段と凄かったね〜?」
「あぁ、やっとあの女と離れられるのかと思ったら、嬉しくてね」
「まーくんってば、辛辣すぎ〜。せめて、奥さんって呼んであげなよ〜」
「嫌だね。だって、僕の奥さんは風夏だけだから」
猫撫で声を出して甘える風夏さんに対し、真守くんはこれでもかというほど格好付ける。
と同時に、彼女から抱きつかれた。
「本当〜?凄く嬉しい!」
胸の谷間に真守くんの腕を挟む風夏さんは、『えへへ』と照れたように笑う。
あざといの一言に尽きる彼女の仕草に、真守くんは頬を赤くした。
かと思えば、人目も憚らずキスする。
まだ情事の余韻が残っているのか、何度も何度も角度を変えて彼女の唇に吸い付いた。
……なんか間近で見ると、色々生々しいな。正直、ちょっとキツイかも。
ホテルの出入りに関しては、何とも思わなかったのに……。
たかがキスで揺れるなんて……情けない。
ショックのあまり泣きそうになる私は、正気を失いかけるものの……何とかビデオカメラを回す。
茫然自失状態でも、証拠を確保することだけは忘れなかったらしい。
『我ながら歪んでいる……』と思いながら、私は二人の様子を見守った。
「も〜!いきなり、キスなんてダメだよ〜!誰が見てるか分からないのに〜!」
「ごめん、ごめん。でも、見られるの嫌いじゃないだろう?」
「うぅ〜!まあ、そうだけどさ〜!」
満更でもない様子の風夏さんは、『まあ、今度から気をつけてね〜!』と言って話を切り上げる。
と同時に、車へ乗り込んだ。
運転手の真守くんも乗車し、駐車場から出ていく。
「ふぅ……とりあえず、私も帰ろう」
誰に言うでもなくそう呟くと、私はマンションへ帰った。
そして、戦利品という名の証拠品を順番に確認していく。
自分専用のパソコンと向かい合い、卑猥な音声を垂れ流す私はスッと目を細めた。
「やっぱり────ドライブレコーダーの映像を保存して、正解だったわね」
所謂カーセッ○スと呼ばれる映像を前に、私は勝利を確信する。
高額な慰謝料を請求するためには、常習犯である証拠が必要なんだけど、難なくクリア出来そう。
ドライブレコーダーさまさまね。
『まだ一週間分しか見てないけど、宝の山だわ』と言い、私は証拠映像をフォルダ分けした。
キス現場に遭遇した時と違って、やけに落ち着いている私はドライブレコーダーの映像を隈なくチェックする。
倍速を掛けているとはいえ、量が多いので色々苦労したが、五日かけて全部見た。
「めちゃくちゃ疲れた〜!でも、面白いネタもゲット出来たし、個人的には満足!」
証拠の入ったUSBを手に、私はニヤニヤする。
────と、ここでスマホの通知音が鳴った。
『誰だろう?』と思いつつ画面を見ると、そこには真守くんから届いたメッセージが……。
えっ?何で?前は離婚を承諾するまで、連絡なんて来なかったのに……あっ!もしかして、こっちが一切連絡しなかったから!?
探りを入れるために、わざわざメッセージを送ってきたの……!?
