第二十三話
午後の授業開始を告げるチャイムを聞いて、俺は足早に廊下を歩いていた。
理由は当然、映像専攻室へと向かうため。
以前に十杏さんは言っていた。久留井さんが始業式の後に俺の蛙の絵を見て『面白い』と言っていたと。そしてそれは最大級の賛辞だと。そして、映像専攻に預かってほしいと言う生徒を何人も断ってきた中で、俺を預かることを自ら提案していたとも。
一昨日朱音は言っていた。久留井さんなら俺を井戸から出せると思っていると。そして今朝は、久留井さんが俺を表現者として最大限尊重しているのだと言っていた。
思い出すまでもない。彼女は、久留井さんはいつだって俺の味方でいてくれたじゃないか。いつだって俺を褒めてくれ……てはいなかったか。俺に才能はある風なことをよく口にはしてくれていたが、その核心の部分はいつも煙に巻かれていた。
思わず笑ってしまう。
あの人は捻くれているから仕方ない。面と向かって褒められない性格なんだろう。お子ちゃまなんだ。どれだけ表現に造詣が深くても、精神面は小学生。だからこそ始業式であんな馬鹿みたいな罵り合いを俺と出来る。そしてそう考えれば、久留井さんは俺のことを弟子や後輩ではなく、対等な存在としてずっと見ていてくれてたのだと分かる。
あぁ、俺も結局はお子ちゃまなんだなぁ。精神年齢十歳前後の久留井さんと喧嘩してしまうなんて何よりもの証左。ただ、今回は俺に全面的に非がある。ならば、謝らなきゃ。一歩先を行ってしまった久留井さんに追いつくために、俺は謝るんだ。そして、共作の件を飲もう。いや、むしろお願いしよう。いつまでも井戸の中で待ち続けるのは終わりにしよう。そんなのホラー映画の悪霊だけで十分だから。
そうして映像専攻室の前に辿り着き、俺は扉に手を掛けてから一呼吸して開き。
「まっことに大変申し訳ございませんでした!」
はい、土下座。顔を見るまでも無く素早く土下座。これなら人間として最低限の良心を持ち合わせているのであれば罵れまい。……いやでも待てよ。久留井さんはそんなのを持ち合わせていない節もあるから構わず罵倒するかもしれんな。であれば、土下座損である。
だが、一度やってしまったものは仕方ないので、声がかかるまで土下座を維持する。と。
「何故、土下座をなさっているのですか?」
「え」
思わぬ声に俺は顔を上げた。すると、なまじ久しく感じる姿があった。
「え。十杏さん? メンテナンスは終わったんですか?」
十杏さんは俺の質問に淑やかに微笑んだ。
「はい、お陰様で快調に御座います」
「そうですか。それは何よりで……にしても、どうしたんですか?」
「と、仰いますと?」
「いや、だって――ケチャップですか、それ?」
十杏さんのメイド服の前掛けに赤い染みが点々と付着していたのだ。
俺が赤い染みを指しながら尋ねると、十杏さんは浮かべていた笑みをより深く刻んだ。三日月めいた瞳が心なしか仄暗い。
「ケチャップでは御座いません。私の存在証明に御座います」
「は、はぁ。存在証明……」
意味が飲み込めない。が、十杏さんの背後に人影を見つけてそちらに意識が向く。
いつもの窓際の椅子に腰かける女性らしき姿。顔は見えなくとも見紛うはずも無い。久留井さんである。しかしながらどうしてだか久留井さんは机に突っ伏していた。まさか、俺への怒りから不貞寝でもしているのであろうか。
であればと、俺は立ち上がりそちらへと近寄りながら、宥めようと試みる。
「あ、あのですね、久留井さん。お怒りはご尤もです。ご厚意を蔑ろにして、あまつさえ遅刻して。気分はさしづめ飼い犬に手を噛まれて放尿された気分でしょうが、ここは平常心で、ええ、平常心で俺の言葉を聞いてほしくて――」
そりゃもう平身低頭で、何なら近づくに連れて段々と身を屈めていって、久留井さんが振り返って来たと同時に土下座をする準備すら整えていた。
だからこそ、視点が低かったからこそ、彼女の足元に広がる不可解な光景に気が付いた。
「――え?」
ぴちゃりと雫が落ちて、久留井さんの足元に広がる赤い溜まりに波紋が広がる。視線を上げれば、だらりと下がった彼女の左手の指先からその雫は垂れていた。
一瞬、久比さんの前で突き刺した傷が開いたのかとも思った。だが違う。あの時久留井さんは右手を刺したのだ。この、赤に塗れた左手では無い。
その時、ずるりと久留井さんの身体が机の上から滑り落ちるように傾いた。俺は慌てて彼女の腹部と肩を背後から支える。
