第二十九話
「……ん」
身じろぎしながら俺は目を覚ました。
照明の明かりが眩しくて、目を眇める。ゆっくりと順応すると、次第に俺の顔を覆う陰に気が付いた。獅子ヶ谷さんの顔だ。
彼女は心配するような面持ちで唇を開いた。
「ご気分は如何ですか?」
「ああ、大丈夫……すまない、気を失ってたか」
少しずつ覚醒し始め、状況を思い出す。
場所は専攻室のまま。俺はそこで仰向けになっていた。しかし、どうしてだか獅子ヶ谷さんの顔が上にあって、しかも俺の頭の下が何だか柔らかい。これはもしや。
「膝枕……?」
「は、はい。すみません、寝心地悪かったですよね」
「そんなことは無いよ。夢見心地だった。ありがとう」
そう言って俺は上半身を起こそうと試みる。が、力が篭らなくて再び獅子ヶ谷さんの太ももに頭を落とす。格好がつかんぜ。
と、不意に額にひんやりとした感触が広がった。獅子ヶ谷さんの手が乗せられたのだ。
「無理はなさらないでください」
唇を突き出す獅子ヶ谷さんにやんわりと叱られ、俺は自嘲する。
「情けないなー、俺」
「そんなことありませんよ。格好良かったです」
「倒れたのが格好いいの? 獅子ヶ谷さんって実はドS?」
「違います! 私が言っているのは、絵を描いている時の先輩のことです」
「それでこのザマじゃあ幻滅でしょ」
「いえ……むしろ、傍にいながら先輩の体調不良に気付けなくて。すみませんでした」
思わず小さく笑ってしまう。
「何言ってんの。謝られるどころかむしろお礼を言いたいよ。こんなご褒美貰ったらね」
「ご褒美って……?」
「膝枕。しかもJKの膝枕。もっちりスベスベの膝枕」
「な、な、なっ」
顔を真っ赤に染め上げて、目を泳がす獅子ヶ谷さん。
俺は目を閉じて告げる。
「こんな状況だからこそ、『良い夢』を見られた」
「良い夢、ですか?」
「ああ。久留井さんが夢に出てきたんだ」
「あ……」
「俺が絵を完成させたことについて、褒めてくれた。凄いじゃないかって、よく出来たなって。自分の事のように喜んでくれた。かつてないぐらいに誉めそやされて俺は、ああ、夢なんだなって気付いた」
「……何故ですか?」
「あの人がそこまで褒めてくれたことが無いからだよ。だから俺は自分に都合の『良い夢』を見ているんだって気付いた。現実には起こるはずもない、起こりもしなかった事を、俺は夢の中に救いを求めて見ているんだって。要するに、俺は久留井さんに見て欲しかったんだ。俺が描いた絵を、そして今の俺自身を。でもそれが敵わないから、久留井さん本人の考えなんて二の次で、俺が救われたいがためだけに夢を見た。そう考えたら、久留井さんを俺は承認欲求を満たすための道具として見ているのかなって思えてきて……」
「そのようなことは」
「この半年、俺はずっと久留井さんの事を気に病んでいた。でもそれは本当にそうだったのかな。あれ程忌み嫌っていた絵を一度描き始めたら、全部忘れて無我夢中で描き続けた。それってつまり、この半年は傷心している自分に酔っていたんじゃないかなって思うんだ。犯罪者とまで揶揄された俺が、せめてもの安定剤として自己嫌悪に浸っていただけなんじゃないかって。そうすることで免罪符を得ようとしていたんじゃないかって。鬼畜外道な本性を、ひた隠そうとしていただけなんじゃないかって、そう思ってしまって」
悩んでいるんだ。悔やんでいるんだ。苛まれているんだ、と、自分に言い聞かせて被害者ぶっていただけじゃないのだろうか。自己防衛のために、センチメンタルに浸っていただけなんじゃないか。
熱に浮かされたようにうわ言をひたすらに喋っていた。別に返事は期待していなかったし、そもそもそこに考えが及ぶほど思考は働いていなかった。
けれど獅子ヶ谷さんがゆっくりと首を横へ振り、俺は反射的に彼女の目を見た。濡れた瞳が俺を射貫き、俺もまた釘付けとなる。
