第二十話
そんなこんなで朱音に表現館へと連れてこられた俺は酷く立腹していた。だが朱音はそんな俺に構わず、エスカレーターで表現館の二階に上がる時には「上へ参りまーす」とか一人で言っていた。それはエレベーターだろと突っ込む気にもならず、黙って、本意では無いが仕方なく彼女の後を追った。
どういう腹積もりで久留井さんが俺を表現館へ向かわせたのか。簡単だ。久比さんの絵を見させて、自分の無力さを痛感させたいのだろう。そして共作を飲ませたいと。
だが残念だったな。俺は既に自分が無力な事を知っている。その上で、俺は共作を拒んだのだ。今更変わらん。しかも久比さんの表現は絵専攻室で制作している場面を見たこともあるし、少し前にはネットで見漁った。今更驚くような事もないだろう。
と、表現館の廊下を歩いていた朱音がふと立ち止まり、こちらへと翻った。そこは一つの扉の前。彼女はそこを掌で指し示した。
「ここ」
「ここが――」
「そう。ゲテモノ専攻の部屋」
「おい。よりにもよってそんな頭いかれてそうなとこに連れてくるな」
我ながら低い声を出す俺に、朱音はくすくすっと笑い。
「冗談。ここが、絵表現の部屋」
下らねえ冗談だ。と、そんな些末な考えは、彼女が後ろ手に開いた扉の向こうを見て霧散した。
思わず息を飲み込む。
絵。絵とは何なのだろう。絵とはキャンバスに描かれた物。絵とは紙に描かれた物。絵とは壁に掘られた物。絵とは地面に描かれた物。絵とは、絵とは。
扉を抑えたままの朱音に促され、俺は絵表現の部屋に一歩を踏み出す。
室内は明るく、そして暗い。白く、黒い。赤く青く緑。シアンマゼンタイエロー。色とりどりの世界は絵画だけに留まらず、部屋全体に広がっていた。一枚一枚の絵画をより際立たせるように部屋が彩られている。まるでこの部屋自体が表現の一種であるかのよう。だからこそ、俺はその雰囲気に飲まれていた。
茫然とする俺に、朱音は何かを察したように語りかけてくる。
「表現館は表現が最大限に活かされるように造られているわ。表現者自身が部屋作りを指定することも勿論あるけど、絵専攻はたった一人によって造られているわ。学長によってね」
「学長が、これを」
俺は部屋の中を歩き出す。
数百枚はある大小様々な絵画はそれぞれの世界観を持った上で、部屋の造りが更にそれを際立たせる。美術館にすら足を運ばずにネットで見漁っただけの俺からすれば、新鮮であり、斬新だった。
夢現、ふわふわとする妙な感覚を覚えながら、俺は部屋を回り、とある場所で足を止めた。すると、微笑交じりに朱音が声をかけてくる。
「恋煩いでもしているような素振りね……って、渡、聞いて――あ」
俺がジッと見つめているそれに気付き、朱音は黙った。
二人の人物が描かれた絵。一人は赤子だ。赤子は無垢な顔を、自身を抱くもう一人へと向けている。その視線を向けられる人物は、椅子に腰かけながら赤子を愛おしそうに抱く白髪の老人。久留井さんがこの作者を表した『対比』という武器を知った今ならば、絵の意味が理解できた。この作品は、生と死を表現していると。つまり、赤子を抱く老人は事切れているのではなかろうか、と。
絵画の下に設えられたプレートを眺める。タイトルは『魂の匂い』。作者は『久比涼花』。
まるでルネサンスを彷彿とさせる画風――要するに空間や陰影や人間の写実性、そして殊更に描かれた人間の表情、最後に赤子を愛おし気に眺める老人を普遍的な美と定義づけるのであれば、ルネサンス期の絵画を意識していると言って過言はないだろう。ルネサンスは原点回帰や再生などの意味合いがある。それを現代で蘇らせるのであれば、ギリシャ時代から続く表現の循環を考えさせられるのは無知の勘繰りだろうか。
ただ、タイトルには首を捻ってしまう。魂の匂い。それが意味するところが分かりかねる。だが、その意図は絵画の外、絵画を飾る壁のコントラストで察した。
壁は赤子のいる左側をどす黒く、そして事切れているであろう右側を真っ白に染めていた。それが意味するところは、魂の循環。この絵画の世界は仏教の六道、人間道ではなかろうか。そしてこの老人はニルヴァーナ、つまり解脱し、六道から解き放たれた。そして残された赤子は、魂が汚れたまま人間道に産まれた、と。
感情や理論ばかりが重要視されるこの世の中で、あえて久比さんは宗教的観念を強く絵画に落とし込んだ。そしてそれは彼女だけの作品では無い。この壁のコントラストあってのものだろう。学長が久比さんの意図を汲み取って作ることは、彼女自身も理解し、そして信じていた。だからこそ、このタイトル。魂の匂い。ニルヴァーナを題材にアメリカンなジョークも交えていらっしゃる辺り、余裕綽々でこの作品に銘打ったことだろうさ。
「……」