『前回はあんなに強気だったのに……』と驚きながら、私はメッセージを表示した。
『おはよう、奈美。離婚の件、考えてくれた?そろそろ、返事が欲しいんだけど』
離婚を催促するメッセージの内容に、私はつい失笑してしまう。
返事、ねぇ……。
「まあ、そんなに焦らなくても今日中にするよ────貴方の職場で、ね」
『聞こえない』と分かっていながら画面越しに返事すると、私はスマホの電源を落とした。
◇◆◇◆
それから二時間ほど仮眠を取り、ゆっくり風呂に入った私は身支度を整える。
────浮気に狂った男女を制裁するために。
侮られないようメイクもしっかり行い、威厳のある奥様という皮を被った。
ここまでバッチリ粧し込むのは、久しぶりだなぁ。
なんだか、恋人時代に戻ったみたい。
デートの度に張り切っていた過去の自分を思い出し、私は複雑な心境に陥る。
『離婚して、慰謝料を請求する』という考えに変化はないが、それでも……『もっと別の道はなかったのか』と模索したくなるのだ。
まあ、そんなの後の祭りだろうが……。
「結局、縁がなかったってだけよね」
自分に言い聞かせるようにそう呟く私は、鏡に映る自分と向かい合った。
先程よりスッキリした表情の自分に満足しながら、頬を緩める。
「さて────そろそろ、真守くんの職場に乗り込みましょうか」
証拠のコピーが入ったUSBを手に持ち、私は玄関へ足を向けた。
もうすぐ始まる……いや、巻き起こす修羅場を想像しつつ、家から出る。
不思議と緊張はしてなかった。
今あるのは、『絶対に復讐を果たしてやる』という使命感だけ。
戦前の武士のような心情でタクシーに乗り込む私は、迷わず真守くんの職場へ直行した。
そして、堂々と正面入口から中へ入ると、受付嬢に声を掛ける。
「先日、社長に面会を申し込んだ高田の妻です。御社の就業規則についてお尋ねしたく、参った次第なのですが……」
「!!?」
敢えて真守くんの妻だと名乗ったからか、受付嬢は目を見開いて固まった。
かと思えば、ハッとしたように内線電話を取る。
「い、いいいいい、今社長に確認を取りますので少々お待ちください!」
そう言うが早いか、受付嬢はどこかに連絡を取りこちらに向き直った。
「確認が取れました!応接室までご案内しますね!」
慌てて立ち上がった受付嬢は、『こちらです!』と言って私を誘導する。
促されるまま歩みを進めると、奥の部屋へ通された。
中には既に社長や幹部の姿があり、みんな表情を強ばらせている。
そりゃあ、社員の奥さんが急に現れたらこうなるか。
『一応、アポは取っておいたんだけどね』と思いつつ、私は軽く挨拶を交わして椅子に座る。
そして、用意されたお茶を飲んでいると、向かい側に腰掛ける社長が身を乗り出した。
「そ、それでお話というのは……?就業規則について質問があるとのことでしたが……」
この異常としか思えない状況に耐え兼ねたのか、社長が口火を切る。
『不祥事だけは勘弁してくれ』というオーラを放つ彼の前で、私はニッコリと微笑んだ。
「ええ、実はウチの夫と御社の女性社員が不倫をしているようでして……」
「ふ、不倫ですか……?」
「はい」
間髪を容れずに頷くと、社長はどこかホッとしたような……気が抜けたような表情を浮かべる。
と同時に、ソファに深く腰掛けた。
「申し訳ございません、奥様。大変申し上げにくいのですが、社員同士とはいえ個人間のことなので、こちらから口を出すことは出来ません。もちろん、不倫は最低な行いですが、労働基準法の関係で彼らを解雇したり処分したりすることは難しいんです」
出来るだけ丁寧な言葉を選びつつも、社長は拒否の意志を見せる。
『放置する』と主張した彼を前に、私は笑顔を崩さなかった。
だって、こうなることは想定していたから。
じゃあ、何で会社に乗り込んできたかって?