「作品は人生です」
子供をあやすような優しい声色に、俺はジッと耳を傾けた。
「この世には様々な表現が溢れています。芸学の専攻のみならず本当に様々で、何かを作り何かを成し遂げる事は、全て表現であり作品であると言えます。そして作品には思いが詰まっています。形が無かったり、無機質であるはずの物に、まるで命を与える。我が子では無いんです。きっとそれは半身。自分自身なんです。作品と作者は別物だと言う人もいますが、私はそうは思いません。少なくとも、先輩の絵はそのはずです」
獅子ヶ谷さんは顔を上げた。つられて俺も彼女の視線を追う。視界に捉えたのは、キャンバスに描かれた番の蛙の絵。
「あの絵を見ていると、こちらが恥ずかしくなりそうです」
「え。どういうこと?」
「だって、あの絵には、愛が詰まってるんです。惜しみない愛が」
「愛……?」
「はい。先ほど先輩はご自分を鬼畜外道と仰っていましたけど、そんなことはありませんよ。あの絵には、無垢で初心で純粋な愛が見て取れますから」
「そうなの、か?」
「勿論です。無意識だったのでしょうけれど、様々な箇所にその痕跡があります。特に、彼らの頭上から差す一筋の光明。この絵は井戸の中の蛙を暗喩しているのではありませんか? だとすれば、どうして上の蛙は下の蛙を足蹴にして跳ばないのでしょう」
「それは……交尾中だからじゃないのか?」
「こう――え、えーと。そうですね、そうとも考えられますね。ですけど私は先輩が光明を描いた意味を考えた時に、一人では無く、一緒に井戸を出たいと思っているのではないかと推察しました。だからこそ、あえて光明を描いたのだと」
「俺って、そんな深く物事を考えてないんだけどな」
「それこそが無意識の美です。あ、いえ。この場合は、無意識の愛、と言った方がよろしいのでしょうか」
獅子ヶ谷さんの言葉の全てを言葉通りには受け入れられなかった。でも、心の底で何か腑に落ちる感覚もあった。それもまた、無意識故の感覚なのだろうか。
「ただ、無意識の愛という意味では、久留井先輩も当てはまりますけどね」
「久留井さんが、愛? 何の冗談だ?」
愛よりお菓子だぞあの人は。愛なんて噴飯ものと唾棄してたんじゃなかろうか。
しかし、獅子ヶ谷さんは訳知り顔を崩さない。
「昨年の芸学祭で映像専攻が出展した作品には、ありったけの愛が込められていましたよ」
「昨年のって、あれは俺の絵を映しているだけの紛い物だろう」
「いいえ。あれも立派な表現です。そもそも映像とは何だと思いますか?」
「静止画の連続、じゃないのか?」
「本来はそうです。トーマスエジソンがキネトスコープを開発して映像の概念を作り、リュミエール兄弟がシネマトグラフで映画の基礎を築いた。では当時と現在の映像作品の違いは何でしょうか?」
「映像が白黒ではなくなった、とか?」
「うーん。確かにそうですね。ではこう言い変えましょう。映像作品において、映像以外で必要とされるようになった要素は何でしょうか?」
俺はそこまで言われて思いついた。
「音か」
「その通りです。映像作品は当初、チャップリンに代表される無声映画が主流でした。しかし時代は流れて音の入った映像作品、トーキングピクチャーがアメリカはハリウッドを中心に隆盛を極めるに至ります。そして、昨年の映像専攻の作品にも音が入っていたのはご存知でしたか?」
「え……知らない」
そう言えばあの作品を確認した際、パソコンにスピーカーが付いていなかったことを思い出した。だから俺は音に気付けなかったのか。
「けど、そうであるとして、だからどうしたんだ。まさか、音が入っているから愛を感じたと? 映像に適当な音楽を入れるぐらいで愛なんて感じられなくないか?」
