第三十二話
十杏さんが恭しく一礼すると、室内の明かりがプツンと落ちた。同時に十杏さんの姿も消えた。
真っ暗闇。静寂。まるで棺の中。
そう思った瞬間、じんわりと光が滲みだす。壁一面に設えられた映像装置に像が浮かびだす。
そこに現れたのは。
「あー。あー。聞こえるか? 聞こえるかー? 私の声が聞こえるかー? 聞こえるなら返事をしろー」
久留井加恋。ドアップで映された彼女の姿がそこにあり、気だるげな声を上げていた。
思わず声を上げそうになるが、堪える。何故なら、彼女はきっと俺に声をかけているわけでは無いから。無論獅子ヶ谷さんでも無い。あの人が声をかけているのは。
「はい。聞こえております」
今と変わらぬ十杏さんの声が聞こえた。そして俺の記憶の中よりもずっと幼く見える久留井さんは満足気に頷く。
「よーし。それでは早速だが、十色にはこの場で三つの命令を授ける。一つ目は私の召使いとなること」
「……召使いは分かりますが、十色というのは私の名前ですか?」
「ああ、そうだ。正式名称は十杏十色だ」
「まさか、アンドロイドのアナグラムでしょうか? 少し子供っぽい気が致しますが」
「え、ええい、うるさい! まったく、産まれて間もないのに早速親に文句か。親が親なら子も子だな。はっはっは」
「大変悦に入っていらっしゃるところ失礼しますが、二つ目と三つ目のご命令は?」
「急くなぁ。まぁ良い。二つ目の命令は、私が生涯において最も幸福な時に殺害する事。これは予め十色の中に最優先事項として組み込んでいることだからそもそも抗う術もない。だが、十色にはきちんと言葉にして伝えておきたかった。私を殺すことが、私の命令である、とな」
「……畏まりました」
硬い口調の十杏さんとは打って変わって、久留井さんはフッと微笑み。
「ただ、三つ目の命令こそが、私が十色を作った一番の目的だ。それは、三つ目の命令は――その目のカメラ、そして耳に搭載したレコーダーで、私の記録を残す事。私の生涯を記録に刻む事。それがお前の、十色の使命だ。そしてお前の生涯は、私の最高傑作となる」
パッと場面は移り変わる。その場所は。
「いやー。今日この日より、この映像専攻室は我らだけの物だ。あっはっは」
見慣れたあの部屋で、久留井さんは腰に手を当てて高笑いを決め込んでいた。そこにかかる声はあくまで抑揚が無いもので。
「本来であれば映像専攻の専攻者はもっと多いものでしたが、加恋様の悪名を聞いて映像専攻の志望者は、他の学校に取られてしまっただけなのですが」
「そうだ。そうだよ。私はあえて寄り付かせなかったのだ。決してぼっちなわけでは無く、私は自らが望むべくして孤高な一匹オオカミになっただけよ。……それはさて置き十色。その口調はどうにかならんか? これからは私に対してはもっと砕けた口調で話せ」
「それは、どうしてでしょうか?」
鼻白んだ顔を久留井さんはこちらに向ける。
「他人行儀な話し方をする奴に殺されるのは寂しいだろう?」
そして再び場面は変わる。
今度は体育館だ。パイプ椅子に腰かける生徒達がずらりと並んでいる中、とある四人が壇上に立っていて、俺はそこでこれが始業式の映像なのだと気が付いた。
そして、恒例行事であるありがたいお言葉授与の番が久留井さんへと回って来て、開口一番彼女は。
「ようクズども。ご機嫌麗しゅう」
非難轟々の中、映像は途切れる。隣の獅子ヶ谷さんも失笑している。
まったくあの人は、映像専攻の後輩の前でも醜態を晒して。
呆れる俺ではあったが、何故だか笑みを零してしまう。
在りし日のあの人の姿に、俺はただ見入ってしまう。
数回の場面転換。取るに足らない彼女の日常が映されている。とてもじゃないがこれは表現では無い。いわばホームビデオだ。少なくとも、俺の中での表現には類さない。
なのに、どうしてだろうか、感情は揺さぶられる。
そんな自分に気付いた時、映像に現れたのは再び体育館。
先ほどと同様に生徒がパイプ椅子に腰かけ、壇上で久留井さんが悪辣な言葉を並べ立て、そこに加わった声は。
「意義あーり!」
俺の声だ。
