第六話
俺は始業式の最中に職員に引きずり出されると、数分説教を受けた。
とは言え、内容は大したものじゃない。むしろ連れ出したことを先んじて謝られた上で、何なら俺の切れた堪忍袋の緒を繕うかのような内容だった。実に芸学らしい。
しかし、緒は切れたままで。
「あのアマ、マジで許せねぇ」
体育館は中央門を抜けた先にあり、俺は職員から解放されると、左和道の池の傍にある手頃な岩の上で片足を組みながら座り込んで苛ついていた。と。
「渡」
名を呼ばれ、俺は何となしに顔を振り向かせた。そこには。
「もう、何やってんのよ。目立ちたいなら表現で、作品で目立つのが芸学の掟でしょう」
片手の甲を脇腹に当てて、心底呆れた様子で声をかけてくる少女が一人。彼女は嘆息交じりに尚も続ける。
「大体、相手が悪いわ。勝ち目がない。向こうは花の二年組の一人の――」
「えーと、ちょっと待ってくれ。話をぶった切るようで悪いが、一つ尋ねていいか?」
「ええ。何?」
不思議そうな顔をする彼女に、直截に告げた。
「アンタ誰?」
腰まで届くほどのポニーテールに、瞳はやや釣りがちで、鼻梁は通り、輪郭はシャープ。どこか凛とした雰囲気を纏う美麗な少女。これだけ見た目が整っていれば、嫌でも記憶に残りそうなものだが、まったく、これっぽっちも見覚えが無かった。
「な、な……私が分からないの!?」
「そんな、くわっと目を剥かれても分からんものは分からん。どこのどなただ」
一蹴してやると、女はぱくぱくと金魚みたいに口を開閉させ始めた。なかなかの速さだ。
「どどどどどどどこのどなたって、私は――私は紫藤朱音よ!」
「紫藤、朱音……あー、絵専攻の女か? 確か俺と同学年で、久比さんと俺の次に実力があるとか評価されてた女。要するに三番手」
俺は他人の表現や作品をほとんど見ない。興味が無いから。自分こそが一番だと分かっているから、他人の物など自分の表現の肥やしにもならないと断じているのだ。
「ぐ……そうよ、その通りよ! でも、絵じゃなくて今の私は演技を専攻しているの」
「はぁ? 専攻を変えるだなんて、そんなの可能なのか?」
「誰だって可能よ。ただ勿論、その表現による才能が認められなければ、芸学においては元の専攻へ戻ることを促されたり、あるいは成績不良で退学になるけどね」
「そりゃそうだよな……というか今思い出したけど、紫藤って言ったらあの前髪がホラー映画の女みたいに垂れ下がって、しかも瓶底眼鏡を着用してた女だよな。アンタみたいな陽キャっぽい性格や見た目はしていなかったと思うんだが」
同じ専攻者同士、同じ場所に集まって表現を、絵専攻の場合は絵を描く時間がある。絵という性質上一人で黙々と作業することが殆どだが、それでも名前と顔は何となくだが覚えていた。その上で、紫藤朱音はこんな女じゃなかったはず。なのだが、その紫藤(仮)は予期していたように肩を上げて誇らしげに言う。
「そうよ。根暗でジメジメした雰囲気を放っていた、カビが生えてそうな女。それが私よ」
めっちゃ自分で卑下していらっしゃる。とは言えあながち的外れとも言えなくて。
「いまいち要領を得んのだが、あれか。大学デビューってやつか?」
「違うわよ。これも表現の一環なの。さっきも言ったけど、私は今演技専攻だからね。所謂憑依型ってやつなのよ私は」
俺は要領を得なくて「はぁ」と生返事をする。と、彼女は「それより」と口にし。
「私の事は朱音って呼んで」
「いきなりファーストネーム呼ばせるとか俺に気があるのか?」
「ほざきなさい。私の役が、そういうパーソナルスペースが極端に近い性格をしているの。例えばこれぐらいの距離に近づいても何も思わないぐらいに」
彼女は岩に座る俺へと近寄ると、俺の片手を握って、そのまま顔を近づかせてきた。
鼻と鼻が触れ合うぐらいの距離。少し顔を突き出せば唇も触れる程だ。思わず俺は手を振り払って身を引いてしまう。と、彼女は驚いた。
「あら。そんな反応をした人は初めてね。何なら少し嫌そうだし」
「そりゃ知りもしない女がいきなり顔を寄せてくるんだぞ。気色悪いだろ」
吐き捨てるように言ってやると、サッと彼女は離れた。
「それはごめんなさい。でも私って見た目は良いし結構モテるのよ。だからこうやって顔を近づけると、皆顔を真っ赤にしてキョドったりしながらも、距離は置かないんだけど」
「唐突に自慢話を始めるな。というか、そんなこと誰かれ構わずやってるとか痴女か」