もっと言えば久留井さんは細貝さんと親しそうだったし、彼に作曲を依頼していた可能性もあるだろう。そう考えれば、去年の芸学祭で細貝さんが映像専攻の作品を鑑賞したことも、そして久比さんでは無く、映像専攻の作品を推していた事にも合点がいく。というのは、卑屈な考えだろうか。少なくとも道理には適っていると思うのだが。
けれど、獅子ヶ谷さんは俺の考えを察したように小さく首を振った。
「いいえ。あれは久留井先輩ご自身が音を作り、編集したものでしょう」
「どうして言い切れるんだ」
すると獅子ヶ谷さんは自らの胸に手を当てた。
「それは簡単です。あの作品に入っていた音は、心音だからです。そしてその意図を考えるに、ご本人の心音である可能性が極めて高いのです」
「心音って、心拍音だよな? そんなのを一体どういうつもりで」
「確証はありませんが、久留井先輩は先輩の絵を初めて見た時の心音を疑似的に再現したのではないでしょうか。だからこそ映像作品へと昇華されているとも言えます」
「そうなの、か?」
「現代の表現における潮流はAIとの差別化です。その回答として心音を入れるのは斬新で面白い試みです。現代の表現としても成り立たせながら、一般の鑑賞者にはその心音は表現を楽しむ手引きともなります。その上、玄人向けの鑑賞法もあります。それは、久留井先輩の心音を楽しむこと」
「変態的な意味合いか?」
「違いますっ! そういう意味では無くて、作品を鑑賞している人を鑑賞するということです。これは言い換えれば感情の高ぶりの視覚化ならぬ聴覚化です」
俺は思わず頬をぽりぽりと掻いてしまう。
「随分高尚な話過ぎて俺には付いていけん」
「ふふ。では話題を変えましょうか。とは言っても、延長線上の話にはなってしまうのですが、どうして私があの作品を未完成だと判断したと思いますか?」
「あぁ、そう言えばそうだったな。どうしてなんだ?」
「実は、あの作品の終盤、心音が途絶えていたんです」
「それは……確かに未完成だな」
「ええ。ただ、だからこそ更に愛を感じました。絵と心音の融合は斬新ではありますが、その心音自体は何ら珍しいものではありませんよね。あるいは他人の心音であればネットなどを使えばいくらでも拾えます。それを加工すれば心拍数だって自由自在。久留井先輩程の人なら、一時間もあればあの作品に編集することが出来るのではないでしょうか」
「……だから、さっき久留井さん自身の音だって言ってたのか」
「あくまで想像に過ぎませんけどね。でも、更に想像を重ねれば、こうとも考えられるんです。あの作品は本来久留井先輩ご自身が鑑賞することを目的にしていたのではないか、と。つまり、過去の自分の感情の高ぶりを追体験するための作品では、と。だからこそ、ずるいんですよ久留井先輩は。まるで先輩の絵を独り占めしたような作品じゃないですか。許せないです」
むーっと唸り声を上げる獅子ヶ谷さんに、俺は乾いた笑い声を上げながら彼女の腿から上半身を起こしてそのまま立ち上がる。
「あ。大丈夫ですか?」
「ああ。お陰様でね。いつまでも寝てるわけにはいかないでしょ」
「私は……構いませんけど」
と、何やらごにょごにょと獅子ヶ谷さんが言うが、俺は意にも介さず告げる。
「それに、獅子ヶ谷さんにはお願いがあるんだよ」
「お願い、ですか?」
きょとんとする彼女に俺は一つ頷く。
「俺が描いた絵を、あの作品に加えて欲しい」
「……そのつもりで、私もいました」
「ああ。だろうね。あれは俺の作品だけでなく、久留井さんの作品でもある。そうであるならば、彼女が死に絶えたその瞬間までに描かれていた俺の作品を入れてこその完成形だ。でも、俺のお願いって言うのは、もう一つあってさ。心音についてなんだ」
「何か、お考えがあるのですか?」
「ああ。実は――」