あの日の映像。懐かしさが込み上げる。
久留井さんと俺は、映像の中で子供じみた口喧嘩を交わして互いに退場。
その一部始終を見終え、獅子ヶ谷さんは噴き出すように笑いだした。
久留井さんのみならず、俺まで醜態を晒されるなんて……。
けれど、そんな気恥ずかしさは次の場面で消え失せた。
次に映されたのは、俺の絵だった。俺が久留井さんと出会う前に描いた絵。それを久留井さんはPCのディスプレイに映しながら興味深そうに眺めていた。
「見ろこれ。これは良いな。うん、良い逸材だ。そうは思わないか?」
久留井さんは子供みたいな無邪気っぽさを湛えた顔をこちらに向ける。すると、十杏さんが返事をする。
「そうっすね。なかなか良いんじゃないんすか? 少なくとも、私には真似できないっす」
そこで俺は思い出す。この会話、どこかで聞いたことがある。確か俺は、そうやって何かを褒め称える彼女達の声を聞いて、その人間を羨ましく思っていたはず。まさか、それが俺だったなんて。
そして、そこにガラリと扉が開く音。映像専攻室に姿を見せた人物は当然――俺だ。
俺の姿を映し出してから、直ぐに映像は途切れた。
「あ」と、獅子ヶ谷さんは声を漏らした。俺は無言で思案を巡らす。どうして俺のあの後の場面をカットしたのだろうか、と。あるいはこの映像は、何かの指向に沿って作られているのではなかろうか。
ともあれ映像に俺も加わり出す。だが流される映像の殆どが本当に些事。客観的に見れば他愛もないもの。
例えば俺が甘党な久留井さんを小ばかにして反逆されたり。例えば久留井さんが俺を童貞童貞と茶化したり。例えば久留井さんと俺が黙々と作業をしながら、十杏さんが用意してくれたケーキを食べている場面。
なんて事は無い。平穏で平和な場面。なのに、俺はかけがえのないものを見るかのような心境に浸ってしまう。
そんな映像の中にはこんな一幕もあった。
「どうして渡に背中のボタン――録画と録音を停止させるボタンを押させた!」
鬼気迫る様子で詰め寄る久留井さん。背中のボタン、という言葉に俺は直ぐに思い至った。俺が久留井さんの過去を十杏さんから告げられる前に、押してほしいと彼女に言われたボタンだろう。
感情的にも聞こえる久留井さんの声に対し、十杏さんの声はあくまで事務的で。
「申し訳ございません。私の独断で御座います」
「ふんっ。口調までおかしくなり始めたか。最近のお前はどうもおかしい。私が当初組み込んだプログラムから明らかに反し始めている。一度、メンテナンスさせてもらうぞ」
そしてまた映像は途切れる。
そうしていくつもの映像が流れ、最後の映像。そこに俺の姿は無かった。だが、俺は息を飲む。
見慣れた専攻室で、見慣れていたあの人はいつもの机でディスプレイに向き合っていた。その姿をまじまじと見つめて俺は気付く。これは十杏さんがメンテナンスされている最中の映像だと。理由はあの人の、久留井さんの手。包帯がぐるりと巻かれている。
メンテナンス中も十杏さんのカメラとレコーダーは機能していたのか。
そしてもう一つ気が付いたことがある。それは、久留井さんが眺めているディスプレイ。そこには今ここで流された映像がそのまま流れている。つまり、この映像は久留井さん自身が編集したのかはさて置き、少なくともあの人も鑑賞したんだ。
ディスプレイが暗くなると、久留井さんはふと口を開いてぽつりと呟いた。
「美醜の判断は記憶に由来する。つまり、美しい記憶だけで彩られた物は個人にとって何よりも美しい」
言って一人で笑う久留井さん。だが、あの自信に溢れた彼女らしくもない、空虚な笑みだ。
そして彼女は立ち上がり、こちらへと、カメラの方へと近寄り。
「さて。鬼が出るか蛇が出るか。神のみぞ知る、とな」
愛おし気な久留井さんの顔を最後に、映像は終わった。
憶測だが、この後久留井さんは十杏さんのメンテナンスを終え、そして……。
「っ」
目を瞑り俯く。涙は零れなかった。だが、寂しさが胸中でとぐろを巻く。
「如何でしたか? 加恋様の最期の作品は」
声が聞こえ、俺は目を開いた。いつの間にか壁には十杏さんが映っていた。