「違うわよ。もしもキスされそうになったらぶん殴ってるし。ただ単に距離感が近いだけ。要するに思わせぶりな子って感じかしら。それと、アンタじゃなくて朱音よ」
それってただの暴力女では。との言葉は暴力女相手には怖いので飲み込む。
「よく分からん女だな……それで、その朱音とやらは一体俺に何の用が――」
「大槻くーん!」
遠くから俺の名前を呼ぶ女性の声がして、俺は嘆息しつつ首を振る。モテモテみたいだ。
困った困ったと声のした方へ緩慢に振り向いて表情が凍った。眉根を上げて、瞳を尖らせ、肩を怒らせ猛進してくる闘牛がいた。
ひええと戦く間もなく、闘牛こと久比さんが俺の目前で立ち止まった。先ほどの朱音よりも離れているが、その剣幕に圧倒されて身を引いてしまう。
「貴方、何してるの!」
「え、ええと、こいつ、あ、朱音と歓談を少々」
たははーと所在ない手で後頭部を掻きながら説明すると、久比さんは朱音を見つめた。
「っと、あら。お久しぶりね、紫藤さん」
「ええ、ご無沙汰してます、久比さん」
「積もる話もあるでしょうし、僕はこの辺で――」
言って、さりげなくフェードアウトしようとしたが、むんずと襟首を掴まれる。そそーっと後ろを見れば、そこには阿吽像がいた。
「あのね、話はまだ始まってすらいないのよ?」
それから五分間雷の如き怒声が降り注いだ。その間俺は正座をしながら相槌を打つのみ。
朱音はと言えば、俺が先住権を保持していたはずの岩の上で胡坐を掻いて片手で頬杖を突いてこちらを呑気に眺めてきている。パンツ見えるぞまったく。
「大槻くん!」
「は、はひっ!」
久比さんは嘆息すると、諭すような声色へと変化した。
「本音としては、大槻君が憤慨する気持ちも良く分かるのよ。皆内心ではきっと憤っているわ……でもね、それを声高に叫ぶことは表現者ならば止すべき。その事を分かっているからこそ皆も耐え忍んでいた。表現者ならば、表現で対抗すべきだ、とね。実際、彼女だって表現で評価されたからこそあの場に立っていた。それは揺るがない事実なのよ」
そうだ。そこが気にかかっていた。どうして他の生徒たちは一切声を上げなかったのか。悔し気にしつつも黙していたのか。それはすなわち、あの女のことを全員が知っていて、そして負けていると刷り込まれているからなのだろうか。
天才と呼ばれる連中の鼻を折るあの女。あいつは。
「あいつは一体、何なんですか?」
「彼女は、久留井加恋さん。私と同じ二年生で、専攻は――」
「――久留井先輩に興味を抱くのは止めた方が良いわ」
口を挟んできたのは岩の上で足組みを止めた朱音だ。俺は溜まらず睨みつける。
「部外者は黙ってろ」
しかし、そこに久比さんも加わる。
「そうね……私も久留井さんに興味を抱くのは賛成しかねるわね」
「俺は興味を抱いているんじゃない。あいつが何なのかを知りたいだけで――」
「同義よ。あの人を知れば、身を滅ぼしかねない。特に渡みたいなタイプは」
朱音に代わって今度は久比さんが話し出す。
「久留井さんは、突飛とか、風変わりとかではなくて、ただただ異質なのよ。他の表現者とあの人は少し、ううん、根本から違う。ああいうのを天才って言うのかも」
形容しがたい事象を述べるかのようなたどたどしい久比さんの説明に、俺は「はあ」と生返事をする。しかし、朱音はどこか深刻そうに告げてくる。
「本当にそうなのよ。特に三大表現を専攻している人間であれば、久留井先輩の異質さが良く分かるはずだわ」
「そう、紫藤さんの言う通り。彼女の作品を見て意気消沈してしまった生徒は沢山いるの。だから、大槻君も二の舞にならないためにも、久留井さんに興味を抱くのは――」
長々としたやり取りに俺は辟易で。だからこそ立ち上がって顔を大げさに振った。
「あああ! もう! 実際にアイツの作品を見て俺が確かめてやる!」
「わ、渡? 今までの話を聞いていた?」
「聞いてたよ。聞いたうえでの決断だ。普段なら微塵も沸かないが、あんな鼻高々な奴の表現がどんなものか、逆に興味も沸いてきた」
「で、でも――」
尚も食い下がろうとする朱音に制止をかけたのは久比さんだった。
「紫藤さん、止めましょう。彼のやりたいようにしてあげるべきよ。私も同じ三大表現の、絵専攻の表現者だからこそ、彼の気持ちが分かるわ」
「っ」
言いくるめられて下唇を噛む朱音を尻目に、俺は久比さんに尋ねた。
「早速あそこに行って見てきますよ。それで、あいつの専攻って何なんです?」
「彼女の、久留井さんの専攻は――」