もちろん、真守くんや風夏さんへの嫌がらせという意味もあるが、一番は────。
「そうですね。普通の不倫なら……彼らに社会人としての一般常識があれば、会社も無関係のままで居られたでしょう」
「えっと、それはどういう……?」
わざと含みのある言い方をしたからか、社長は僅かに頬を引き攣らせた。
『ただの不倫じゃないのか?』と焦る彼の前で、私はスマホを取り出す。
予めフォルダ分けしておいた映像をタップし、再生させると、スマホをテーブルの上に置いた。
「こちらをご覧いただければ、お分かりになるかと」
「ドライブレコーダーの映像……?」
車内の様子が映し出されたソレを前に、社長や幹部は首を傾げる。
────と、ここで真守くんと風夏さんが車内に現れ、熱い口付けを交わし始めた。
その途端、社長たちは固まるものの、直ぐに『だから、なんだ?』という態度を取る。
どうやら、まだアレに気がついていないらしい。
まあ、いきなりキスシーンを見せつけられればそうなるよね。
と一人で納得しつつ、私は口を開いた。
「撮影日時にご注目ください」
「はあ……」
スマホ画面の右下を指さす私に、社長たちは怪訝そうな表情を浮かべる。
────が、撮影日時を確認するなり全員目を吊り上げた。
「────なっ!?平日の午前中!?それって、仕事中じゃないか!?まさか、仕事を抜け出してこんなことを!?」
思わずといった様子で声を荒らげる社長は、顔を真っ赤にして憤慨する。
事なかれ主義の社長と言えど、これは許容出来なかったらしい。
「残念ながら、キスだけではありませんよ。もっと際どいことまでしています。まあ、彼らの名誉のため、これ以上の言及は控えますが……」
あまりやり過ぎると名誉毀損で訴えられるため、私は性行為を仄めかす程度に留めた。
『本当は全部暴露したいんだけどなぁ』と思いつつ、気持ちを切り替えようと一回咳払いする。
「では、話を戻しますね。私が今日ここへ参ったのは、御社の就業規則に『仕事中、不倫をしてもいい』という項目があるのか尋ね……」
「そんなものはありません!彼らには、必ず罰を受けてもらいます!」
不倫云々よりも、仕事をサボっていたことに腹を立てている社長は食い気味に答えた。
『フンス!』と鼻息を荒くする彼の前で、私はUSBを取り出す。
「話が早くて助かります。こちら、証拠のコピーが入ったUSBです。必要であれば、お使いください」
「ありがとうございます!」
半ば飛びつくようにして、USBを受け取った社長は『出来るだけ早く対処します』と述べる。
まだどのような罰になるかは分からないが、出世街道から外れるのは間違いなさそうだ。
恐らく解雇はないと思うけど、妻の訪問後に処分を食らったとなれば、色々噂になりそうね。
針のむしろとまでは行かずとも、かなり居づらくなるだろう。
私としては、それだけで満足だ。
『生き地獄を味わうがいい』とほくそ笑みつつ、スマホをポケットに仕舞う。
そろそろお開きになりそうな雰囲気を感じ取る私は、チラリと社長の顔色を窺った。
「あの、もう一つお願いしてもよろしいでしょうか?」
おずおずと声を掛ける私に対し、社長は僅かな間を置いて頷く。
「我々に出来ることあれば」
「では────夫とその女性社員を呼び出して貰えませんか?一度、三人で話がしたいんです」
『もちろん、無理にとは言いませんが……』と付け足しつつ、相手の反応を窺う。
すると、社長は少し考える素振りを見せてからこちらに目を向けた。
「分かりました。ただし、暴力沙汰はやめてくださいね。少しでも危険だと判断したら、引き剥がしますから」
『最悪、警察を呼びます』と警告する社長に、私はコクリと頷く。
────と、ここで社長から指示を受けた幹部が部屋を出て行った。
かと思えば、当事者二人を引き連れて直ぐに戻ってくる。
何の前触れもなく会社の上層部から呼び出しを受けた真守くんと風夏さんは、私の姿を見るなりギョッとした。
「な、何で奈美が……」
衝撃のあまり後退る真守くんは、これでもかというほど目を見開く。
上手く状況を呑み込めていない彼を前に、私はニッコリと微笑んだ。