俺は呆然とした。無様なぐらいに呆けていたさ。傍から見れば、きっと。
「今度は蛙が井戸を出て、世界の広さに驚いたような顔ね」
「……絵画が絵画だけで表現を完結させていないなんて、思ってもみなかった」
「展示場所や展示方法によって表現は顔を変える。常識よ」
「確かに、そうか。イースター島のモアイ像やペルーのナスカの地上絵が良い例か」
「うん。けど私達芸学生は芸学内で表現を披露しなければならない。フェアでなければならないから。同時に、学長が展示場に手を加える事を利用するのもフェアなの」
「そんなの、ズルくないか?」
「何言ってるの。そういう試行錯誤をすることは、差別化を図ることは、むしろ才能として評価されるわ……けど、久比さんはこの手を何度か繰り返している。他の生徒だって後追いで真似をし始めている。いい加減別の方法を模索した方が良い。とも思うけどね」
いつぞやに久留井さんに講義された内容が脳裏を過ぎる。久比さんが、表現者として生き残れないという予想を。
「俺には、わかんねえ。このままの何がいけないのか」
「渡が分からなくても、久比自身が承知しているはずよ。自分の実力や才能が誰よりも優れているのならば、自己研鑽を積むのみだから。けれどあの人は、他人の邪魔をした。私や渡とかにね。それってつまり天井が見えているのよ、あの人には。自分の限界を決めつけて停滞している。このままだと多分、賞味期限が切れるまで、このスタイルを貫くでしょうね。今に縋りついて、未来を恐れて」
それは、そうなのかもしれない。だからこそ俺は。
「だからこそ私は、勿体ないと思う」
「え」
「あの人の目には天井が見えているかもしれない。でも、あの人なら、久比さんならきっとそんな天井も破ってみせるはず。それだけの才能を持ち合わせて、努力も重ねてきたはず。だからこそ勿体ないって思うの。まるでその姿が、井の中から出たがらない、怖がりの蛙みたいで。高く飛ぶことを放棄しているように見えるの」
まったく同じ感想を、俺も抱いていた。
「けど、分からなくはないの。自分より優れた才能を目の当たりにして、思わず尻込みしちゃうその気持ち。私もそうだったから」
俺も、そうだ。久留井さんの表現によって骨抜きにされた一人だ。
黙り込む俺を一瞥し、朱音はとある場所を見た。
「私が筆を折った一番の要因は、この人の絵」
「これは」
朱音の視線を追い、俺が目にしたのは、一匹の蛙が描かれた絵。それは、俺の描いた絵。
思わず唖然をする俺を横目に、彼女はクスッと笑う。
「別に恨んではいないわよ。むしろ感謝している。私は貴方のお陰で世界が広がったのだから。私は貴方をきっかけに井の中から飛び出せた。だからこそ、私が見上げた上の世界にいたはずの二人が、ジッと井戸の中に籠り切っているのが見ていられない」
「お、俺は別に篭り切ってなんか!」
「絵表現という井戸に籠り切りらしいじゃない?」
「ぐ」
やっぱりこいつ、久留井さんの差し金だ。俺が直面している問題を知っている存在なんて久留井さんしかいないのだから。
俺は嘆息交じりに苦し紛れな戯言を吐く。
「それを言うなら、朱音だって今は演技にこだわっているんじゃないのか?」
「ううん。こだわってなんか無いわよ」
「なら、明日から絵表現に戻れと言われたら戻るのか?」
「戻るわけないじゃない。演技こそが一番よ」
「それ見たことか。それをこだわっているって言うんだよ」
すると朱音は心底おかしそうに笑う。
「私は演技専攻にこだわりはない。けど私の中でのこだわりはある。それは、自己表現」
「自己表現……?」
「ええ。私という存在は絵や演技によって形作られているものでは無い。私を表現するに当たって、絵や演技が存在しているに過ぎないの。その上で、今は演技が一番だけど、それよりも私を表現できる表現が見つかれば、明日にだって鞍替えするわ」
「減らず口を」
「表現者たる者、こだわるべき場所と、こだわるべきではない場所、弁えるべきじゃない?」
分かっている。分かっていたさ。俺が意固地なだけだと。でも、意固地じゃなきゃ怖いんだよ。俺は朱音みたいに強くないんだよ。保身や保険を必要としてしまうんだよ。だってそうでなきゃ、自己を保てないから。絵があるからこそ俺。俺は絵を描いているからこそ存在している。そんな凝り固まった価値観を、今更解すだなんて。
「……私は、久留井さんなら渡を井戸から出せると思っているわ」
「っ」
俺は溜まらず朱音を睨む。だが、彼女はあっけらかんと笑い。
「意外とその井戸の壁は、世界のどんな絶壁よりも高いかもしれないわよ? そこさえ越えれば世界はずっと住みやすくて。そんな場所に差し伸べられた手を、貴方はどうするの?」
と、言った。