柔らかく、温かった。そして腹部を持つ左手が、妙に湿っている。
それが何かを直感的に理解しながらも、脳が拒絶する。
代わりに俺は久留井さんの身体を抱き直すと、肩を抑えていた右手で彼女の頭を支えた。重力に従って垂れ下がり、こちらからでは覗けなかった彼女の顔をこちらへと向ける。
まるで眠っているようだった。瞳を閉じ、口を結び、その姿は安らかに眠る赤子を彷彿とさせた。今にも目を覚ましそうな顔は、けれど酷く青白かった。
すると、狂笑が響いた。ぐわんぐわんと、何をされたわけでも無いのに揺れ動く脳みそは、その笑い声を気にも留めない。だから、その後に続く声も俺は頭に入らなかった。
「加恋様は死にました! 私が殺したのです! 私の存在意義は加恋様を殺すことにこそ御座いましたから。加恋様を殺す事こそが私の存在証明だったのです!」
「……」
「そもそもにして、加恋様が今まで生きてきたこと自体がおかしかったのです。加恋様は感情を揺さぶられた瞬間に私に殺される事を本懐となさっていた。つまり私と全く同じ目的をお持ちだった。にも関わらず、今まで生きていたのはバグです。私のバグ。制作者の意図を汲み取れず、共有していたはずの目的を行動に移さなかった。バグによって、勝手な憶測を巡らせ、自分の存在理由を否定して存在していた。芸学に通い、様々な表現に触れ、そして貴方、大槻君と出会い、その表現を目の当たりにして、加恋様がピークに達していると判断できる状態になっても、加恋様を殺さなかった。バグだからです。自らの存在理由とは矛盾した思考を持ったバグだからなのです! ハハハハハハ!」
久留井さんの胸元を見れば、衣類が破れて血肉が覗く部位があった。刃物で一突きされたのであろう。
と、扉がノックされた。こちらの返事を待たず扉は開き、姿を見せたのは朱音。
「どーも。仲を取り持ちに来た部外者で――って、なによ……これ」
朱音は呆然としながら立ち竦む。と、再び狂笑。
「殺しました! 殺したのです、私が。存在を証明したのです。私が私である存在を刻んだのです!」
その頃にはもう、俺も現実を理解していた。理解させられていた。だから、久留井さんの身体を床に寝かせ、そして後ろを振り返った。
「こ、殺したって。久留井さんを……?」
らしくもなく動転した様子の朱音に。
「そうです! 殺しましたハハハハハハ!」
またまた狂笑。俺はその声の主の前に立ち。
「笑うな……」
「ハハハハハハ!」
声が震える。怖いんじゃない。込み上げるんだ。思いが。その余りにも大きい思いが、俺の声を震わせてしまう。そしてその思いの一部分を吐きだすように叫ぶ。
「笑うんじゃねえ! てめえは十杏さんじゃねえ! 十杏さんの姿で笑うな!」
「ハハハハハハ!」
「ちっ、くしょう」
涙が零れる。どうしていいか、自分でも分からない。感情の奔流に抗えず、ただただ奥歯を噛みしめ、拳を強く握りしめ、涙を零す。と。
「ハハ……壊して、ください」
「……え?」
笑い続けていた十杏さんは、次第にその鳴りを潜め、空虚な顔を見せ。
「加恋様がピークで死ぬことを望まれたように、私もまた、目的を果たした今、このピークで壊されるべきなのです。お願いします。もうこれ以上、ここにいたくありません」
虚ろ。話しかけているのか、独り言なのかすら分からない。だが、十杏さんはそこで俺を確かに見つめた。
「本当に、申し訳ございませんでした。お約束を守れなくて」
滲んで見える彼女の瞳は人工的なものなのだろうか。あるいは。
どちらにせよ、俺はその時、本物の十杏さんを、俺が知っている十杏さんを垣間見た気がして。
「俺には……出来ません。壊すだなんて、出来ません。貴方は、久留井さんにとって掛け替えの無い、家族同然の存在だから……」
何が正しいのだろう。正解が、分からない。彼女を、十杏さんをどうするべきなのか。
でも、久留井さんなら、十杏さんを壊さない気がした。あの人のことだ、自分が殺されても、十杏さんを責めない。十杏さんには罪が無いと言って、そのままにする。
そう思った時。
「ああ……」
恍惚としながら、十杏さんは告げた。そして。
「ありがとうございます。加恋さ――」
言い終える前に、十杏さんは頽れた。無機質な物音を立てて床に伏せる様を、俺は唖然としながら見つめていた。