「離婚の件について、話そうと思ってね。ほら、ライムのメッセージで『そろそろ、返事が欲しい』って言っていたでしょ?」
「いや、確かに言ったけど……!だからって、会社に乗り込んでくることないだろ!社長や幹部まで巻き込んで……!迷惑だと思わないのか!?」
幾分か冷静さを取り戻したのか、真守くんは強い口調で怒鳴りつけてきた。
かと思えば、社長や幹部に向き直り、『すみません、すみません』と頭を下げる。
ここだけ見れば、分を弁えた普通の社会人に見えるが……もう既に化けの皮は剥がれていた。
「迷惑、ねぇ……会社に不利益を与えているのはどちらかと言えば、あなたの方だと思うけど」
「はっ?それって、どういう……」
「これを見れば、分かるんじゃない?」
真守くんの言葉を遮り、私はスマホで例の動画を再生する。
と同時に、画面を真守くんに向けた。
「なっ……!?こ、これ……!一体、どうやって……!?」
「もしかして、ドライブレコーダー……!?」
真守くんだけじゃなく、横から画面を覗き込んでいた風夏さんまでもが動揺を露わにする。
思い切り表情を強ばらせる彼らの前で、私はクスリと笑みを漏らした。
「正解。これはドライブレコーダーの映像。もう気づいていると思うけど、証拠は他にもたくさんあるからね。言い逃れは出来ないよ?」
情け容赦なく現実を突きつけると、二人は一気に青ざめる。
カーセッ○スを多くしていた自覚はあるのか、『ドライブレコーダーを押さえられたら終わり』という事実は理解しているようだ。
「な、奈美……これは……」
「ちょ、ちょっとした気の迷いなんです!お互い、遊びっていうか……!」
言葉に詰まった真守くんに代わり、風夏さんが弁解を口にする。
────が、私には一切通用しなかった。
「遊び?離婚の申し立てまでしておいて?」
「っ……!」
『明らかに本気だったでしょう』と返せば、風夏さんは声にならない声を上げて黙り込む。
さすがに無理のある言い訳だと、理解したのだろう。
悔しそうに唇を噛み締める彼女を他所に、私は真守くんと向き合った。
「ねぇ、どうして浮気なんてしたの?」
「それは……」
「本心を聞かせて」
聞こえのいい言葉を探そうとする真守くんを制し、私は立ち上がった。
そして、彼の前まで行くと、真っ直ぐに目を見つめる。
真剣な眼差しを向ける私に観念したのか、はたまた自暴自棄になったのか……真守くんは静かに口を開いた。
「別に奈美との結婚生活に不満があった訳じゃない。専業主婦としてよくやってくれていたと思うし、いつも感謝していた。でも、浮気に走ってから風夏と比較してしまって……魅力を感じくなったっていうか……」
ポリポリと頬を掻く真守くんは、バツの悪そうな顔で俯いた。
どこまでも情けない姿を晒す彼の前で、私は『はぁ……』と深い深い溜め息を零す。
一応言葉を濁しているけど、要するに────
「私を可愛いと思えなくなって、冷めたって訳ね」
真守くんの本音を一言にまとめるなり、私は脱力した。
だって、想像の十倍はくだらない理由だったから。
『そんなんで離婚って、馬鹿か!?』と叫びそうになる私は、ヒクヒクと頬を引き攣らせる。
出来ることなら今すぐグーで殴りつけたいところだが……暴力沙汰はNGなので、我慢した。
────が、このまま引き下がるのも癪なので文句だけ言わせてもらう。
「あのさ〜!外でしか会わない風夏さんと、生活を共にしている私を同列に扱わないでくれる!?そりゃあ、会う度バッチリメイクの風夏さんの方が可愛いに決まっているでしょう!こっちはすっぴんとか、寝顔とかだらしない姿も晒しているんだから!女として魅力を感じなくなるのも、当たり前だよ!」
「っ……!」
「でも、夫婦ってそういうものだからね!?お互いの嫌なところも受け入れあって、妥協しあっていくの!恋人とは、違うんだよ!?」
『結婚の認識が甘すぎる!』と説教し、私は目を吊り上げた。
ぐうの音も出ない様子の真守くんを前に、私は『ふんっ!』と鼻を鳴らす。
正直まだ言い足りないが、あまり責めすぎると社長に止められそうなので口を閉じた。
その代わりと言ってはなんだけど、次は────
「────風夏さん」
「は、はい……」
突然自分に矛先が向いた風夏さんは、大袈裟なくらい肩を震わせる。