俺は絞り出すように返事をする。
「良かったです……本当に」
それは俺の本心だ。久留井さんの言う通り、美しい記憶で彩られた物は個人にとって何よりも美しかった。だからこそ、その美しさが過去の物であると改めて感じさせられ、俺は物寂しさを感じていたのだ。とは言え、これが作品であるのならば俺は満点を与えたい。
けれど、それはあくまで久留井さんと同じ時間を過ごしたからこその感想だ。案の定、横で獅子ヶ谷さんは何とも言えない顔をして思案している様子だった。
「やっぱり獅子ヶ谷さんからすれば、これは表現では無い?」
尋ねると、彼女はぱちくりと瞬いてから俺を一瞥した。
「あー。いえ。こういう映像もある種の表現であると思います。ただ……気になる点も」
否定はせずとも、評価はしない、か。当然か。
再び思案顔を浮かべる獅子ヶ谷さんから十杏さんへと視線を移す。
「この作品は、久留井さんが作ったものなんですか?」
「左様で御座います。ただ、厳密に言えば恐れ多くも私との共作であるとも言えます」
「共作、ですか?」
「この映像に使われている場面は全て、加恋様の感情が大きく揺さぶられた時のものです。そしてその度合いは私に備わった自己学習能力から測りました。加恋様ご自身が意図せず組み込まれた場面もあることでしょう。例えば……最後の場面などは正しく」
だからか。だから、何らかの指向性を感じたのか。
俺はふととある事を思い出して、躊躇いがちに尋ねる。
「……十杏さんは、この後どうするんですか?」
「どうする、と仰いますと?」
「十杏さんはこの作品を作るために久留井さんの傍にいたんですよね? そうでなくとも、久留井さんがいなくなって、十杏さんはどうするんですか?」
意図的に、なのだろう。十杏さんは少しばかりの沈黙の後に返事をした。
「私は、今日この場を以て消滅いたします」
「え……」
「私の存在意義はもうありませんから。ただ勘違いはなさらないでください。人間が生きることを至上目的としているのなら、人工知能、少なくとも私の場合は与えられた役割をこなすことこそが至上目的です。いわばそうですね、私は今、加恋様が事あるごとに口にされたピークエンドの法則における実験の間延びした終わり。その状態にあると思ってください」
確か、氷水から冷たい水へと手を浸すってやつか。そうすることで、被験者は実験に対してネガティブな印象を持たない傾向になったと。
「ピークエンドの法則……」
独り言ちる獅子ヶ谷さんに俺は少しばかり驚いた。
「知っているの?」
「あー……はい、概要を何となくではありますけど」
それきり獅子ヶ谷さんは再び思案に耽ってしまった。何か癇に障ることでもあったのだろうか。
俺は仕切り直しとばかりに十杏さんを見つめ、一度頭を下げた。
「十杏さんには、本当にお世話になりました」
「いえ。こちらこそ加恋様共々お世話になって頂き、誠にありがとうございました。今しがたの映像も含め、私に蓄積されたデータは全て消滅しますが、願わくば私や加恋様が大槻君のこれからの道程に少しばかりでもご助力となれれば幸いで御座います」
「……当然ですよ。大助かりです」
久留井さんは勿論、十杏さんの存在は俺の胸に深く刻まれている。悪い事も多少はあったが、美しく彩られた楽しい思い出は、きっと俺の将来の糧となる。
「そちらのお嬢様も表現者の方なのですか?」
尋ねられ、俺が頷く。
「はい。あの映像専攻に入った獅子ヶ谷優里さんです。俺の一つ下の子ですよ」
「あら。それはそれは。獅子ヶ谷さん、これからも大槻君と一緒に、映像専攻をよろしくお願いいたしますね」
「え……あ、はい……」
相変わらず獅子ヶ谷さんは心ここにあらずと言った様子だった。まぁ、知らない人間もとい、知らない人工知能相手に戸惑っているのだろう。
十杏さんは気にした風も無くにこりと微笑み。
「それでは、本当にありがとうございました」
深々とお辞儀をして、そのまま十杏さんは消える。俺は笑顔で感慨深く見送り、終わる。
――そのはずだった。