目に涙を溜めて縮こまる彼女に対し、私はスッと目を細めた。
「同じ職場なんですから、真守くんが既婚者であることはご存知でしたよね?」
「……はい」
「じゃあ、やっぱり略奪目的で近づいたんですか?」
「そ、それは……」
気まずそうに視線を逸らし、言い淀む風夏さんはどう答えるべきなのか迷っているようだ。
まあ、彼女の本音はもう分かっているが……だって、前回教えてもらったから。
かなり遠回しな言い方だったけど、真守くんを……高収入エンジニアを狙っていたのは、間違いない。
ギュッと手を握り締める私は一度深呼吸してから、彼女と向き合った。
「いいですよ」
「えっ?」
「私の夫、二百万で譲ってあげます」
慰謝料の金額を真守くんの買取価格として提示した私は、満面の笑みを浮かべる。
そして、呆気に取られる風夏さんを前に、左手の薬指に嵌められた結婚指輪を外した。
「お望み通り、私達離婚するので。もちろん、貰うものを貰ってからになりますけど────真守くんも、それでいいよね?あれだけ離婚したがっていたんだから」
「えっ?あ、いや……」
いきなり話を振られた真守くんは、困惑気味に視線をさまよわせた。
『誰か助けて』とでも言うように。
残念ながら、救いの手を差し伸べられることはなかったが……。
『浮気がバレるなり離婚を渋るって、ヘタレか』と呆れつつ、私は一つ息を吐く。
「まあ、なんと言われようと離婚するけどね。夫婦と恋人の違いも分からない浮気男なんて、私の人生に必要ないから」
『今更離婚を取り下げても無駄』と主張し、私は手に持った結婚指輪を真守くんに押し付けた。
「という訳で、私はそろそろ失礼します。お騒がせしました」
言いたいことを全部言えてスッキリした私は、社長や幹部に頭を下げて歩き出した。
すると、真守くんが『待ってくれ!』と必死に声を掛けてくる。
────が、華麗にスルー。
私はそのまま、会社を後にした。
────後日、予め目星をつけていた弁護士に依頼し、離婚と慰謝料請求の手続きをしてもらった。
二人からは当然ゴネられたものの、『調停や裁判にしますか?』と聞いたら渋々引き下がったらしい。
専業主婦の私と違って、あっちは時間に余裕がないから。
会社での立場を考えると、これ以上問題を長引かせるのは得策じゃないと判断したようだ。
いくら出世街道から外れて窓際部署に異動になったとはいえ、あそこまで条件のいい会社はないからね。
年収はもちろん、福利厚生もしっかりしていて非の打ち所がない。
退職するには惜しい職場だった。
『今頃、必死に仕事しているんだろうなぁ』と思いつつ、私はスマホ画面を見下ろす。
そこには、『やり直したい』『もう一度だけチャンスをくれ』と再構築を懇願する真守くんからのメッセージが並んでいた。
どうやら、風夏さんとは再婚しなかったらしい。
というか、多分振られたんだろうなぁ。
風夏さんの求めていたものはあくまで高収入エンジニアであって、真守くんそのものじゃないから。
「だからって、二番目と公言した女に擦り寄ってくる?普通……」
『頭、おかしいんじゃないの?』と吐き捨て、真守くんの神経を疑った。
こっちは晴れて、前回と同じ会社に入社出来たところなの。
順風満帆な独身ライフを送っているんだから、邪魔しないでよね。
旧姓に戻ったことを微塵も後悔していない私は、真守くんの連絡先を全てブロックする。
そこに迷いはなく、とても清々しい気持ちになった。
『真守くんのことは綺麗さっぱり忘れて、生きていこう』と思いつつ、メールボックスを開く。
結局、あのメールが何だったのか分からなかったな。
逆行した日時になっても、メールは送られてこなかったし。
『本当に謎だ』と呟く私は、顎に手を当てて考え込んだ。
────が、直ぐにやめる。
その無反応こそが詮索されたくない意思の表れだろう、と思ったから。
『凄く気になるけど、追求するのはやめよう』と決意し、私はスマホを両手で抱き締めた。
「どなたか知りませんが、私に復讐のチャンスをくれてありがとうございました。この話は墓場まで持っていきます」
『だから、安心してください』と言い、私は復讐に関する記憶を全て胸の奥に仕舞った。